143、永禄の変
永禄五年(1562年) 一月中旬 尾張国 清州城 城下町 宿 伊勢虎福丸
「若……大変でございまする。武田が」
家臣の横川又四郎が部屋に駆け込んできた。
武田軍が動いた。またもや美濃に攻め込んだのだ。秋山善右衛門信友が率いる兵六千ほど。少ない。武田なら二万は動かせるはずだ。
くノ一の巫女が二人控えている。忍びの大木佐兵衛の手の者だ。
「知っている。織田の伯父御殿はな、兵は送ると言ってきた。佐久間右衛門尉の七千だ。それに加えて、水野下野守信元の二千、水野藤九郎信近の千、それと緒川城の水野清六郎忠守の五百、知立城の永見淡路守貞英の二百、まあ国人衆の兵を合わせれば、佐久間軍は一万五千になるだろう」
「ならば、武田とは兵においてこちらが上でありましょう」
そうだ。兵においてはこちらが上だ。甲斐の武田義信は越後の上杉を気にしている。信濃北部に一万の兵を展開し、猛将飯富虎昌が総指揮をとっている。義信はじっと機会を窺っている。三河にまで出張ってくる余裕はない。
今川・北条連合は足踏みをしている。北条が俺の肩を持っている。足並みは揃わない。
「そうも言ってられないな。あの信玄を隠居させたのだ。武田義信、油断ならぬ男だぞ。秋山善右衛門もな」
美濃攻めが本気とも思えん。武田は三河を欲しがっている。
「又四郎、急ぎ岡崎城に使いを送る」
「はっ」
「できるだけ兵を集めて、籠城せよ、とな。佐久間右衛門尉が岡崎の後詰めをする。清洲衆も兵を出してくれるかもしれん」
俺は又四郎に策を話す。又四郎が驚きながらも首を縦に振った。
これで武田への備えは盤石だ。ただ気になることがある。京のことだ。
三河に行く前の日に清原の屋敷に呼ばれた。待っていたのは寿姫だ。寿姫は俺を膝の上に乗せて、物語を読み聞かせてくれた。源氏物語だ。幼児に聞かせる話じゃないぜ。
突然だった。俺は背後から寿姫に抱きすくめられ、身動きが取れなくなった。
「虎福丸殿、父と兄は三好筑前と良からぬことを考えています。どうか、どうかお気をつけあれ」
耳元で囁かれた。気が付くと、寿姫は深刻そうな顔で涙を流していた。
「姫、心配はいらぬ。教えてくれてありがとう。このことは他言せぬ」
「お、御身を大事に……」
寿がぽろぽろと涙をこぼした。よっぽど思い詰めていたんだろうな。可哀そうに。
「泣くな。俺は殺しても死なぬ。水軍衆もいる。いざとなれば海にでも逃げるわ」
「虎福丸、私がもっと遅く生まれていれば、あなたと……!」
「アハハ。寿殿らしくない。そなたは笑顔の似合う女子だ。ほら、涙を拭うのじゃ」
寿は泣き止まない。すまんな。幼き身でなければ、抱きしめて慰めてやれるのにな。俺は寿姫の頭をナデナデしてやる。このまま連れていくか。いや、三好の連中がおかしな動きをする。このまま京に置いていこう。
……。
俺は我に返った。三好筑前……そう言えば様子がおかしかった。正月に俺の所に顔を出したのは様子見に来たのかもしれん。
寿はああ見えて賢い女だ。俺に惚れているようだし、嘘をつくとも思えん。
欠伸が出た。眠い。少し昼寝するか。武田もすぐには攻めては来ぬだろうしな。
足音で起こされた。屈強な男が目の前に立っていた。忍びの宗助だ。今は鬼の一族を束ねている。
他にも忍びが数人いる。横川又四郎たちもいた。
「京より早馬にて参りました。二日前、三好筑前守義長が謀反。御所に攻め入りましてございまする!」
俺は立ち上がって、ぼうっとした。謀反?俺を斬るのではなかったのか?そうか、狙いは俺ではなく義輝だったのか。
「義輝はどうなった?」
「分かりませぬ。ただ御所には公方様の御息女が入られました。琴姫様にございまする。当年六歳にて」
琴姫、聞いたことがある。義輝が近江に逃げた時に作った娘だ。俺は会ったことがないが、六歳の娘を将軍代わりにする気か。
「三好筑前め、俺を騙したのか。これは武田も一枚嚙んでいるな」
婚儀で油断をした。おそらく三淵弾正左衛門が仕組んだのだろう。義輝は幕臣に足元を掬われた。俺は三河に誘き出されたわけか。
まあいい。これから三河に入る。今川と話をつけてやる。義輝の顔が浮かんだが、打ち消した。武田、今川をどうするか、正念場だ。




