79、ささやかな復讐(ふくしゅう)
永禄四年(1561年) 九月 越前国 一乗谷城 朝倉義景
孫八郎と十兵衛を呼んだ。この二人は信用できる。私は書状を孫八郎に渡した。孫八郎が書状を読んでいる。十兵衛がにこやかな笑顔でこちらを見ている。余裕だな。ほっとするわ。
孫八郎が強張った表情になった。当然よ。幕臣からの密書だ。若狭に攻め入り、伊勢虎福丸を討つべしとなる。今なら虎福丸と女たちしかいないとも書き添えてあった。孫八郎が十兵衛に書状を渡す。十兵衛も真剣な表情になる。
「孫八郎、どう思う?」
「いくら上野殿といえど、これは……」
上野主殿、虎福丸殿追放の策謀を練った張本人から密書が届いた。内容は虎福丸が若狭にいるので誅殺すべしとのことだった。全く迷惑なことよ。我が家を何だと思っておるのか。女子供を殺したとあっては朝倉家は信望を失う。それによって加賀の一向一揆は勢いづく。一向一揆は強い。抑えきれぬかもしれぬ。
「このような文を寄越すとは、幕府に人なきと見ます」
孫八郎が苦々しげに言う。十兵衛も頷いて、文をこちらに渡した。
「ただ上野殿は公方様のお側では特に寵が篤い。あの御方なら本願寺と手を結び、我らを攻め滅ぼせと申してもおかしくはありませぬ」
幕府にとって、朝倉は邪魔というわけか。六角や武田を嗾けることも有り得よう。それと童と女たちの命……うーん。
「かつて義経を討った奥州藤原氏は頼朝公に滅ぼされましたからな。たとえ、虎福丸の首級を上げたとしても、連中が朝倉を敵視することになりましょう」
十兵衛が言う。そうよなあ。それで悩んでいるのだ。こういう時、父上や宗滴殿ならどうされたか……。六角と結ぶ? いや、あの御仁は上野主殿と昵懇の間柄よ。ならばどうする?
「殿、このような幕府は見捨ててはいかがか。ここは虎福丸殿と手を組むべきです」
孫八郎が声を潜める。口の端には笑みを浮かべていた。
「それがしも孫八郎殿と同じく。ここは虎福丸殿についた方が得策でございましょう。幕臣たちは領土を欲している。それが越前の地だとしても不思議ではありますまい。朝倉は足利の譜代ではござらぬ」
童につくか。帝も童びいきと聞くしの。しかし、妙なことになったものよ。足利と敵対するとは。今の公方は頼りない。いっそのこと、虎福丸殿に味方することも手か。孫八郎と十兵衛を見る。孫八郎は険しい顔を、十兵衛は涼しい顔をしている。幕府と付き合うのも考え物よな……。
永禄四年(1561年) 九月 阿波国 勝瑞城 三好義賢
「ふわっはっはっは。上野主殿め、今頃は慌てておろうな」
妻の膝枕で書状を読んでいた。虎福丸からの書状よ。朝倉からの使者が手を組みたいと言ってきたらしい。こちらの忍びの作った密書が朝倉義景の手に渡った。上野主殿の印鑑が押してあるが、それも三好の手の者が作った。つまり、上野主殿が伊勢虎福丸を殺したがっているのは嘘で作り話だということだ。三好の力を侮った主殿は痛い目を見ることになる。いい気味よ。
「これで再び三好が天下を取り戻せましょう。虎福丸殿というのは本当に役に立つ子ですわ」
妻がクスクスと笑う。妻が笑うのは珍しい。ここのところ、気落ちしていたからな。私も妻の笑顔が好きだ。匂いも甘いもので良い香を使っていると思う。自慢の妻だ。美しさでは阿波、いや四国一ではないか。
「そうじゃな。虎福丸のおかげで儂の運も開けようというもの」
虎福丸、始めは憎いと思ったが、三好を京に戻そうとしているのは良い。もはや兄上も力を落とした。兄上は公方に気を遣いすぎなのだ。兄上は隠居するとまで言っている。家督は息子の筑前守に譲る、と。これからは若い者の時代だとも。公方は兄上を疎ましがっている。だからこそ、兄上は身を引いた。あとは筑前守、儂、摂津守に任せようというのだ。儂も京に行こう。妻を連れて。妻に上等な着物を送ろう。喜んでくれるだろうか。
「小少将」
「はい、あなた」
小少将が穏やかな声で答える。幸せだ。この女と共に暮らせることがこの世の極楽かもしれん。他の者には分かるまい。
「筑前殿が命を発せば、儂は戦場に行く。だが、案ずるな。儂は必ず生きて帰って来るからな」
「はい。御武運をお祈りしております」
妻がクスクスと笑う。眠いな……。この膝は気持ちがいい。極楽極楽よ。
永禄四年(1561年) 九月 京 上野量忠の屋敷 上野月乃
夫が叫んで、脇息を蹴り飛ばした。珍しい事。夫はいつでも穏やかで優しい。公方様も頼りにしている自慢の夫だというのに。なぜ……。
「朝倉に密書が届けられた。それだけではない。丹後の一色、北近江の浅井、若狭の武田……いずれも我が家の印が押してあったそうじゃ。しかも内容は虎福丸殿を誅せよと書いてあったのだとっ。やられたわっ。虎福丸め、仕返しのつもりかっ」
夫は肩で息をしています。印は夫の部屋にしかないはず。それがなぜ……?
