第二十五話 「公爵令嬢は憂鬱になる」
夜が明け、太陽が大地を照らす時間だというのに、何故かあまり日差しが差し込んでこないように感じて外の景色を見れば、珍しく屋敷の周囲に霧が発生していた。
若草色のドレスに着替えた私は、白鳥を抱きかかえ、二階の自室から窓の外でけぶる雑木林や、遠くに霞む森をぼんやりと眺めながら思った。この霧は近い未来の姿も分からず、遠い将来の見通しに至っては全く見えない、私の状況を暗示しているようだと。
そんな事をとめどなく考えていれば、何処ともなく馬の蹄鉄の音が聞こえてくる。その音はどんどん近くなり、やがて艶やかな葡萄色に金の意匠が施された、ひときわ豪奢な二頭立ての馬車が屋敷の門前へやって来た。それが見えた瞬間、腕の中に居た白鳥はバタバタと慌てて、私の腕から抜け出す。
「あ」
制止する間もなく白鳥は、まるで逃げ出すように走り去り姿を消した。唖然としながらも窓の外に視線を移せば、馬車の中に見るのは見覚えある、ダークグレーの髪色。昨日再会したばかりの大男、マリウス様が馬車のドアを開け現れた。
そして地上に降りた彼が馬車内に手を差し出せば、マリウス様にエスコートされて現れたのは鮮やかな真紅のドレスを身にまとった、いかにも気の強そうな金髪縦ロールの美女。忘れもしない、私の元婚約者の妹、ジュリア姫だった。
金髪縦ロールと真っ赤なルビーの耳飾りを揺らしながら、豪奢な馬車から降り立ったジュリア姫の鋭い眼光が、屋敷の二階に居る私に向けられたように感じ、一瞬、息をのんだ。
とにもかくにも、彼女に対して胸中いろいろと思う所はあるが、曲がりなりにも面識がある他国の姫君。訪ねて来られたからには、最低限の歓待はせざるをえない。セバスティアンとフィリップに、急ぎ指示してジュリア姫を客間へ通す。
彼女が私に用があって、はるばるやって来たのは間違いないのだろうが個人的には正直、会いたくない相手だった。先ほどの様子を見る限り、マリウス様は姫の護衛あたりであろうか。まさか彼とジュリア姫が繋がっていようとは……。最早、項垂れるばかりだった。
「あああ……。憂鬱だわ……。何でジュリア姫が、ここに来るのよ」
「元婚約者の妹姫か。何の用で来たのか知らんが、他国の姫がエリナに会いに来たんだから、会わない訳にはいくまい?」
「そうなんだけど……。あの姫は苦手っていうか、トラウマなのよね……」
客間の前の廊下で、こめかみを押さえて 意気消沈している私に、ミシェルは窓際で腕を組みながら微笑した。傍で控えているセバスティアンとフィリップも気遣ってくれているのが分かる。
「護衛騎士として、私も傍についていてやるから、しっかりしろ」
「うん……。でも、やっぱり顔をあわせたく無いわ……」
プラチナブロンドの麗人に励まされるも、暗澹たる気持ちが隠し切れない。すると不意に背後から声をかけられた。
「お、じゃあ、俺が先に挨拶するぜ?」
「え? ヴィクトル!」
赤毛の料理人を見れば、彼が左手に持ったシルバートレーの上に、甘い香りを漂わせるマドレーヌが綺麗に盛られた皿があった。
「客人が来たって聞いたから、ちょうど焼けたマドレーヌを持って来たんだ!」
「ああ、悪いわね……」
「来客はお姫様なんだろ? 俺が持っていくぜ!」
「え? ちょ……」
ヴィクトルは私に一つウインクを送ると、爽やかな笑顔を見せながら張り切って客間へ入った。私が唖然としているとミシェルが呟く。
「こうなれば仕方ない……。奴が姫君に無礼を働けば、この場で私が叩き切ろう」
護衛騎士は冷徹な表情で、腰に帯びた細剣に手をかけ、いつでも抜刀できる構えだ。
「落ち着いてミシェル! いくらヴィクトルでも、他国の姫君に手を出すような無茶はしないわよ! 多分……」
私たちはドアの隙間から中の様子を窺っていたが、当の料理人は表情も変えずに、チラリとジュリア姫を見定めると、彼女の前にあるオーク材のテーブルへ、黄金色に焼けたマドレーヌの皿を置き、優雅に一礼して、そのまま客間を退出した。
「……」
「驚いたな……。お前の事だから、てっきり隣国の姫君であろうが、見境なく口説くのかと思っていたが……」
客間を出て無言のヴィクトルにミシェルが声をかけると、料理人は困惑気味だった。
「いや、俺も自分で不思議なんだよ。いつもなら、こう腹の底から熱いパッションが溢れ出して、いくらでも口説き文句が出てくるんだが、あの姫様の前じゃあ、サッパリだった……」
「フン、外交問題に発展しないで何よりだ」
腕を組んだミシェルは、そう呟いた後に小さく舌打ちした。どうやら、この機会にヴィクトルを叩き切れなかったのが心底残念な様子である。
「やっぱり、アレだな。こんなにもあの姫様に何も感じないのは、俺がすでに世界一美しい運命の天使に巡り会ってしまった所為だと思うんだ!」
「は?」
ヴィクトルは突如、私の方を向いたかと思うと片手を壁についた。私はヴィクトルと壁に挟まれ、いわゆる壁ドンされている状態だ。
「初めて出会ったあの日から、俺はずっと天使の事を考えている。もう天使以外の女は目に入らな……っ! 痛ってえ!」
ガッ! ガッ! と足元から音がしたと思って視線を向ければ、いつの間にか現れた白鳥が、くちばしで容赦なくヴィクトルの脚を攻撃していた。
「てっめえ! 今日という今日は許さん! 全身の羽毛を毟って丸焼きにしてやるっ!」
額に血管を浮かせて怒りに震える料理人を見て、白鳥は身の危険を感じ、バタバタと逃げ出した。その白鳥を激昂して追いかけるヴィクトルに皆、呆れ果てた。
「セバスティアン……。一応、ヴィクトルが白鳥の丸焼きを作らないよう、見に行って貰えるかしら?」
「はい。かしこまりました」
老紳士が、うやうやしく頭を下げて、料理人を追う。その後ろ姿を見送ってから、私はゆっくりと息を吐き、客間のドアノブを回した。




