52、虎福丸北上す
永禄四年(1561年) 六月 越前一乗谷城 明智屋敷 伊勢虎福丸
明智光秀が目の前にいる。三十歳をとうに過ぎているのだが、若々しくキラキラしている。史実の信長が危険視するのも分かる程の切れ者だ。しかしなあ、朝倉孫八郎と仲良くなったのは良かったが、朝倉孫八郎に明智光秀って二人とも裏切り者で野心家じゃないか。あまり伊勢の配下に加えたいとも思えないが。光秀は俺の言葉に絶句している。俺が大宝寺や蘆名の動きを読んでいたことに驚いているのだ。伊勢忍びは優秀だし、俺は転生前に蘆名盛氏や伊達晴宗のことを調べていたから、結構奥州の情勢は詳しかったりする。その知識が明智光秀との初対面で役に立つとはな。
織田が美濃に攻め込んだ。やはり信長と犬山城主・織田十郎左衛門信清は組んでいた。史実では信清は信長に尾張を追放されるのだが、手を組んだ。京にいた義龍は慌てて、美濃に帰ったという。
上杉の上洛よりも織田の上洛が早いのではないか、そんな噂が囁かれている。俺の忠告もあって安藤伊賀守たちが稲葉山の守りを固めている。郡上八幡からも遠藤六郎左衛門が援軍として、駆け付けてきている。稲葉山は堅城として知られる。そう容易には落ちないだろう。問題は武田だ。武田太郎義信が美濃攻略に乗り気らしい。義信は信玄の側近である山本勘助らにも働きかけている。うまくいくかは分からない。武田が美濃を攻めれば、斎藤は窮地に陥るだろう。その前に義輝が止めに入るかな? 斎藤は御相伴衆で足利の家人だ。見捨てれば、義輝の権威が低下する。
「虎福丸殿は真に奥州についてお詳しい」
光秀とよく似た男が口を開いた。明智光秀の従兄弟である明智次右衛門光忠だろう。本能寺の変の時の明智五家老の一人。その内、四人はこの場にいるが、筆頭家老の斎藤利三は稲葉の所にいるのかな? 光秀を織田の所に送り込んで謀反を起こさせるのも手だな。どうせ信長と光秀は反りが合わない。最初は二人とも我慢するだろうが、暴発する。
「虎福丸殿、美濃はどうなりましょうや。織田軍二万が美濃に攻め込みましたが」
次右衛門らしき男が明るい口調で問いかけてくる。主である光秀がダンマリだからな。場を取り繕うのに必死なのだろう。
「安藤伊賀守殿には婿の竹中半兵衛殿がついておりまする。軍学に優れた半兵衛殿がいるならば、そうそう稲葉山は落ちますまい」
「稲葉山が落ちぬというのに頷ける。あれは一年取り囲んでも無理であろう。兵糧の蓄えもあるであろうし。織田家中の乱れも治まっておらぬ」
光秀がようやく会話に参加してきた。場の空気が緩むのを感じる。
「美濃はともかく、上杉弾正少弼殿がどのように動かれるか、ですな」
山崎新左衛門が言うと頷く者が多い。山崎は朝倉でも知られた武将だ。上杉の動きに朝倉も注目している。上杉が動けば、天下はひっくり返るだろう。三好の世も終わることになる。蘆名も大宝寺も動かないとなると、上杉は動きやすくなる。関東の北条がいるが、これも疑心暗鬼になっている。同盟相手の武田と今川が信用できないのだろう。それに加えて、佐竹、宇都宮らが北条包囲網を形成している。つまり、すべては義輝と上杉の思惑通りに進んでいるのだ。そこに俺が春日山に行けば、どうなるか。結果は火を見るよりも明らかだろう。
永禄四年(1561年) 六月 越前一乗谷城 宿 上臈局
「お春様、この菓子、甘くておいしゅうございます」
「越前に来て良かったでしょう? 民に活気があり、食べ物もおいしい。帰りに一乗谷に寄ったら、宮中の女官たちに買っていきましょう」
私は宮中に仕える女官でございますが、今は商家の娘に化けている春齢様の侍女になりすましています。父は大内義隆様が討たれた大寧寺の変で陶晴賢に殺されました。幼かった私は見逃されて、京に戻りました。一乗谷は京に似て、雅でゆったりとした気分になれます。戦などどこか遠い国の話にすら思えます。
「しかし、危のうございますよ。私の一族は山口で陶に殺されました。加賀は野盗も人買いも出ると聞きます」
「泣く子も黙る虎福丸君の御一行よ。大丈夫よ。凡夫が手を出して勝てる相手ではないわ。向こうが避けていくでしょう」
春齢様はニコニコされています。ああ、もう全く。虎福丸様の一行といっても、二十人程。しかも名のある伊勢家臣は京の伊勢屋敷を守るために残っているため、腕の立つ者は少ない。心配ね。私は着物の内側に小刀を隠し持っている。もし襲われた時はこれで自らの喉を突く。その前に春齢様の命を絶つ。敵の手に渡って、屈辱を受けるよりはその方が……。
「春齢様、帰りましたぞ」
襖を開けたのは虎福丸殿。家臣たちがぞろぞろと続きます。
「虎福丸君、食べる? あんころ餅よ。甘いわよォ~」
「ありがとうございまする。おお、これは美味にございまする!」
虎福丸殿が嬉しそうです。もう、何だか子供みたいで可愛い。和みます。って子供よね!? あまりに落ち着いているので子供のような所作が珍しく感じられます。
「一乗谷は良いところでござる。ただ、ゆっくりとしておられませぬ故、明日には加賀に出立致しますぞ」
「ええ、分かっているわ。加賀も能登も越中もひどい有り様と聞いている。宮中の者たちに民の声を届けなくてはならないわね。この目でしっかりと北陸の民の様子を見てこなければ。そして民の様子をお父様に伝えるの」
「……三好様に天下への野心なき故、北陸の民が困っているのでしょう。私も軍を率いていれば民の苦しみを和らげることができたというのに」
「いえ、虎福丸君はその才、近隣諸国が恐れているわ。その虎福丸君が越後に行けば、どうなるか。軍勢を率いて居なくても諸侯は虎福丸君が十万の兵を率いていると見なすでしょう。それ故に朝倉殿も虎福丸君を相手にしたのよ」
「過分なお言葉でございます。私は童に過ぎませぬ」
「フフフ。そういうところを皆があなたを怖がるのよ。あなたも十万の軍勢に値すると自分のことを分かっているでしょう?」
春齢様が妖しい笑いを浮かべている。それに対して、虎福丸殿は笑みを湛えている。しかし、冷たい笑いね。春齢様の言うことが当たっているとでも言うの? まさか、ね……。




