26、信長登場
永禄四年(1561年) 三月 尾張清洲城 織田濃
「伊勢御一行様御到着の由にございます」
野口孫右衛門殿が知らせにやってきました。遂に甥が来たようです。夫の顔を見ます。
「来たか。孫右衛門。この部屋に案内せよ」
「はっ」
私たちは顔を見合わせます。夫は今、私たちと話していたところでした。夫の側室である直子殿、辰殿も居心地が悪そうです。
「そなたたちは下がることはない。奥の甥だ。会っておいた方がいいだろう」
夫の言葉に二人とも頷きます。虎福丸。どのような子なのでしょう。妹は強い子、そして恐ろしい子と言っていました。足音が聞こえます。
「殿、女子と戯れているところでござったか」
呆れたような声が上がった。この声は織田三郎五郎信広様。その後ろに家老の内藤勝介泰正殿がいる。三郎五郎様は夫の兄であり、夫が心を許す数少ない御方です。
「兄上、戯れているのではない。思案に暮れておった」
夫が不機嫌な声を出します。美濃攻めのことで夫は悩んでいる。気になるのは関東管領・上杉弾正少弼殿の動き。それと近江の六角右衛門督殿の動きです。
上杉の上洛軍を起こせば、上杉と三好の間で戦が起きます。上洛を目指す夫は上杉と六角を邪魔に思っています。虎福丸が来ました。まあ可愛らしい。妹に似ています。父・道三にも似て男前です。
「義伯父上、伯母上。お初にお目にかかります。公方様が家臣・伊勢虎福丸でございます」
虎福丸が頭を下げます。
「将軍家のお使いのお役目、御苦労でござった。私は織田上総介信長にございます。公方様にはよしなにお伝え下され」
夫が頭を下げます。虎福丸が微笑みを浮かべています。三歳とは思えません。夫も微笑んでいます。
「上杉弾正少弼殿は関東を手に入れる勢いにござるな。これも甥御殿が武田と上杉の和睦に尽力されたおかげでござろう」
「義伯父上。私は三淵弾左衛門様に同行させていただいただけです。尽力などと、三歳の童にございますれば」
「はっはっはっは。童か。甥御殿は童ではない。鬼だと諸国で言われておるぞ」
夫が笑い声を上げました。甥はニコニコ笑っています。何なのこの子? 妹の言っていた意味がようやく分かったわ。三歳の童ではない。化け物? 得体が知れない。怖い。我が甥ながら、怖い。
「鬼、にございますか?」
「左様。武田も上杉も甥御殿には敵わぬ。鬼のように恐ろしいとな」
「まさか。何の力もない童にございますれば」
虎福丸は微笑んだままです。
「フフフ。面白い。甥御殿、笑わせてくれるわ」
夫が笑っています。直子殿と辰殿も笑います。
「甥御殿、俺は親父殿の無念を晴らしたい。美濃を攻め取るつもりだ」
「斎藤道三公ですね?」
「そうだ。斎藤治部大輔は俺の義兄になる。しかし、親父殿を討ったのも治部大輔。このまま奴を放っておくわけにもいかん」
夫の言葉に甥も真顔になります。
「兄上、いつでも斎藤に攻め込めますな?」
「ああ、いつでもできる」
三郎五郎信広様が頷かれます。
「公方様の御相伴衆であると関係ない。斎藤は滅ぼしますぞ。そして京に攻め上りまする」
甥はニコリともしません。じっと夫を見ています。
「不服か。甥御殿?」
「いえ、義伯父上の忠義に公方様も喜ばれることと思います。道三公を討ったのは武士にあるまじき行いと思いまする」
甥の目が光る。怖い。これが本当に童なの?
「上杉弾正少弼殿には負けぬ。織田も上洛する」
「義伯父上の思い、しかと承りました。公方様にしかとお伝え致しまする」
甥が再び笑みを浮かべました。童とは思えません。末恐ろしい子。武田や上杉が相手にするのも分かります。甥の胆力は大人を凌いでいるといってもいいでしょう。
永禄四年(1561年) 三月 尾張清洲城 伊勢虎福丸
尾張清洲城。俺は信長夫婦の向かいに座った。俺は水野藤十郎だけを連れてきている。信長の上洛の意思は固い。このことを確認できてよかった。義輝は泣いて喜びそうだな。問題は美濃の斎藤義龍だ。信長は義龍を恨んでいる。当然だ。妻の父を殺されたのだからな。義龍は上洛し、義輝に忠誠を誓っている。ところがどっこい、今は戦国時代だ。信長は斎藤に敵意を剥き出しにしている。斎藤は相伴衆に任じられている。将軍に従う職だが、名ばかりの職となっている。このまま、織田は斎藤を食う気だろう。義輝は見て見ぬ振りでもするかな。冷たいだろうが、足利も諸大名のことに介入できなくなっている。中国地方の雄・大内氏が滅んだ時も足利は何もできなかった。
「虎福丸、妹は息災でいますか?」
伯母上が訊ねてくる。濃姫から名前を呼ばれると、俺も斎藤の一族だと実感できるな。
「はい。伯母上にも会いたいと申しております」
「……良かった。私が織田に嫁いだ時、あの子はまだ幼かったですから。伊勢の家に嫁いでからも文のやり取りはあまりしていませんし」
伯母上が安堵の息を漏らした。母上に似ている。ただきつそうな美人で近寄り難いんだよな。
「濃、妹には必ず会わせてやる。俺が斎藤、六角を討って、上洛すれば良いのだ」
「上総介様、ありがとうございます」
伯母上の目から涙が零れる。母上を思ってくれているのだろうか。京と尾張。なかなか距離もあるしな。
「さて、この席に水野藤十郎殿を呼んだのは商いの話のためか?」
信長が声を低くした。気づかれていたか。織田の御用商人たちとも取り引きがしたい。そうすれば、伊勢はもっと儲かるからな。俺は信長を見る。信長を味方に引き込む。そして、織田の御用商人たちとの接点を作らねばな。




