40、三好の長老
永禄四年(1561年) 六月 御所 細川藤孝
「虎福丸殿、越後への使者承知されました」
公方様の顔に笑みがある。越後上杉家。上洛に近い大名の筆頭だ。ただの上洛ではない。精強な上杉軍を率いての上洛。それが公方様の望みだ。三好家を四国に追う。義輝様は三好に担がれるのを嫌がっておられる。
それよりも自ら政を行いたい。そのため、越後の上杉、尾張の織田に上洛を呼びかけているのだ。足利の家人である細川、山名などにかつての力がなく、上杉弾正少弼殿のような新しい大名に力がある。足利の譜代を使う必要はない。足利に忠義の厚い地方の大名を使う。それが義輝様の狙いだ。兄の三淵弾正左衛門藤英は今川上総介氏真殿の所に出向くことになっている。名目は新御所建造のための献金を求めるのだが、幕臣たちはそれぞれ諸大名に上洛を促すことになっている。私は四国の一条家に行く。公家の一条家が分家した家だ。ただ、不安もある。三好日向守長逸らの動きだ。三好日向守らが足利に牙剥けば……。足利とて御所を攻められた終わりだ。今は三好修理大夫殿が塞ぎこんでいる。いつ、暴発するとも限らぬ。そうなった時は妻には逃げるように言ってある。若狭辺りに逃げろと。私の妻であると三好に殺されかねん。留守の間、何事も起こらねば良いが。
「与一郎よ、浮かぬ顔をしているな」
義輝様が不思議そうな顔をした。私は義輝様のお顔を見る。晴れやかな、いや、覚悟が決まったという顔に見える。
「幕臣はほとんどが遠国に出向くのでございます。三好日向守長逸殿、三好下野守政康殿、岩成主税介友通殿らが公方様に良からぬことを考えるとも限りませぬ」
思い切って口に出していた。義輝様の顔から笑みが消えた
「日向守は修理大夫の家臣。勝手に動くことはあるまい」
「し、しかし、大和の松永彦六義久もこの話に加わっていると、あ、兄上が」
松永彦六義久。松永弾正少弼久秀殿の長男で大和筒井城にいて、大和に睨みを利かせている。才気に溢れる若武者で不快な気持ちを抱いたことはない。だが、三好日向守らと文のやり取りを行っていることを兄上から聞いている。それに阿波の三好豊前守義賢殿、淡路の安宅摂津守冬康殿が加わっている。要するに義輝様を煙たいというのだ。足利が邪魔だと。それを義輝様はご存じない。油断ならぬのは松永彦六義久。奴は義輝様にも取り入っている。
「それでも足利に盾突くことはあるまい。諸国の大名を敵に回すことぞ」
義輝様が立ち上がる。そして、私の右肩に手をぽんと置いた。
「虎福丸には密命を与えた。上杉は上洛するであろう。三好日向守が良からぬことを考えたとて、修理大夫のいる手前、動くことはあるまい。そなたは安心して土佐に参れ」
「……」
「案じるではない。余も手は打ってある。三好に討たれはせぬ」
「はっ」
義輝様に何か考えがおありなのか。それを聞くことは憚られる。大人しく土佐に行くしかあるまい。ここは義輝様を信じるほかあるまい。しかし、案じるのは虎福丸殿のことよ。何とか無事に春日山城に辿り着き、上洛のこと承知させて欲しいものだ。
永禄四年(1561年) 六月 等持院 伊勢虎福丸
はあ、気が重いな。また義輝の馬鹿が無茶を言ってきた。越後に行って上杉を上洛させろ、だと。無理だろ。上杉には敵が数多い。蘆名盛氏に大宝寺義増、北条氏康、武田を説き伏せただけじゃ無理だ。上杉は北と東、東南に敵がいる。また俺が大宝寺や蘆名を説き伏せるか。やってもいいが成功するとは思えん。義輝の名を出しても東北までその威光が届くかね?
