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第三十話『女王』

 アラクネの女王は、深い呼気を漏らしながらその目を瞑っている。美しい女性にしか見えない胴体は、脈動しながら定期的に上下していた。


 この種族が人間らしき胴体をつけるのは、人類を油断させるため。言わば疑似餌に他ならない。


 麗しい女性と見間違えて、もしくは魔性と知りながらもその美しさに見惚れて足を止めた瞬間を、彼女らは狙っている。


 女王は胴体こそ人類の女性とそう変わらないサイズだが、下半身たる蜘蛛の身体は巨大の一言。今は睡眠中のようだが、起き上がれば民家の屋根にまで手が届くだろう。

 

「……不用心な。警戒なく眠っているな」


「奴にとって、ここは自分の家の中だ。周囲は配下で固めてる。襲われる心配なんざないって事だろう」


 事実、ここまで来るのに遭遇した魔性の数は両手で足りない。


 愚直に正面から攻め入ればとっくの昔に大騒動になり、女王にまで伝達がいく手筈なのだろう。


「とはいえ、アラクネは聴覚が発達してる。これ以上近づけば感づかれるな」


 女王までは二十歩以上の距離がある。武芸者たるアニスでも、到達に数秒はかかるはずだ。


 とすれば、ここで取れる手は一つ。


 ヴァレットが全員を統括するように言った。


「事前に話していた案でいきましょう。私が呪文を唱えます。皆は周囲を警戒して」


 これが最も安全で、最も効率的な討伐法だ。


 こちらの最大の武器はヴァレットが放つ狂乱魔導。アニスの一撃も凶悪ではあるが、接敵しなければ使えない。


 とすればヴァレットを中心に周囲を固め、遠隔からの奇襲で全てを終わらせるのが一番。


「悪いが、詠唱を始めたら『異貌の外衣』は使えない。敵地のど真ん中で、女王を殺すか、他の魔性が集まってきて殺されるかだ。俺はヴァレットの補助に回る。全員、上手くやってくれよ」


 『異貌の外衣』は魔女が残した霊性。そうして、俺もまた魔女が残した霊性だ。


 魔女の力同士は相反し、同時には使えない仕様になっている。魔力の外殻を作るだけならまだしも、ヴァレットが魔導を使うなら話は別だ。


 詠唱を始めた瞬間、『異貌の外衣』の力は即座に掻き消える。

 

「分かりましたです。オジョーサマも、リザにお任せください」


 リザはバイコーンの傍に控えるようにしながら、その手綱に手をかける。


 彼女らの役目は見張り。アニスが前線を支え、ヴァレットが後衛にて火力を放出する。リザはその間バイコーンとともに周囲に目を光らせ、いざとなれば鞄に詰め込んだ道具で最低限の時間を稼ぐ。


