76、虎福丸に弓引く者たち
永禄四年(1561年) 九月 備前 岡山城 城下町 伊勢虎福丸
義輝の馬鹿はホントに阿呆だな。安芸の和議の後に対馬に行って、明と交渉してこいだと。明からしたら、三歳の使者なんて喧嘩売ってると思われるだけだぞ。せめて細川藤孝にしとけよ。あいつなら幕府の使者として体裁も整う。
明だけじゃなく、台湾やフィリピンとも交渉してこい? 俺が帰ってきたときに幕府は三好の支配下になってるかもな。上杉を連れてきたのが俺だということを忘れてんのか。上杉も俺がいないと引き留められんぞ。
奇策のつもりだろうが、義輝は裸の王様だ。俺を排除する動きもあるってのに呑気なもんだ。問題は義輝を唆したのは誰かってことだ。幕臣にそこまで賢い奴はいないし、細川藤孝、三淵藤英の兄弟は俺の味方だし。困ったな。さすがに諫めよう。
「若、上杉が」
またあの忍びか。俺は座るように勧めた。
「京を引き上げました」
「早いな」
早い。武田で信玄が隠居させられてから、十日も経っていない。
「京は上へ下への大騒動でございます。帝は弾正少弼様に帰国を思いとどまるように頼まれたとか」
「何、帝がか」
「はっ、二条様ら公家衆も四十人ばかりが上杉様の屋敷に行きましたが、上杉様は領国を心配され、帰国」
大事だな。朝廷は戦は勘弁して欲しいということだろう。上杉の兵のおかげで三好が攻めてこないからな。
「殿下の所に行く。ついて参れ」
俺は殿下の部屋へと歩いていく。俺の後を次郎丸がついていきた。堤三郎兵衛の孫で俺の小姓をしている。といっても年上の十歳だが。
殿下の部屋に入ると殿下と近衛家の家人たちが俺を見た。女もいる。殿下の側室だ。
「忍びより知らせがありまして、上杉弾正少弼様、越後に帰国なされた由」
「何と!」
「武田のせいじゃっ」
家人たちが騒ぐ。殿下の顔も引きつっている。
「仕方のないことでおじゃる。また上杉が上洛すれば良い」
息を吐いた殿下がそう言う。確かにもう一度、上洛すればいい。上杉にはその資金力もある。ただ、北条に武田。といった敵がいる。迂闊には動けんだろう。殿下が俺を見る。
「安芸に行くことに変わりはない。しかし、京の守りも六角だけとなるとは不安よな」
俺は頷いた。上杉がいたから、三好も動かなかった。丹波の連中も動きかねない。母上に文を送ろう。そうだな。まずは朽木に逃げるように勧める。そのあとは若狭武田を頼ってもらおう。どうせ、京は戦場となるのだからな。
永禄四年(1561年) 九月 京 御所 摂津晴門
ガシャ、ガシャッ。鎧武者が部屋に入って来ると、娘が大きく目を見開いた。妻が娘を抱きしめて怯えたようにこちらを見る。
「幕府奉公衆が伊勢の屋敷を包囲致したそうでございまするッ。あそこには虎福丸殿の御母堂がおられるはず。これより軍勢を率いて、奉公衆、蹴散らす所存ッ」
吠えたのは細川与一郎藤孝。目が血走っておるな。幕臣の一部が挙兵して、屋敷から妻と娘たちを呼び寄せた。義輝様への謀反か、とも思ったが、軍勢は伊勢の政所へと向かった。あそこには虎福丸殿の一族がいる。
「待つのじゃ。戦はならんぞ。足利の家人同士で争うては」
「しかし、事は一刻を争いまする。噂では飯盛山城の畠山、播磨の六角も京に入ろうとしているとのこと。それに四国の三好が加われば」
「馬鹿な。左様なことが。ただの噂であろう?」
「噂に過ぎませぬ。しかし、このまま動かぬと伊勢の者たち悉く処断されましょうぞ」
儂は妻と娘を見る。二人とも怯えているようだ。
「儂も出陣する。そなたらの仲裁に入る」
「お好きになされませ。では、御免」
鎧武者たちが去っていく。娘がこちらを見た。
「案ずるな。そなたの好きな虎福丸殿の御一族をむざむざ見捨てたりはせん」
娘は虎福丸殿を好いておる。奉公衆どもが伊勢の屋敷に攻め込めば、身内で争うことになる。何としても止めねば……。
永禄四年(1561年) 九月 京 伊勢屋敷 周辺 諏訪俊郷
少し寒くなってきた。辺りを見回すと体が震えている者が多い。じっとしていると危ういな。陣幕の中に入ると、皆がじろりと私を見る。
「三淵と細川の兵がこちらに向かっておる」
杉原兵庫助殿が苦々しげに言った。
「戦になりまするか」
「いや、我らには六角右衛門督殿がついておる。摂津の有馬の兵がこちらに味方しよう。三淵の兵など何するものぞ」
「そうよ。兵庫助殿の言われる通りじゃ」
柳沢新三郎殿も大きく頷いた。
「弾正左衛門殿も与一郎殿も足利同士の戦にはしたくあるまい。ここは伊勢虎福丸を若狭に流罪とする。それで手を打とう。公方様もそれで納得するはず」
上野主殿殿が口元だけ動かして言った。不気味な御仁よ。何を考えているのか分からぬ。ただ公方様から虎福丸を取り除くというのは納得できることだ。足利が大きくなるためには伊勢は邪魔だ。取り除かねばならぬ。
「悪戯坊主も若狭に流罪となれば、何もできますまい」
誰かが言った。新三郎殿かな? 皆がクスクスと笑った。童が泣きわめく様が目に浮かぶわ。虎福丸、そなたの時代は終わったのじゃ。三淵弾正左衛門殿では胆力がない。我らの勝ちぞ。これで足利は武の棟梁として蘇るのだ!
永禄四年(1561年) 九月 京 御所 小笠原貞虎
「申し上げまする! 三淵弾正左衛門殿、細川与一郎殿、降伏なされた由。奉公衆はこちらに兵を進めておりまするっ」
公方様の御顔が険しいものとなった。父上たちも苦い顔をしている。
「摂津有馬の兵が加わっている由。三淵様は不利を悟ったのでしょう」
「有馬だと! むう、主殿らめ、有馬と組んでおったとは」
兵を上げたのは主殿らだった。会ったことはある。美男子だがどこか暗いところのある御方だ。
「ここは虎福丸を見捨てるのもやむを得ぬか……」
公方様がパチパチと扇を何度も閉じたり、開いたりする。虎福丸殿は公方様の寵臣。心中お察し申し上げる。公方様がぐっと下唇を噛む。
「主殿のところに使いを送ろう」
ようやく言葉が吐き出される。無念の思いが込められている。お労わしや。




