82、義輝の怒り
永禄四年(1561年) 十月 京 伊勢貞孝の屋敷 水野忠重
ふう。寺での暮らしにも飽きてきたところで呼び戻された。また虎福丸殿が戻ってきた。兄者に文を認めねば。尾張では織田が水野、松平に贈り物を続けている。織田は美濃が欲しい。そのために水野も織田と仲良くしている。虎福丸殿が逃げたので、お春殿は行方を晦ませた。伊達殿は家に帰っていった。
「お……」
虎福丸殿が歩いてくる。俺は脇にどいて、頭を下げた。虎福丸殿の後に女子供が続く。誰なんだ? 俺が頭を上げると、女と目が合った。女がニコリと微笑む。気品の良い女子よ。
しばらくして女子たちが部屋の中に入っていった。顔を上げると、虎福丸殿がいる。
「先ほどの女は細川与一郎殿の女房じゃ。他は幕臣たちの奥方とその子よ」
「何と! やはり三好が……」
「うむ。豊前守辺りがおかしな動きをしておる。それ故に幕臣の奥方たちを我が屋敷にお招きした。屋敷は忍びたちが堅固に守る」
「そのようなことが……」
「宗兵衛、そなたはこの屋敷を守ってくれぬか。武辺者のそなたがいるだけでもこの屋敷は攻めにくいと感じよう」
三好の忍びがこの屋敷を襲うと? 十分に有り得ることだ。三好豊前守は阿波で主君を殺した。それだけではない。国人も多く殺した。策謀を巡らす恐ろしい男よ。
「御意。この宗兵衛、この屋敷を守りまする」
「有り難い。では私は朽木谷に向かう。あとは任せたしたぞ」
虎福丸殿が笑む。やれやれ、童とは思えぬ御方よ。しかし、この御方には徳が備わっている。頼まれると断れんわ。京の女子衆にいいところを見せんとな。
永禄四年(1561年) 十月 近江朽木谷 岩神館 伊勢虎福丸
「よく来たな。虎福丸。そなたは予の敵になった」
「誤解でございまする。私は幕臣のままでございますれば」
義輝が憮然としている。幕臣たちも俺を睨みつけている。はあ、状況を理解してないんだな、こいつらは。もう幕臣の女房たちから預かった文は幕臣たちに送ってある。何人かの幕臣が困ったように俺を見る。ふむ。手紙の効果が表れているようだな。
「予を舐めるな! そのほうが三好を呼び寄せたのであろう!」
義輝が怒って立ち上がる。俺は面を上げた。やれやれ、ヒステリックなことで。男の悋気ほど見苦しいものはないぞ。
「はて、何のことやら」
「ふざけるな、虎福丸!」
「この裏切り者が!」
怒鳴り声が響く。うるさいなあ。
「ではなぜ私の領地は奪われたのでございましょうか。皆様が私を裏切ったのではございませぬか」
「そ、それは……」
「主殿殿が……」
幕臣たちが口ごもる。幕臣たちが主殿を見た。主殿は俺を睨みつけてくる。
「ええい、皆、落ち着くのじゃ! 虎福丸殿を追い詰めたのは我らであろうが! どうでも良いそなたらの面子のために京は混乱しておる! 幕府のせいと誹られておるのだぞ!」
細川藤孝が我慢ならんと立ち上がって吠える。
「与一郎殿……」
「いや、しかし、虎福丸めは……」
「今、我ら幕臣の妻も子も京に残してきた。妻や子を見捨てても三好と戦うか? そんなことできぬ!」
今まで鬱憤が溜まっていたのだろう。与一郎が息を荒げながら、座る。
「与一郎……」
義輝が呟くと、座った。冷静になったようだ。俺は義輝の顔を見る。
「筑前守様は大樹に京にお戻りいただきたいと……。幕臣の方々の知行はそのまま。没収はないとのことです」
「それでも戻らぬぞ……。戻れば、予は殺されよう」
「それは……」
「筑前守は二十歳になった若造ぞ。三好の家中を抑え切れまい。三好日向守と三好豊前守は余を殺そうとするであろう」
「そのようなことはございませぬ。三好家には隠居したとはいえ、修理大夫様がおられまする。それに松永弾正殿も。公方様を暗殺することは修理大夫様が許しますまい」
場が静まる。さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
「予は力が欲しい。筑前守ならば、分かってくれるであろうか」
「筑前守様は公方様を敬っております。それだけではございません。民も公方様のお戻りを願っていると思います。足利家の御当主、そして武家の棟梁が京にいることで皆、安心しましょう」
「それもそうじゃな。虎福丸、そなたは予のことも民のことも考えた。それで予に戻って欲しいのだな?」
「はっ」
また場が静まった。
「しかし、公方様、六角に京を攻めてもらう話だったはず……」
幕臣の一人が慌てたように言った。こいつは柳沢新三郎だな。
「六角は動かぬ。畠山もな。予はここで逼塞する他ない。そうすると朝廷も予に愛想を尽かす。このまま動かねば予は生きたまま殺される。そうだな、虎福丸?」
「御意。六角も右衛門督殿に家臣が反発しておりまする。簡単に動くとは思えませぬ」
義輝が息を吐いた。緊張していたのだろう。
「では公方様」
「中務大輔、京に戻ろうぞ。それしか道はあるまい」
摂津中務大輔が返事をする。幕臣たちも何も言わない。目を伏せている者もいる。三好に勝てなかった……幕臣たちの失望は深い。ただ自由がないわけじゃない。三好長慶は現役を退いたし、三好筑前守は物分かりの良い男だ。義輝を尊重するだろう。むしろ、義輝の力は昔より増すはずだ。また、義輝が調子に乗る。幕臣たちも、だ。困ったことだわ……。




