70、もう一人の神童
永禄四年(1561年) 八月 丹波国 船井郡桐野河内
摩氣神社 伊勢虎福丸
六角の姫君か。会わんと右衛門督の機嫌が悪くなる。全く厄介な客人だ。
咲が俺を部屋に案内する。部屋の中にはすでに小夜姫がいた。美しい。幼いが、気品があり、優しい雰囲気を纏った美女だ。俺がもう少し齢を重ねていれば妻に欲しかったな。
客殿に行くと、女たちがいた。六角家の侍女衆だろう。十人ばかりか。小夜姫は童顔の可愛らしい姫だ。傍らには女童がいる。
「お初にお目にかかりまする。政所執事・伊勢伊勢守が一子・伊勢虎福丸にございまする」
「小夜です。虎福丸殿、楽になされませ」
「いえ、右衛門督様の義妹姫様の御前でそのようなことは」
「まあ、生真面目な」
ころころと小夜姫が笑う。侍女たちも笑い声を上げた。
「右衛門督様は播磨の政で忙しゅうございます。私も六角の姫として再び嫁がねばなりませぬ。それまで避暑も兼ねて、丹波にやってきたのです。これもすべて鶴千代殿に勧められたからでございますよ」
鶴千代? 俺が困っていると、女童が笑みを浮かべた。鶴千代、六角、いや、まさか……あの蒲生鶴千代かっ。
「蒲生下野守の孫・鶴千代にございまする。こたび虎福丸様の御領地に小夜姫をお誘いしたのは私です」
鶴千代が笑みを湛えながら、はきはきと話す。うーん、俺も人のことを言えんが、童とは思えん。しかし、鶴千代か。配下に欲しいぞ。他にも堀久太郎とか、森勝蔵も欲しい。いかんいかん、顔に出そうになったわ。今は伊勢譜代の臣たちで充分だ。俺は顔を引き締める。
「このような田舎に姫をお誘いとは。何故でございますか」
「姫は縁談でお困りの御様子。虎福丸殿ならば佳言いただけると思って」
縁談? 俺は小夜姫を見た。未だ十五歳か。それくらいだったはずだ。浅井新九郎に離縁された六角の姫。養女だが、右衛門督は妹として大事にしているという。そして、今や六角は近江、播磨を治める大大名。その領国は百万石を越えている。六角の姫の縁談先とあっちゃあ、よっぽどの大大名だろう。紀伊畠山か? 毛利か? 斎藤、織田、朝倉、尼子、どれだ? どの家だ?
「お相手は帝の懐刀たる庭田侍従にございます。公家衆にも誉れ高き英才をお持ちの方」
「殿下と親しい御方でございまするね?」
鶴千代が頷く。庭田侍従は十四歳、宮中では出世すると目されていると祖父に聞いたことがある。さらに帝と第一皇子からも気に入られている。眉目秀麗にして女にもモテるそうだ。
「武家に嫁いでは戦で討ち死にするやもしれず。難しところでございます。それよりは雅で温和な宮中で暮らした方が良いと小夜様に進言した次第。右衛門督様も承禎入道様もそれをお望みでございますよ」
鶴千代が言うと、小夜が辛そうな表情をした。本当は行きたくないのだろう。公家の家だし、武家とは勝手が違う。それに侍従は女たらしのようだし、嫁いでも不幸になるだけかもしれん。
「会ったこともなき相手との縁談に躊躇うのは当然だと思いまする」
俺が言うと、小夜も頷いた。
「虎福丸殿、縁談に反対するのですか?」
鶴千代が問いかけてくる。俺が賛成すると思ったらしい。庭田侍従ね。どんな奴なのか分からんしな。噂だけで実物が分からん。
「いえ、ここは慎重に。そうですね。この神社に侍従を招きましょう。侍従の家は神楽を家業とされています。祭りで舞う神楽のため、庭田家にお願いするのです」
「まあ、侍従様は来られましょうか」
「来られますとも。侍従様もこの虎福丸は無視できぬでしょう」
小夜の顔がパァッと明るくなった。光明が見えた。そんな感じだ。お互いによく知らないのに夫婦になるのが不安なら本人を覗き見て見ればいい。俺はお春を通して宮中には顔が利くからな。庭田侍従はこの地に招く。これで小夜姫の悩みも解決だ。
さて。鶴千代の奴、薄気味悪い笑みを浮かべていやがる。俺を試したのか? いいだろう。相手してやるよ。俺も神童。お前も神童。だが、俺の方が上だ。年の功って奴を見せてやる。
永禄四年(1561年) 八月 丹波国 船井郡桐野河内
摩氣神社 伊勢虎福丸
俺は鶴千代と二人きりになった。俺、蒲生氏郷好きなんだよね。有能だし、史実で秀吉がその才を危ぶんだってのも分かるわ。今、相対して分かる。目の前の子供は大人の気を放っている。尋常ではない。
「単刀直入に問います。虎福丸殿は天下をお望みか」
天下。天下ね。そんなもの望んでも手に入らねえよ。そもそも義輝がいる。天下を取るのは義輝だろう。いや、将軍だからもう取っているとも言えるが。
「望みませぬ。この御世は公方様の治める世にございます」
「はっはっは。義輝公の天下などこの先、崩れるのも必定。甲斐武田の足元が揺らいでおりまする。天下は再び乱れましょう」
「何故にそう思われますか?」
こいつ、尋常じゃないな。足利が行き詰まるだと、よくもまあ童がそこまで見抜けたもんだ。
「我が主君・六角右衛門督では畿内は治めきれず。また織田・斎藤の間に遺恨あり。尼子と毛利、毛利と大友も休戦とはいきますまい。六角崩れて虎福丸殿が畿内を制すと見ます」
「ハハ……三歳の童にそのようなことできませぬ」
「ご謙遜を。三十年あれば、虎福丸殿は西国も治められましょう。そうなれば、関東の北条、越後の上杉、甲斐の武田、そして陸奥の伊達。皆、伊勢家の傘下に入りましょう。これにて天下一統。めでたしめでたしにござる」
場が沈黙を支配する。俺に天下への野心などない。ただ領民が穏やかに暮らせる世を作る。それだけだ。それなのに俺は目の前の童を凝視していた。
「さて、ここで問いたいのでござる。その後、唐土は攻め取られまするか。攻めとるのであれば、この蒲生鶴千代に先陣を申し付け下され」
唐土? 明王朝のことか。こいつそこまで未来を見通しているのか。
「唐入りなど夢の又夢。それに私は明とは交易していきたいと思っております。戦は考えておりませぬよ」
戦をすれば、他国に恨みを買うだけだ。それに明は北に異民族を抱えている。唐入りが成功すれば、北に難敵を抱えることになる。そんなことは御免だ。
「唐を攻め取れば、この国の富は倍増しましょう」
「いや、そうは思わぬ。武よりも文をもって、他国とは当たるべしと心得る。伊勢は幕府を守ってきた。これからもそうするつもりです」
「何と野心なき聖人か」
鶴千代が感嘆の言葉を発した。野心が全くないわけじゃないがな。義輝が転べば、利は俺が頂戴する。足利の天下も長くは続かないというのは鶴千代と一緒だ。
「いや、私の方が浅慮だったやもしれぬ。御無礼、お許しいただきたく」
鶴千代が頭を下げる。童子でここまで考え抜くとは恐ろしい奴。史実の信長が婿にした理由が分かるというものだ。
「頭を上げて下され。鶴千代殿」
俺は鶴千代の肩に手をかける。こいつは敵に回したくないな。本気でそう思うわ。この地にいる内に手懐けるとするか。




