84、摂津(せっつ)国人衆の異変
永禄四年(1561年) 十月 尾張国 清洲城 織田信長
「公方様が京にお戻りになったか。めでたし」
公方様からの書状を隣から覗き込んでいた吉乃がくすりと笑った。
「やはり虎福丸殿が御活躍されたのでございますね。ウフフ。凄い御方ですこと」
吉乃が嬉しそうに笑う。俺もつられて笑った。虎福丸は俺の甥だ。幕臣たちが虎福丸を目の仇にして、虎福丸は若狭に逃れた。丹波の伊勢領も取られたらしい。ただ、虎福丸の方も策士だ。戻ってきた三好家に擦り寄り、三好筑前守の寵愛を受けている。
「うむ。これで三歳なのだからな、末恐ろしいわ。それと俺に上洛を勧めている。公方様に取り次ぐ、とな。はっはっは。吉事なり。甥御殿は俺に力を持たせようとしておる」
公方は俺の力を必要とするやかもしれん。六角も斎藤も頼りないからな。三好の力を弾き飛ばすのは今川義元を討った俺くらいか。
ただ上洛すれば、北畠も今川もいい顔をしないだろう。美濃攻めも難しくなるかもしれん……。
少し息を吐く。美濃攻めは難航している。稲葉山城攻めも撤退したところだ。武田も動こうとしない。信玄が隠居に追い込まれた。武田太郎義信は使者を寄越し、織田との同盟を申し出てきた。義信の評判は悪い。近く上杉が武田を攻めるという噂が出回っている。これでもし武田が大敗すれば、信濃が上杉の物となる。上杉が美濃に出てくれば、恐ろしいことになるだろう。甲斐、信濃に忍びを送ろう。あと藤吉郎に任せていた小牧山城の普請を急がせよう。上洛で公方に美濃攻めをするように言われるかもしれん。俺は横になって吉乃の膝に頭を預けた。吉乃が愛おしそうに頭を撫でてくる。心地よいわ。しばらくは小牧山に城を築くことに心を砕こう。今川義元は討った。東を心配する必要はない。
永禄四年(1561年) 十月 山城国 京 松永久秀の屋敷 伊勢虎福丸
ピュッ。矢が放たれた。的に当たる。だが少しも嬉しそうじゃない。まだ年の頃、十七、十八くらいか。松永弾正の嫁の勝姫だ。前に十河讃岐守の葬儀で見たことがある。気の強そうな女だが、今はどことなく暗い。三好長慶の娘で政略結婚で松永に嫁いだ。夫婦仲が悪いのだろうか?
「はあ。六角は摂津を攻めるみたいね」
「はい。三好も迎え討つようでございます。また戦となりましょう」
「いい加減にして欲しいわ。いつになったら、京は平穏になるのかしら」
三好と六角の間で戦の機運が高まっている。摂津国を巡っての戦だ。三好は三好久介長虎を摂津に派遣し、国人衆の説得に当たっているが、国人衆は頑固に突っぱねている。播磨の六角勢が後押ししているようだ。また大和でも国人たちが松永に逆らっている。三好の周囲はいつ戦になってもおかしくない。
今日は勝姫の御機嫌伺いにやってきた。着物を持参したが、勝姫は喜んでくれた。松永弾正少弼は筑前守のところに行っていて留守だ。
そのため、すぐに帰ろうとしたが引き留められた。
「それにしても公方様は相変わらずね。御台所様を蔑ろにし、朝廷の方々も怒り心頭だそうよ。離縁されれば、御台所様のお気も晴れるでしょうに」
そう、義輝は相変わらず馬鹿だ。近衛の娘である正室を遠ざけ、烏丸の娘のところに入り浸っているという。先日も義輝と御台が派手な口論をした。俺の耳にもそのことは入っている。三好は義輝を甘やかしている。義輝は有頂天だ。やれやれだな。朽木谷に閉じ込めておいたほうが良かったか?
「こたびの戦は長引くと思いまする」
俺が言うと、勝姫が大きく目を見開いた。
「それはなぜ? 松永の者たちも六角は弱兵と侮っているわ」
「六角はかつて先代義晴公の治世を支えておりました。六角右衛門督は頼りありませぬが、家臣たちには武に優れ、あるいは知恵者も多くおりまする。その者たちが播磨にいるのです。油断できませぬ」
「まさか、虎福丸殿は六角が摂津を攻め取るとでもお考えなの?」
勝姫が俺を凝視する。いい目だ。さすが三好長慶の娘。勘が鋭いね。
「それも有り得ましょう。摂津の者たちは三好に強い不満を抱いておりまする。というのもかつて三好政長という御仁がおられました」
「知っているわ。大叔父でしょう?」
三好越後守政長、三好長慶の叔父だ。長慶と組んで三好政権を運営していたが、長慶と対立し殺された。長慶の父親を細川晴元に讒言したのが政長と言われている。摂津には政長の縁者が多い。しかも政長は六角とは仲が良かった。
「摂津の池田や有馬といった国人たちは三好家の差配を嫌っておりまする。やはり三好越後守殿の一件が尾を引いております。この者たちが六角と手を組まないわけがない」
勝姫が息を呑んだ。聡い女だ。
「六角は侮りがたい。筑前守殿が心配にござる」
「兄上……」
勝姫が唇を噛んだ。この女が兄に文を書くだろう。それとも、直接義長の屋敷に行くか? まあいい。情報は与えた。三好も六角を甘く見ることはなくなるだろう。




