71、捨て身の策
永禄四年(1561年) 八月 丹波国 船井郡桐野河内 摩氣神社 咲
祭りの日が近づいています。若様は相変わらず、領内の政を行っておられます。
でも幼き身故、お疲れなのでしょう。今は私の膝の上に頭を預けています。
「咲よ、そなた思い人はおらぬのか」
「神に仕える巫女に思い人は不要と心得ます」
「お堅いことよの」
若様が頬を緩めます。私は扇子を持って、若様を仰ぎます。若様が気持ちよさそうに目を細められます。
「悪右衛門よりの使者も参ったし、桐野河内の守りはより盤石なものとなった。そして、伊勢は豊かになった」
「すべては若様が政に心を砕いてくださったからです。桐野河内の民は皆、感謝しておりまする」
「フフフ。咲よ。これくらいで満足してもらっては困るぞ。もっとこの土地を豊かにする。他国が羨むほどにの」
「まあ、まだ物足りぬとおっしゃられますか」
「うむ。京の政局も治まった。公方様と幕臣が後は政を為そう。俺は伊勢の領地を豊かにする。まずは祭りじゃ。庭田侍従様の神楽で盛り上げてもらおうぞ」
「はい。私も巫女として、頑張りまする」
公家衆が祭りに来られることになっています。神社も持ち直し、いえ、これから大きくなっていくのでしょう。嬉しいです。巫女としてこんなに晴れがましいことはありません。
「虎福丸様、御免くださりませ」
若い女性の声。これは瑞穂さんでしょう。若様の忍びを率いていらっしゃいます。
「おお、瑞穂か。近う」
「はい」
若様が膝から頭を上げ、座られました。瑞穂さんと向かい合う形で座ります。
「巫女様には聞かせられぬ話でございます。お人払いを」
「分かった。咲。席を外してくれるか」
私は小さく返事をします。戸に向かうとお姉様がじっと中を覗いています。私が来ると慌てて、廊下の方に身を隠しました。
永禄四年(1561年) 八月 丹波国 船井郡桐野河内 摩氣神社 伊勢虎福丸
「並河の領地が宇津に荒らされておるか」
「はい。ただこれには裏がありまして。どうも並河は宇津に通じているようでございます」
「ふむ。面白い」
俺が言うと瑞穂が目を瞬かせた。瑞穂が驚くのも無理はない。宇津は朝廷の荘園を押領している。いわば泥棒だ。その宇津と並河が組んでいる。それによって桐野河内に攻め込んでくることも有り得るのだ。面白いとは言ってはいられない事態だ。だが俺はこの状況を楽しんでいる。逆境が好きらしい。
「されど、このままでは桐野河内は孤立しましょう」
「そうよな。山城の伊勢兵を援軍に来させても宇津の大兵には勝てぬだろう。ここに川勝、小畠、波多野が加われば、連中は一万、いや、二万はいくだろうな」
「そ、それでは桐野河内は」
「奴らの手に落ちる」
瑞穂が息を呑んだ。慌てるな。想定内だ。幕府内部にも俺が煙たい奴が増えてきた。連中は伊勢の豊かな土地が欲しいのだ。欲に目が眩んでいるといえよう。いざという時には夜逃げもしよう。他にも伊勢の領地は山城、和泉、河内、美濃にもある。天下の政を担う伊勢だ。結構領地は多い。ただ妬まれ、煙たがられている。幕府の政を担ってきたことが幕臣たちには煙たいのだ。
「先手を打って攻めたいところだが、奴らも悪賢い。俺を安芸に行かせるように公方様に取り計らっている。俺も断れん。一年、二年帰ってこれぬかもしれぬ」
「……そんなことが。私たち忍びではこの流れを止めることができないのでございますね」
瑞穂が言葉を絞り出すように言った。
「気に病むことはない。これは好機でもある。どうせ俺は三歳の童だ。戦はできん。それに敵は権之助の恐ろしさを知らん。権之助には策を授ける。俺がいない時は権之助を支えてやるのだ」
「は、はい」
瑞穂が気後れしながらも返事をする。そう、いざとなったら、この地を捨てる。それでいい。国人たちは土地にこだわるからな。その裏をかく。権之助を呼ぼう。よく言い含めておかねばならぬ。




