87、丹波(たんば)の知恵者(ちえしゃ)
永禄四年(1561年) 十月下旬 伊勢貞孝の屋敷 伊勢虎福丸
京が波多野と六角の手に落ちた。三好長慶は摂津に兵を退いた。兵を率いるのはあの六角右衛門督義治だ。得意満面の顔を浮かべている奴の顔が鼻につく。俺は妄想の右衛門督を振り払うと、二人の男を見ることにする。一人は名和又左衛門貞俊。波多野家の軍師と称される男だ。主君にも重臣にもズケズケと進言することで家中には敵もいるらしい。名前から分かる通り、南北朝で後醍醐帝を助けた名和長年の子孫だ。
口髭を蓄えた男が口を開く。こいつは平林大膳秀衡。波多野の家老だ。
「我ら波多野は伊勢家と敵対する考えはありませぬ。これは波多野家中一同、そういう思いにございまする」
「ふむ。桐野河内を奪っておいてよく言う」
俺が皮肉を言うと大膳が口元を結んだ。一応、罪悪感はあるようだな。
「そのことはそれがしの策にござる。虎福丸様を危ぶむ声が家中にもございます。それ故に御領地を奪わせていただいた」
又左衛門が不敵な笑みを浮かべた。なるほど、幕臣たちとつながっていたのはこいつか。
「こ、これ。又左、そのことは内密にしておくことぞ」
大膳が慌てて大声を出す。どうやら本音を隠したまま、俺を丸め込む算段だったようだな。その手は通じんぞ。
「大膳殿、この御方に隠し事は通じますまい。虎福丸殿、どうか我らと協力していただきたい。細川右京大夫様も我が殿もそれを望んでいます」
「だが、又左……」
大膳が困ったように声を上げる。忍びからの報告で丹波に恐ろしい軍師がいると聞いたことがある。その軍師様自ら俺のところに来たのだ。そして、俺に頭を下げている……。
「俺にも面子というものがあるのだ。又左殿、俺が裏切れば、公方様も伊勢から政所を奪わねばならぬ。女子供もいる。伊勢の一族を俺は守りたい」
「それは……もう勝負は見えているではありませぬか。三好についたところでこの戦は六角が勝ちまするぞ」
「さて、それはどうかな。三好も強いぞ。俺が三好なら、浅井をけしかける」
俺が言うと、又左衛門がにやりと笑みを浮かべる。
「はっはっは。浅井は動けませぬよ。越前の朝倉が南下してくるとの噂が流れておりますからなあ」
「その程度で浅井新九郎が歩みを止めましょうか」
場に沈黙が訪れた。又左が口元を結んでいる。浅井新九郎は飛びぬけて優秀な男だ。この機を逃すとも思えん。
「ふーん、丹波の山奥に引きこもっていると近江のことに疎くなるのですなあ」
「なッ……! ぐぬぬ……!」
いい表情をするねえ。煽り甲斐がある。俺がにやにやすると大膳が口を開けて俺を見ている。
「まあ良い。虎福丸殿。我らが陣中に加わってもらいますぞ。でなくば、伊勢の女人たちがどうなるか。分かってござろうな?」
又左が乱暴に言い放つ。フン、やはりそれが本性か。強引なことだ。これでは六角や波多野の前に顔を出さんではいられん。
永禄四年(1561年) 十月下旬 京 本圀寺 伊勢虎福丸
六角右衛門督の駐屯している本圀寺に出向くことになった。史実では上洛後の足利義昭がいたことで知られる寺だ。境内にいた右衛門督が憮然として待っていた。
右衛門督の隣には若者が座っている。波多野秀治だろう。眼光は鋭いが、顔は笑っていた。
「虎福丸殿をお連れしました」
名和又左衛門が大声で呼びかける。六角、波多野の猛将たちが俺を見る。六角の連中は見覚えがあるが、波多野の連中は見るのは初めてだ。皆、不審の目で俺を見る。気味の悪い童子。そう思っているのだろう。
「虎福丸。義妹が世話になったようだな。礼を言う」
右衛門督がぶっきらぼうに言った。プライドの塊だな。どうしても俺に頭を下げたくないらしい。
「虎福丸殿、それがし布施藤九郎と申す。もう三好は力なきと思います。我らとともに政所を動かしていきましょうぞ」
若いが、話せそうな奴だ。右衛門督や名和よりもな。
「もちろん、公方様もそれをお望みでしょう。政所は右衛門督様とともに動きまする」
六角、波多野の者たちからどよめきが起こった。そんなに驚くようなことか? 俺は柔軟に誰とでも付き合うぞ。伊勢は天下の台所を預かっているのだからな。それにもう若狭に逃げるのも勘弁だ。
「若」
布施藤九郎が喜色に満ちた声を上げた。右衛門督も笑みを浮かべている。
「伊勢が味方についた。これは幸先良いわ」
弛緩した空気が流れる。甘いなあ。俺が手ぶらで来ると思ったのか。もう浅井に使者は飛ばしてある。浅井新九郎、のちの浅井長政が動くだろう。あいつは六角に恨みがあるだろうしな。