「間者が我が家に入り込んだのだ。伊勢忍びであろう。虎福丸殿は忍びをよく使う。朝倉も何を考えているのだっ。早馬を飛ばしたから大丈夫だと思うが……」
夫が胡坐をかいて、座り込みます。私は夫の側に寄ります。
「すまぬな。月乃。見苦しいところを見せた。俺は虎福丸殿を公方様のお側に仕えさせたい。ただ進士美作守殿らは納得しないだろう。だから、虎福丸殿の領地を奪ったのだ。領地なくば、恐れる必要はない。幕臣たちもそう思う。俺はあの才が欲しい。あの才は幕府にとって必要なものだ。そう思っていた。だが、俺は嫌われているかもしれんな。虎福丸殿も俺の名を騙るとは……」
「私には政は分かりませぬ。あなた様が正しいことをしているかも。でも、虎福丸殿に皆がこだわるのは分かります。虎福丸殿なら、乱世を終わらせるために公方様を導いてくれる、と期待してしまう気持ちも」
「月乃、お前は聡い。もし俺に何かあったら、虎福丸殿を頼るのだ。フッ、三歳の童に妻を託すとは、俺も随分酔狂になったものよ」
夫が笑い声を上げます。私は夫の背中をさすります。可哀そうな人。せめて私だけが味方になってあげなくては……。
永禄四年(1561年) 九月 若狭国 後瀬山城 伊勢虎福丸の居室 伊勢虎福丸
「フッフッフ。うまくいったわ」
俺が笑うと家臣たちも笑う。
「上野主殿め、今頃は慌てておりましょうな」
横川又四郎が笑いながら言う。俺からのささやかな復讐だ。それと朝倉をこちらの味方に引っ張りたかったからな。万事うまくいった。上野の侍女を一人、買収した。病気の弟がいて、金がいるらしい。たっぷりと金子は弾んでやった。あとは伊勢忍びが印鑑を持ち出し、密書を偽造した。印鑑は元の場所に戻ったはずだ。
「後は三好が動くのを待つのみよ」
俺は笑いながら言う。上野主殿はどうしてやろうか。妻と一緒に斬り捨てるか? 見せしめという奴だ。義輝は震え上がるだろう。幕臣たちも、だ。いや、待て。冷静になれ。そこまですると逆に反感を買う。冷静に、冷静に。いかんな。桐野河内を取られたことで熱くなっているようだ。側にいた瑞穂がパタパタと扇子を仰いだ。
「動きますかな。三好が」
野依二郎左衛門が不安そうに言う。
「動く。三好豊前守殿の奥方にな。上等な絹の着物を贈った。唐物でな。明では高官の子女が好むものだ。きっと気に入っていただけよう」
「傾国の美女とも言われる奥方でございますな。評判は良くありませぬ。前の夫を捨てて豊前守に乗り換えたと悪評がひどく……」
堤三郎兵衛が渋い顔で言う。悪女・小少将。俺も聞いたことがある。とんでもない女狐だと。ただ噂話だ。返書には丁寧に俺の言葉が書いてあった。書面だけ見ると子供に優しい女だ。とても噂通りとは思えん。ただ猫を被っているだけなのかもしれんが。
「うむ。俺は童だ。上等な着物を持っている童が京に帰りたいと見ず知らずの豊前守の奥方に泣きついたのだ。どうだ。滑稽であろう」
家臣たちがどっと笑った。おいおい、受けすぎだろ。こんな純真無垢な子供を前にして。結構、傷つくんだぞ?
「豊前守が三好家の者たちをせっついている。三好筑前守はやる気だ。上杉が越後に帰って、当分帰って来ないと踏んだのだろう」
三好筑前守義長、長慶の嫡男を豊前守が支えている。京を守る足利軍は貧弱だ。頼りとする六角は兵力を観音寺城に集中。浅井攻めの機会を窺っている。
「では……」
野依二郎左衛門が期待を込めた目で俺を見る。そうだ。京に帰れる。遠くない日に。その間に朝倉と浅井、斎藤を結び付けよう。六角は目障りだ。包囲網を敷いて、身動きを取れなくしてやる。




