39、母の思い、姉の思い
永禄四年(1561年) 六月 河内高屋城 湯川直光
「殿、六角よりの文にございます」
殿が渋い顔をして文を受け取った。家臣たちが我らに注目する。六角。近江の雄で公方様から信任が厚い。公方様からは六角と畠山は仲良くするように言われておるが、はて……。
「六角からの文には何と?」
待ちきれないというように遊佐越中守殿が殿に問いかける。
「いつもと同じよ。共に三好を討とうとな」
殿は嬉しそうではない。六角はあまり信用ならぬからな……。
「公方様は朝倉、本願寺、小寺、波多野、筒井も味方であると言われる。だが、三好は強大ぞ。果たして勝てるか……」
殿がぽつりと呟かれた。
公方様は畠山に戦えと言われる。だが畠山だけでは勝てぬ。諸侯と足並みを合わせなければならぬ。それがうまくいくか……。公方様は三好を討てると信じられているが。そう簡単にはいくまい。
「十河讃岐守の死により、和泉は手薄になっておりまする」
色川兵部盛直殿が言う。
「和泉を攻めよ、と申すか。兵部」
「はっ、さすれば六角、朝倉ら諸侯も挙兵しなければならぬと焦るでしょう。公方様の三好討伐の願いを畠山が範を示すことで成し遂げるのです」
家臣たちが殿を見る。下唇を噛み、渋い表情となられた。河内、紀伊の兵を合わせれば、二・三万の兵は動かせる。そして隣国の大和だ。大和の国人衆たちは松永に反抗している。
筒井は松永に従っているが、いつ謀反を起こすとも限らない。いずれにせよ、畠山にとって、兵を動かすことになるには好都合だ。あとは六角が動けば。
「伊勢虎福丸でございますが、越後に赴くそうでございまする」
遊佐越中守高清殿が不意に声を張り上げる。伊勢虎福丸、公方様に代わって、上杉と武田の同盟を仲介し、尾張の織田、近江の六角とも親密と聞く。まさしく公方様の懐刀よ。本願寺顕如もその力を認めた神童。それが越後まで行く? まさか……
「上杉の上洛も有り得るということですか」
龍神弾正忠正房殿の言葉に遊佐越中守殿が大きく頷いた。
「伊勢虎福丸が出向くということはあるいは。名目としては新御所のための金子集めでしょうが」
座が静まった。伊勢虎福丸が越後に行く。畠山も虎福丸の越後行きを見守らなければならぬな。あの童子が上杉の動きを決めるやもしれぬ。三歳の童子が足利の、天下の行く末を左右する。信じがたいことだが……。
「上杉が上洛すれば、天下は上杉の物となろう」
殿が我らを見ながら言う。
「上杉とて、北には大宝寺、東に蘆名、南に北条と敵を抱えておりまする。そう、易々と上洛はできますまい」
殿の顔つきがますます険しくなった。
「民部少輔、和泉を攻めるのは下策であるか」
私は頷く。
「伊勢虎福丸殿の越後行きを見守るしかありませぬ」
「虎福丸殿が、か」
「はっ、すべては上杉の出方次第でございましょう」
殿が気圧されたように頷いた。家臣たちは黙っている。これで決まりだな。しばらくと様子見になろう。京に間者を放っておかねばな。特に伊勢の辺りよ。伊勢の動きで我らの動きも決まろう。
永禄四年(1561年) 六月 京 伊勢貞孝の屋敷
「本当に越後に行くのですか」
「はい。母上。越後春日山城まで輿に乗って参りまする」
「加賀は一向一揆。能登畠山は戦続き。越中とて穏やかではないと聞いています。大丈夫なのですか」
「将軍家の使者でございまする。本願寺も畠山も手を出してこないでしょう。上杉弾正少弼様ともう一度会わなければ、新しい御所の造営もできませぬ」
母上が悔しそうに唇を噛む。母上を悲しませてしまっただろうか。母上は祖父・道三や実の兄たちを義龍に殺された過去がある。そのため、俺の遠出にはいい顔をしない。過保護なのだ。
「公方様のためなら致し方ありませんね」
母上がほうっと息を吐いた。足利家の基盤を守るため、新御所の造営は必要なことだ。それも母上も理解しているのだろう。
「足利家が京に根を降ろすことによって、公方様を諸大名は認めることになりましょう。それは三好修理大夫様の望んでいることでもあります」
「三好様が」
「はい。三好修理大夫様には私心などないと思っています。三好修理大夫様は公方様に、足利に力を持たせようとなさっています」
「そ、そのようなことがあるのでしょうか」
俺は右手の人差し指を天井に向けた。
