24、刈谷(かりや)
永禄四年(1561年) 三月 三河刈谷城 伊勢虎福丸
「虎福丸様、長旅お疲れ様でございました。どうぞ料理を召し上がってくださいませ」
冷たい感じのする美人が頭を下げてきた。水野下野守信元の正室だ。侍女たちが俺と藤十郎、鈴奈に膳を運んでくる。
「ありがとうございます。刈谷に立ち寄るつもりはなかったのですが、藤十郎殿の勧めもあり」
「まあ、そうでしたか。今川義元が死んで、この刈谷も平穏になりました」
正室が袖を口元に当てる。名将今川義元は三河を荒らし回ったからな。水野家には邪魔な義元が消えて良かったのだろう。
俺は藤十郎から事情を聞いた。水野は織田と松平の間で生き残るため、両家と友好関係になっている。そこで水野信元と弟・藤十郎忠重は芝居を打った。わざと喧嘩して、藤十郎は松平を頼った。藤十郎が水野と松平の連絡役だ。水野は大名だが、織田に潰される恐れはいつでもある。水野は織田を怖がり、松平を後ろ盾にしている。元康の母が水野信元の妹だ。
「千鶴。そなたは下がっておれ。女たちもだ」
水野信元が家臣たちを引き連れてやってきた。三十後半の男前だな。正室が頭を下げて、部屋を出て行った。侍女たちも出ていく。
「水野下野守信元にござる」
下野守が頭を下げてきた。俺も頭を下げる。
「伊勢虎福丸にござる。武名轟く下野守様にお会いできて、嬉しく思います」
下野守が目を見開いた。俺をまじまじと見る。子供だと思っていたか。俺はお前のことをよく知っている。江戸時代には幕府の要職を務めた水野家。戦国時代から忍びを使うことに長け、今川と織田に挟まれながら、生き残った家だ。当主の水野下野守は権謀術数の人だ。
「とんでもござらぬ。今川の大兵にはいつも怯えておりまする。虎福丸殿、織田殿にも上洛を促されるのか」
「はい。公方様は上杉弾正少弼様、織田上総介様の御上洛を望んでおられます。三好修理大夫様と共に余を支えて欲しいと」
「やはり織田殿も御上洛ですか」
下野守が渋い表情になる。今川義元亡き後、三河国は不安定な情勢が続いている。今のところ、松平がまとめているが、いつ今川が逆襲してくるとも限らない。
「となると三河はまた戦乱に巻き込まるのでしょうか」
「今川上総介氏真様が御上洛なされれば、戦乱も起きませぬ」
「今川上総介殿の御上洛……織田殿が邪魔しましょうな」
「はい。しかも今川上総介様は御父上の義元公を織田様に討たれています。これは公方様が介入なされても、なかなか和睦とは参りますまい」
「左様でござるな」
下野守がうんうんと頷いた。
「ただ今川方の主だった武将は桶狭間の戦いで討ち死にを遂げており、今川上総介様も松平を恐れて、掛川城に籠っているようです。しかも武田家と上杉家は和睦し、武田家と同盟を結ぶ今川家も公方様と親しい織田様を攻めることは容易にできるとは思えませぬ」
「いや、やるだろう。奴は」
下野守がぼそりと言う。
「奴は今川上総介は阿呆にござる。それ故に公方様の命には従うますまい。父の仇とばかりに三河に攻め寄せましょうぞ」
「それでは今川は足利家を敵に回しまする」
「何の。今川は天下を取ったと天狗になっており申した。京に行って、三好修理大夫を追い払い、公方様の側近くで政を行う。そのために駿河を京のように華やかにして、公家衆を呼び寄せたのです。父が父なら、子も子です。今川上総介は三河を再び攻めようとするでしょう。その時、公方様は水野を守ってくれるでしょうか」
下野守が険しい表情のまま、言う。足利の力などといっても、かつて家臣だった今川に舐められるほど、落ちぶれている。
「すぐには答えられませぬ。京に帰り、公方様に水野様のことはお伝え致します。今川様にも公方様への治世への忠誠が求められるでしょう。しかし、今川様が断れば」
「フフフ。恐ろしい御方よ。虎福丸殿は。かの義満公、義持公、それに暗殺された六代義教公も従わぬ大名を討伐しましたからな。今川とて、義輝様に逆らえば命はあるまい」
隣に座っていた藤十郎が笑い声を上げた。
「公方様はそこまでお考えか……」
下野守が顔を強張らせている。義輝と水野家も俺が間に入って、仲介するか。義輝の夢はこの戦国の世を終わらせること。俺は義輝にそんな力があるとも思わない。それでも伊勢の民にひもじい思いをさせないため、幕府の中での実績を上げれば、それで周りからの評価となる。松平、水野、織田、これらの家を幕府に上洛させ、義輝の権力を強化する。それが今できる最善の手だ。




