74、侍従(じじゅう)の忠告
永禄四年(1561年) 八月上旬 京 松永久秀の屋敷 内藤宗勝
「虎福丸殿が、西国に行くとはの」
兄が呟くように言った。虎福丸の安芸行きは京ですでに噂になっている。
「変わった童とは思っておったが、もはや公方様にとって欠かせぬ財となりそうじゃ」
兄の言う通りだと思った。虎福丸はあの三好を四国に追った。公方様は播磨を攻め、六角に任せている。すべては虎福丸が上杉を越後から上洛させたからだ。我ら兄弟も公方様に従っている。
「されど、兄上。この機に伊勢を攻める者も出てきましょう」
兄が眉間に皺を寄せた。
「名を言わずとも良いぞ。あの御仁よな。虎福丸殿を攻めようという者はあの者しかおらぬ」
強欲な男。今村紀伊守慶満。京を支配しているのは紀伊守だ。兵は強く、三好も松永も手出しができない。あの修理大夫様でも紀伊守は御しきれなかった。紀伊守は足利に降伏しているが、本領は安堵されている。
「幕臣に虎福丸殿の権勢を妬む者がいる。奴と結託すると厄介よ」
兄が立ち上がった。そして廊下の方に行く。私も兄についていく。
兄が庭を見る。
「松永は虎福丸殿には恩がある。そなたの窮地を救ったのは虎福丸殿よ」
兄が私を見て言う。そうだ。丹波を捨てたおかげで生き永らえている。あの時の虎福丸の助言がなければ、死んでいただろう。あの童は私の生き死にを決めたのだ。今度はこちらが助ける番だ。
「奴を抑えるには与一郎殿しかおらん。使いに行ってくれるか?」
細川与一郎藤孝殿。若いが、その武名は知っている。幕臣の中でも虎福丸びいきだ。
「御意」
答えると、兄が笑みを見せた。虎福丸の領地を守る。それによって伊勢と親しくなり、公方様の覚えもめでたくなろう。さすれば、松永の生き残る道も見えてこよう。
永禄四年(1561年) 八月 丹波国 船井郡桐野河内 伊勢虎福丸
「こたびはお招きいただき、ありがとうございまする」
庭田侍従が礼を述べる。色白の美青年だ。踊ると絵になるだろう。帝のお気に入りでもある。
「侍従様、ようこそおいでくださいました。私は公方様の命によって安芸に出向かねばなりませぬ。申し訳ありませぬが祭りのこと、よろしくお願い致しまする」
「西国の争乱を治めるためならば、致し方ございませぬよ。お気になさらずに。祭りのことはお任せください」
侍従が笑みを浮かべる。噂通りの好青年だな。これなら小夜姫に勧めても申し分あるまい。
「ただ京には嫌な噂が流れておりまする」
侍従が辺りを窺いながら、俺に近寄る。
「お耳を貸してもらってもよろしいでおじゃりますか?」
俺は小さく返事をした。侍従が俺の耳元に手を翳す。
「京で雑説がおじゃりましてな。伊勢虎福丸殿と松永彦六殿を義輝さんが誅する、と」
雑説ってのは噂話のことだ、京の民は噂好きだからな。
「まさか、ただの雑説でございましょう」
侍従が首を振る。マジなのか? そんな話は初めて聞いたが……
「それがそうとも言えんのでおじゃる。朝廷の中にも虎福丸殿を気に食わぬ公家もおじゃりましてな。帝も心を痛めておいでです。そもそも伊勢家と朽木家は親戚に当たりましょう。それ故に目々(めめ)典侍様びいきであると。万里小路たちは面白くないのでおじゃりますよ。それに目々様の娘である春齢様も伊勢の屋敷におられる。虎福丸殿がいなければ、目々様の権勢も衰える。そのように悪だくみする者たちがおります」
「進士美作守でしょうか」
「分かりませぬ。御身を大事に」
「御忠告ありがとうございまする。気を付けて、安芸に参りまする」
「この地も狙われるかもしれませぬぞ」
「それも百も承知でございまする。いざというときは上杉、六角両家とともに敵を屠るのみ」
「……そこまで覚悟が決まっているのなら、これ以上は言いませぬが……」
庭田侍従が苦い表情になる。明日、近衛関白と出立する。権之助たちに策を授けておく。こうなると京の伊勢屋敷も危ないか。母上……。母上とお婆様は若狭に逃げてもらうか。嫌な予感がする。女たちだけでも逃がしておく。そのほうがいいような気もする。




