4、富国強兵
永禄三年(1560年) 五月 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢虎福丸
「今川治部大輔、動いたか」
俺が言うと目の前の巫女が頷いた。俺が使っている歩き巫女だ。三河に張り付かせてあったが、情勢の急変で帰ってきた。今川義元は駿府城を出陣。尾張へと向かった。孤立する今川方の大高城を救うためだ。
「大高城を救うというのは名目に過ぎまい。真の目的は上洛よ」
扇子で自分を扇ぐ。暑いわ。暑くてかなわん。
「そこまでは分かりかねます。それでも尾張一国攻めとるほどの軍勢でございますね」
「織田殿もそう捉えよう。織田と今川がぶつかる。さて、見物だな」
俺はわざとらしく言った。桶狭間の戦いで織田が勝つ。そう決まっている。でもこんなこと言ったら不気味がられるからな。黙っておくに限る。母上と伯母の濃姫が文のやり取りをしている。濃姫は信長の正室だ。母上が俺のことを知らせたら、濃姫は喜んでいたそうだ。俺に会いたいと返事を寄越した。織田は今川を敵に回したことで暗い雰囲気だという。俺も伯母を励ます文を書いた。そうしたら、俺を傑物だと褒めてきたな。これで信長とのコネもできた。
三好の天下も十年も持たない。織田の配下に入って、山城国の小領主の地位を守るか。明智光秀の配下は勘弁してくれ。仕えるなら秀吉だ。それが安全というものだろう。
領地では木彫り細工や漆器を作らせている。他にも石鹸や硝石、酒も作っていた。これから夏が始まる。石鹸は売れるはずだ。石鹸のおかげで清潔になった日本人の寿命はまた伸びるだろう。
「尾張大高城の鵜殿長門守は孤立しています。いつ織田に攻め落とされるやもしれません」
「織田の勢いはそれ程、強いのか」
歩き巫女が頷いた。
「三河の国人衆たちも右往左往しています。松平や水野が裏切る噂も流れています」
「それ程か」
伊勢家が雇っている忍びは三河・尾張方面に張り付かせてある。父上は室町第に出仕し、お爺様は政所で執務している。二人とも忙しい。それで俺が二十人ぐらいの忍びを自由に使っている。目の前の女は歩き巫女で三河にいたところを急いで戻ってきた。
桶狭間まであと半月か。畿内の情勢は静かなものだ。近江の六角が三好と対立を深めている。また戦がありそうだ。
それまでは軍事力の強化だな。六角は北近江の大名・浅井氏を従属させている。その浅井も離反する。それは確か八月だ。
今度は近江がごたつく。それと大和だ。大和の筒井氏は降伏したが、国人衆は抵抗している。これを三好家重臣・松永久秀が平定することになっている。国人衆の抵抗は手ごわい。一年はかかりそうだと父上が言っていた。それでも反三好の大名たちが次々と弱体化していく。
尾張辺りで武具を売ろう。織田や松平、水野が買うだろう。金儲けのためなら、手段は選んではいられない。お爺様と父上が反乱を起こすまであと二年だ。
急がねば。
「虎福丸様?」
「すまぬな。思案にくれておった。続きを」
織田が勝つ。そうと分かっていても、情勢の分析を怠ってはならない。少しでも目新しい情報が欲しい。
永禄三年(1560年) 五月 京 伊勢貞孝の屋敷 伊勢貞良
不気味だ。我が子ながら恐ろしい。虎福丸は自室に籠って、朝から忍びたちと密談している。忍びにおぶってもらって領地に出かけることもある。そういう時は二、三日帰ってこない。精力的だが、二歳だ。妻の顔が憂いを帯びていた。
「これを」
「椎茸か。匂い立つ。良い香りよ」
目の前に器に乗った椎茸が置かれた。
「虎福丸が近江の商人から買ったそうです。父上に差し上げたいと」
「そうか。虎福丸か」
胸が熱くなる。二歳の我が子が苦労している。懸命に私のために。今日もしつこく幕臣たちに詰め寄られた。つまらぬ争いだ。進士美作守が貢物を送るように言ってきたので、断った。伊勢は政所を任されている。それも八代将軍義政様の頃からだ。幕臣たちに父上の苦労など分からぬ。事は義輝様がたしなめたことで終わった。その後は今川の上洛に期待する声。何と愚かな。三好の勢威が見えぬのか。三好修理大夫に逆らえる者などいないというのに。所詮は三好に守られてはしゃいでいるに過ぎん。今川や長尾が来たとて、第二の三好になるだけだ。
「兵庫頭様、お悩みでいらっしゃいますか」
妻が心配して声をかけてきた。私は顔を上げた。
「すまぬな。伊勢の家に嫁いだそなたには苦労をかける……。義輝様も伊勢を疎ましく思っておるやもしれぬ。評定でも勇ましい物言いをする者ばかりが目立っておる。私の意見など誰も耳を傾けぬ」
「そんな。苦労などと。お気をしっかりとお持ちくださいませ。義輝様は兵庫頭様を必要としております」
「ならばなぜかばって下さらぬ! ……あ、いやすまぬ。大声を出した……」
妻が唇を噛んでいた。愛らしい妻だ。怒鳴るつもりなどなかった。私としたことが。耐えなければ。伊勢の家を守る。幕臣たちを鎮める。それが乱世が治まる最善の道だ……。
「進士美作守に貢物を送る。奴の下風に立つことは気に食わぬが致し方あるまい」
妻が唇を噛んだ。妻も悔しいのだろう。それでも夫婦二人して黙っていた。今の幕府はおかしい。しかし、支えなければならぬ。幕府が倒れたら、それこそ世の乱れはひどくなる。