 ――と言っても、そう大きな役目を期待しているわけではない。


 ヴァレット側の人間と目されているリザを一人にして、異郷者や他の連中に襲われるよりは、手元に置いておくほうがまだ安全と判断しただけだ。


 たとえここが、明確な死地であったとしても。


「ふん、誰にものを言っている。己が遅れを取る事などあり得ん。前は任せておけ」


「有難いお言葉。なら良い――ヴァレット、初めてくれ」


 言いつつ、ヴァレットの片手を握る。


 ヴァレットの魔導行使には、必ず俺と彼女が接触している必要がある。俺というアイテム無しに魔導を行使できるのは、何処まで行っても魔女だけ。


 ゆえに彼女もまた、俺の指を強く握り返した。


「ええ、任せておきなさい、グリフ」


 頬には笑みが浮かんでいた。それが強がりに過ぎない事を痛いほどに理解する。


 彼女は決して強くない。今にも両脚をがたがたと震わせてしまいそうなのを必死に抑え込んでいるはず。


 公爵などではなく、田舎で羊の面倒を見ている方がよっぽど性に在っている。もしかしたならば、そんな幸福の形もあったかもしれない。


 けれど彼女は、ヴァレット=ヘクティアルとしてここに立っている。


 平穏な幸福を噛み潰しながら、声が魔の音を奏でる。


「『この残虐の泥からは』『悪魔も目を背ける』『目にする者は神様だけ』――」


 瞬間、『異貌の外衣』が剥がれ落ちる。急速に膨れ上がるヴァレットの魔力に、女王の全身が跳ね上がった。


「ンム、ゥ――テキ、カッ!」


 赤の瞳が大きく見開かれてぎょろりぎょろりと周囲を見渡し――もはや反射の域で大剣の如き前脚をこちらへと向け突撃させた。


 まるで悪夢のような俊敏さ。巨大な質量と、虫の流れるような素早さ。魔性の力で一体となったそれは、奇襲をものともせず侵入者を穿たんと放たれる。


 ある意味で、俺は初めてボスと言える魔性にこの世界で出会った。これがゲームではない、現実の脅威。現実の魔性。


 比喩ではなく、瞬きをする間に命が消えていてもおかしくない。


 それを押し留めたのは、ただ一つ。


 まるで神業のような刃の輝きだけだった。鉄と鉄が噛み合ったかのような接合音。


「ハッ! 虫如き、少し大きくなった程度で己を討ち取れると思ったか!」


 アニスは欠点さえ露呈しなければ、素晴らしく一流の武芸者だった。


 刹那ほどの出来事に対応し、正面から女王の前脚を叩き落としている。


 ゆえにこそ、もうヴァレットの詠唱は止まらない。


「――魔導展開『狂乱の泥嵐』」


 直後、足元の土がぼこりと隆起した。それらはぎゅるりぎゅるりと勢いよく音を立てながら幾つも姿を現し、何時しか一つの嵐のように吹き乱れる。


 狂乱魔導は、基本的に状態異常を相手に与えるのが本分だ。敵の意図を削ぎ落し、こちらの意図の通りに置き換える。


 しかし攻撃型の魔導が存在しないわけではない。むしろダメージと状態異常、両方を与えてこそ狂乱魔導はその本領を発揮する。


 噴き上がった土は何時しか泥に変じ、竜巻の如き姿となって咆哮した。


「コレ、ハ――ナゼ」


 女王が、その泥の嵐に瞠目する。


 恐怖ではなく、動揺に近かった。まるで見るはずがない幽霊を見てしまったかのような、凍結した感情。


 だが嵐は、感情の動きを待ちはしない。


「さぁ、行きなさい!」


 ヴァレットの号令に従って、泥の嵐がぎゅるりりと音を立てながら女王へと勢いよく突き進む。


 その規模は女王のスケールに引けを取らない。いいやむしろそのまま呑み込んでしまいそうなほどの勢いで、嵐は女王へと激突する。


 そうして――そのまま、泥の嵐は女王を呑み込んだ。勝った。そう思った。


 泥はその全てに狂乱の魔が刻まれている。触れれば勿論、衝突などすればろくに身動きが取れないまま嵐の力に屈服する。抵抗そのものが困難な魔導。


 そうデザインされたはずのそれを――。


「――アァァァァア゛ア゛ッ! ガァァアアア゛ッ!」


 ――女王は八本の脚を全力で駆動しながら受け止めていた。


 耳を貫く轟音。目を疑う。アラクネは確かに『狂乱の泥嵐』に抵抗し続けている。


 馬鹿な。アラクネの女王に、狂乱耐性などない。魔力に対抗する力など備えさせていない。


 むしろ彼女の攻略は物理アビリティでは困難だからこそ、魔法アビリティに頼るのがセオリーだ。

 

「凄ま、じいです」


 リザがバイコーンの手綱を強く握ったまま、言った。俺も同じ気持ちだった。


 民家ほどの大きさの怪物が、同じほどの大きさの嵐を呑み込まんとしている。


 魔性。彼女を表現するのに、そんな言葉では生ぬるい。まさしく、怪物であった。


「……最悪だ」


 極限まで集中した視界は、スローモーションのようにゆったりとしていた。俺の視線は、確かにその光景を見ていた。


 八本の脚の内、後ろ脚の三本が弾き飛ぶ有様。黒い血液がぶちまけられ、廃村に満ち溢れる様子。


 そうして、それを代償に完全にかき消されてしまった泥の嵐。

 

「ァ、ァァアア゛! コイ! ワガ、ヘイタイドモ!」


 絶叫を響かせながら、憎悪を表情に宿す女王。その声が無情にも村中の魔性を呼び集めていた。


 この光景が意味する所は明確だ。


 奇襲は失敗した。相手に傷を残しこそしたが、殺害にはほど遠い。そうしてこの場に村中の魔性が殺到すれば、殺されるのは俺達だ。


 『異貌の外衣』を使おうにも、女王に目撃されたこの状態でそんな隙があるものか。


 俺が甘かった。取れる手はもうそう多くない。その中で最もマシな手を選択する。


「アニス!」

 

 前衛職を前に押し出し、援軍が到達するまでに女王の首を獲る。それしか生きる道はない。


「――よかろう! ならば斬る! 単純で良い!」


 アニスは刀を両手で構えたまま、もうすでに前に出ていた。俺が声をかけるよりも早かったかもしれない。


 ただ彼女は、咆哮するように言った。


「偉大なる英雄の子孫アニス=アールビアノがお相手するぞ、虫の女王! ただ両断され、ただ死ぬが良い!」

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