「三好修理大夫様は天を見ておられまする。公方様をお支えし、政を為すには公方様を立てるという深いお考えで動かれている」
「……」
「ただ三好に任せておけば、世が治まるということはありませぬ。そこで公方様は動かれました。上杉家との関係を良くする。三好家の中にも良からぬ者たちがいます。三好を抑えるため、こたびの諸大名への使者は大事なことと思います」
「……虎福丸、あなたが足利家のためによく尽くしていることは分かりました。そして民のことも思いやっていると。もう母は止めません。どうか気を付けていってらっしゃい」
母上が笑む。俺は頷いた。母上にはいらぬ心配をかけてしまうな。義輝の治世がうまくいけばこの世界にも平和が訪れるだろう。そのためには春日山城に行くことは必要なことだ。どうしても行かなければ。
永禄四年(1561年) 六月 越後春日山城 長尾綾
弟が文に見入っている。私と夫は弟の言葉を待った。
「美作守殿、虎福丸殿の饗応をせねばなりませぬな」
大声を張り上げるのは宇佐美駿河守定満殿。上杉の軍師です。弟は駿河守殿の献策をよく聞いています。
この越後に公方様の寵臣。伊勢虎福丸殿が来られるとのこと。御年わずか三歳! 弟とは北条討伐の小田原城包囲戦で虎福丸殿に会っています。それにしても、この雪深い地まで幼子が使者に来るとは。公方様は上杉に格別の計らいをしている……そう感じざるを得ません。
「左様ですなあ」
本庄美作守殿が腕を組み、瞑想にふけるかのように目を閉じます。美作守殿は老臣のお一人です。弟の側に常におられます。
「うむ。駿河守の申す通りよ。与兵衛尉、任せたぞ」
文を読み終わった弟が直江与兵衛尉実綱殿に声をかけます。
与兵尉殿も重臣のお一人。弟の信頼篤い御方です。
「御意。春日山城にて、能舞台を行いましょう」
「それが良かろう。あの聡い童子のこと。気に入るであろうな」
「虎福丸殿が春日山に来られるということは」
夫・長尾越前守政景が口を挟みます。重臣の方々が夫を驚いたように見ます。夫は大人しい性分。あまり自分の意見は言わないのですが。
「義兄上、上洛の話があるであろうな。ただ上杉は周囲に敵を抱えている」
「蘆名に大宝寺、北条に沼田、敵は多くいますな」
嘆息交じりに本庄美作守殿が言われる。敵ではないのは越中の神保、椎名と甲斐の武田。上杉の武に周囲の大名は従おうとしません。北条も兵の鍛錬をこれ見よがしに行っていますし。
「上洛せよ、ということか」
夫がぽつりと言うと、座が沈黙します。上洛。それが公方様が上杉の家に、長尾の家に求めること。長尾は上杉の家ではない。関東管領上杉憲政様に力がないから、戦に強い弟が公方様の目に留まった。そして公方様は弟を関東管領に任じました。弟は公方様に期待されています。
「伊勢殿が上洛を勧めてきたときはどうなさる?」
夫が弟の目を見て言いました。弟も夫を見ます。
「公方様の仰せとあれば、この弾正少弼、上洛致しまする。その時は義兄上、春日山城をお任せしたい」
「それがしに……でござるか」
宇佐美駿河守殿や本庄美作守殿、直江与兵尉実綱殿、長尾遠江守藤景殿が弟を信じられない目で見ます。夫は信に置けぬ上田長尾家の当主です。上田長尾は裏切りを繰り返し、越後では信用ならぬ家となっています。それでも私は上田長尾家と越後長尾家の絆を深めるために嫁ぎました。重臣の方々も上田長尾家に対しては厳しい目を向けています。
弟は越後長尾家の、いえ関東管領上杉家として夫の上田長尾家を上杉の一員として遇しようということなのでしょう。それによって、夫が上杉家内で肩身の狭い思いをしないようにしたい、そんな弟の優しさが透けて見えます。冷徹に見える弟の気遣いなのでしょう。弟が優しい性分なのは姉である私が幼少の頃より承知しています。
「恐れながら実城様、それは」
本庄美作守殿が慌てたように言いました。弟が冷ややかな目で美作守殿に向けます。
「越前守殿は私の義兄だ。真に信の置ける者よ」
弟の言葉に美作守殿が目を見開いて、口を噤みます。場が沈黙に満たされます。
「虎福丸殿の饗応に備えるのだ。虎福丸殿に春日山で不快な思いをさせてはならぬ」
重臣の方々が返事をします。虎福丸殿、どんな御方なのでしょうか? 上田長尾家の行く末もかかっています。一度お会いして、お菓子を渡さなければなりませんね。