義輝が仲介したって、安芸の毛利と出雲の尼子は争っている。将軍家の威光を大名たちは利用しているに過ぎない。蘆名や大宝寺、北条などが容易に足利に従うとも思えんな。もし容易に従えば豊臣秀吉があんなに天下統一に苦労するわけがない。いくら義輝がカリスマだといっても、限度があるしな。上杉のことは調べている。というより、転生前の知識がある。
史実で上杉謙信は義輝とは上洛で会っている。しかし、謙信は義輝存命中は動かず、上洛戦は織田信長が畿内を制していた時代に行っている。謙信、今は政虎だが。謙信の上洛戦は義輝時代に行われることはなかった。
それはなぜか? 答えは簡単だ。家臣たちが謙信に従わなかった。本庄繁長らが反乱を起こし、上杉は身動きが取れなかったのだ。観音寺騒動で六角義治が筆頭家老の後藤但馬守を討ったように上杉謙信も家臣たちを信じられず、家中に不和が生じていた。どこの家でもある話だな。家が大きくなると派閥が生まれ、争いが絶えなくなる。上杉も身内同士で謀殺もやっている。上杉謙信、怖い奴だよ。
ただ、俺が越後に行って、上杉の家臣たちに会えば、彼らも変わるかもしれん。どれくらい滞在できるかによるが。
「虎福丸殿、ここにおられたか」
母上の隣に座っていると、壮年の男が話しかけてきた。三好日向守長逸。三好家当主の大叔父にして、三好長慶の右腕とも言うべきオッサンだ。
母上が立ち上がって、頭を下げる。今は足利義満の百四十七回忌だ。足利の菩提寺・等持院に皆が集まっている。まだ始まっていないが。日向守の周りには人が多く集まっている。日向守の派閥の武将たちだろう。皆、ニコリともしない。
母上が唇を噛む。父上とお爺様が義輝の所に行っているからな。俺と母上しかこの場にいない。他の参列者たちは目を逸らせている。関わりたくはないのだろう。
「お会いしとうござった。政所に僧兵たちが押しかけたそうでござるな。大丈夫でしたか」
「御心配ありがとうございます。怪我一つしておりませぬ」
俺は日向守を見上げた。目は優しく、声も穏やかだ。老獪な政治家。そんな印象を受ける。日向守が小さく頷いた。
「それはようござった。松永弾正少弼殿が芥川山城に詰めておる故、この日向守が京を騒擾を鎮めまする。何かあれば日向守にお知らせくだされ」
日向守がにこやかに言う。俺も笑みで応える。
「お気遣いありがとうございます。私も幕臣の方々にいらぬ誤解を受け、その誤解を解くことに苦心しておりまする」
「はっはっは。それがしも幕臣の方々から相談を受けておりましてな。虎福丸殿と一度話し合ってみるべきだと勧めているのですが。なかなか聞き入れてもらえんのでござるよ」
日向守が困った表情になる。白々しいな。お前と三好豊前守が裏で糸を引いているのは分かっているんだぞ。
「左様でございましたか。苦衷お察し致しまする」
日向守がにんまりとする。このオッサン、相当のやり手だな。人に警戒心というものを抱かせない。それでいて、人を思い通りに操る。そうやって、三好家中でも派閥を広げてきたのだろう。もしかしたら、三好長慶や三好豊前守よりも力があるかもしれない。
「虎福丸殿は公方様の知恵袋、懐刀と三好でも音に聞こえておりまするぞ。この日向守とも親しく付き合っていただけると嬉しいですな」
「私は何の力もない三歳の童子にございますれば、買い被りではございませぬか」
「買い被りではござらぬ。修理大夫殿も幼少の折は神童の生まれ変わりと称されましたが、虎福丸殿はそれ以上かと」
日向守が笑みを深くする。
「越後への出立まで間がありましょう。それがしの京での屋敷に足を運んでいただけぬか」
取り込む気か? 食べ物に毒でも入れられたらかなわんが。俺は考えに耽る。
「いかがか?」
日向守がちらりと母上を見た。まずいな。脅しだ。来なければ、母親を殺す。そんなところだろう。俺は観念して口を開こうとする。
「大叔父上、虎福丸殿は忙しゅうござる。大叔父上の屋敷に行くのは越後行きの後でいかがか」
落ち着いた声が聞こえる。見ると三好修理大夫長慶がそこにはいた。血色も良く、背筋もピンと伸ばしている。長慶の後ろには長男・三好筑前守義長、松永弾正少弼久秀、鳥養兵部丞貞長らがいた。芥川山城にいつもいる面々だ。
「む。これは殿」
日向守が頭を下げる。修理大夫はにこやかに笑みを浮かべている。弟を亡くして傷心だと聞いたが、復活したようだ。
「筑前守、弾正少弼、虎福丸殿が大叔父上の屋敷に行くときは同行せよ」
「はっ」
「御意」
二人が返事をする。日向守はニコニコしたままだ。助かったな。これで殺されずに済みそうだ。俺は修理大夫を見る。修理大夫は穏やかな笑みを浮かべると軽く頷いた。




