49、忠告
永禄四年(1561年) 六月 近江 須川山砦 安藤守就
虎福丸がやってきた。家臣が五人ついている。虎福丸は脇差は持っていない。ここで虎福丸たちを殺してしまうか?
いや、皆が見ておるからそんなことはできん。もし殺せば、皆に伊賀守は卑怯者と誹りを受けかねぬ。それに揖斐周防守がこの場にいる。周防守は武に優れている家臣を大勢連れている。周防守が俺を討つことも有り得る。それに長屋信濃守、遠藤六郎左衛門、奥田七郎五郎、この者たちが周防守に与すれば……。童がにやりと笑みを浮かべる。何だ? なぜ笑った? まさか俺の心が読めていたのか。三歳の童が、か?
「安藤伊賀守様、初めて御意を得まする。足利家家臣、伊勢虎福丸にございまする」
流れ出るような口上よ。童とは思えぬ。いや、飲まれてはいかん。俺は斎藤軍の大将だぞ。童を見る。
「斎藤家家臣・安藤伊賀守にござる。こたびは将軍家の使者が越後に行かれると聞いておりました。それが何故小谷におられたのでしょうか」
「私は将軍家は朽木と浅井とも仲良くすべきと考えていまする。それ故に新九郎様にお会いしたかったのでございます。おかげで新九郎様とは良き仲に」
「公方様の御為と申されますか。しかしですな、浅井新九郎は父である下野守殿を幽閉しておりまする。下野守殿の妹君は我が主・左京大夫の御正室にござる。奥方様は新九郎様のなさりように憤っておられまする。それ故に我ら近江にまで兵を進めた次第でございまする」
「浅井家も斎藤家も足利将軍家に従っているのでござる。身内同士で争っている時ではありますまい?」
何だ? 俺を脅すのか。この童は公方様が頼りにされているらしいからな。斎藤家が公方様の御不興を買うことも有り得るか。それでも浅井を放っておくことなどできぬ。
「虎福丸殿、兵を退くというのは無理でござるぞ。浅井は美濃を狙っております。下野守殿を幽閉から解き放ってもらえなければ浅井を信用などできませぬ」
「信用できませぬか。しかし、近江に兵を出すことは公方様の怒りを買うことも必定。織田家や武田家が美濃に攻め込んでくるやもしれませぬぞ」
織田が? 織田は動かぬ。なぜなら織田上総介は犬山城の織田十郎左衛門信清と揉めている。二年前、岩倉城の織田信賢を攻めた上総介と十郎左衛門は領地の分配を巡って不仲になった。尾張は上総介と十郎左衛門の二人のどっちにつくかで右往左往していると聞く。十郎左衛門は身の危険を察し、御屋形様や俺を頼ってきた。今川義元が生きていれば、今川を頼っただろうが、義元ももう死んでいる。御屋形様は十郎左衛門を使って、織田家中の不和を招こうとしていた。上総介も馬鹿ではない。十郎左衛門を気にして、清洲から動けまい。
「織田は動きませぬぞ。織田十郎左衛門信清をはじめ、上総介の振る舞いに不満を持つ者も多うございます。武田とて、今川、北条と同盟を結んでも、同盟を破られるかもしれず。動くことはありますまい」
俺が言うと、虎福丸は笑みを深くした。何だ? 何がおかしい?
「織田十郎左衛門を信用してはなりませぬ。あの者は同族である織田伊勢守殿を追放した。こたびの上総介様との不仲も芝居であることも有り得ます。そして武田家でございまするが、武田太郎義信様が美濃攻めを考えておられまする。甲斐の国のことでございますが、私の耳にはいろいろと聞こえるもので」
織田十郎左衛門が俺を騙している? 武田が美濃攻めを考えている? 婿殿、聞いてないぞ。話が違う。婿殿を見る。婿殿の顔も引きつっている。
「おや、御存知ではありませんでしたか。武田と織田、それに浅井家が加わって、美濃を切り取り次第に致すと水面下で話が進んでおりまするぞ。斎藤家は私の母上の実家でもありまする。滅ぶのを座して見ているわけにはいきませぬ。ここは兵を退いたほうがよろしいでしょう」
「虎福丸殿!」
婿殿が大声を上げた。皆が婿殿を見る。見ると震えている。怒りか。温和な婿殿が怒るとは珍しいわ。
「織田上総介殿は動かぬ」
婿殿が吐き捨てるように言った。
今度は虎福丸が婿殿の方を向いた。口の端には笑みを湛えている。婿殿が口を開く。
「織田上総介殿は敵が多うございまする。三河の松平と同盟を結ぶも松平家中も上総介殿のやり方を嫌う者が多くいます。さらには伊勢の北畠も上総介殿を嫌っておりまする。上総介殿と十郎左衛門殿の仲もよろしからず。今、清洲より美濃に攻め込めば、織田はますます立ち行かぬ」
「なるほど、上総介の伯父上も敵が多いというのは分かります。しかし半兵衛殿、真に織田は動かぬのでしょうか。あの今川治部大輔殿ですら、上総介様の奇襲に討ち取られてしまったのですよ。安藤伊賀守様の下に集った国人衆の方々の居城はがら空きとなっていましょう。織田が国人衆の方々の領地に攻め込めばどうなるか」
国人衆たちがざわつく。ええい、虎福丸め。口のよく回る童よ。婿殿、何か答えるのだ。そうではないと虎福丸を言い負かすのだ!
「これは領地に引き上げたほうが良さそうじゃ」
揖斐周防守が声を上げた。おのれ、周防守め。どこまで俺の足を引っ張るのだ!
「のう、おのおの方もそう思おう?」
「そうじゃな。織田が動けば厄介よ」
「織田十郎左衛門も信用ならぬ。斎藤を裏切るやもしれぬ」
皆が次々と声を上げる。婿殿は口元を結んでいる。婿殿が虎福丸に言い負かされたというのか? 馬鹿な。そんなことが……。
「さて、伊賀守様。これでも近江に兵を留めまするか?」
虎福丸がじっと俺を見つめてくる。むう、こ、これが武田徳栄軒信玄を説き伏せた伊勢虎福丸か。化け物よな。もはや稲葉山に兵を退くしかあるまい。織田十郎左衛門が裏切っておれば、織田はすぐにでも美濃に攻め込もう……。




