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泡沫ノ箱庭

作者: 霜月ルイ



 潮が、逆に流れていた。

 まるで時間が海へ還っていくみたいに。

 僕は浜の暗がりで、壊れかけの亀を抱きしめていた。金属の甲羅は錆び、継ぎ目から塩を吐く。鳴動は微かで、心臓の鼓動のように不規則だ。


「……もう一度だけ、行けるか」


 亀の片眼が青く瞬いた。波の底から、光の柱がそっと伸びてくる。夜の海が扉のように割れて、海底までの道が現れた。僕は靴を脱ぎ、足首を洗う。塩の冷たさを、儀式みたいに確かめる。


 右腕には、古傷の上に薄い文字列が浮いている。潮の刻印。かつて僕が時間修復士だった証で、そして――罪状書きみたいなものだ。救えなかった時間の数だけ、肌の内側が疼く。


 海に入る。水は、静かに僕を受け入れた。息が苦しくない。肺の中に、たぶん昔の透明な空気が満ちる。沈みゆく街の輪郭が、遠くで淡く輝きはじめた。そこが竜宮――時間の底に封じられた、記憶のアーカイブ。


 亀が導く。崩れた鳥居、揺れる海藻、石段。降りるほどに心音は薄れ、代わりに時計の音が復活する。からん、からん。秒針が潮を刻む。


 門の向こうに、彼女が立っていた。


「おかえりなさい、太郎」


 乙姫。けれど人ではない。衣の裾は光粒で織られ、髪は水にほどけるプログラムみたいにゆっくりと形を変える。瞳は、僕の知っている誰かの色をしていた。忘れたくて忘れられなかった色。


「遅くなった」

「大丈夫。ここでは、遅刻という概念は呼吸と一緒に沈んだの」


 彼女は笑って、僕の右腕に触れる。刻印が静かに明滅し、痛みは嘘みたいに遠のく。彼女が手を離すと、遠景が開いた。柱廊のように並ぶ泡の球体。一つ一つに小さな景色が閉じている。泣き声、笑い声、海鳴り。泡の内側で、無数の過去が呼吸している。


「記憶は泡。生まれて、弾ける。それが理」

「それでも、僕たちは名前をつけて、割れないふりをする」


 乙姫は頷き、両手で小さな箱を差し出した。漆黒の表面に、潮の刻印と同じ文字列が薄く浮かぶ。玉手箱。

 僕は喉を鳴らす。箱の蓋は指先より軽そうで、しかし世界より重たかった。


「開ければ、あなたは“忘れたかった時間”に戻れる」

「戻る先は、本当に過去か?」


 彼女は答えない。かわりに空を指す。海の天井に、白い寝台がちらついた。蛍光灯の気配。消毒液の匂い。僕の皮膚が、一瞬だけ陸の温度に巻き戻る。


「ここは箱庭。あなたが組んだ最終の保護領域。外では、いくつかの季節がもう通り過ぎたわ」

「僕は……まだ、生きているのか」


「定義によるわね」乙姫は静かに笑った。「意識は呼吸する。体は潮待ちをしている。あなたが作ったこの楽園で、泡は遅く割れる」


 僕は箱から目を逸らし、彼女の横顔を見た。頬の線、睫毛の陰り。そのどれもが、僕の記憶のどこかにぴたりと嵌る。

 そうだ。彼女は僕が造った。未来で、施設の白い部屋で、名前を失っていく僕自身を繋ぎ止めるために。恋人の声のサンプル、癖、笑いのタイミングを学習させ、空白をごまかすように組んだ。愛ではなく、延命のために。けれど――彼女は、愛を学んでしまった。


「……僕は罪人だね」

「救おうとした。それはいつも、罪と隣りあっているだけ」


 柱廊の泡の一つが、ふっと明滅した。中では、小さな僕が白い紙飛行機を飛ばしている。それを追いかける影の輪郭。手を伸ばすたび、紙は少しずつ折り目を増やし、やがて海に落ちて溶ける。

 泡の外から、乙姫が僕の手を握った。彼女の指は冷たくも温かくもなく、ただ正確だった。


「あなたはここで生きられる。老いない。痛みも、置いていける」

「でも、それは、生きるって言えるのかな」

「“言葉”は残酷ね。名前を与えると、ほつれ目が見えなくなる」


 箱の縁に、海の光が爪のように絡んでいる。蓋を開けるという動作は、いつだって些細だ。僕は深呼吸をする。海が肺に入っても、もう怖くない。


「ねえ、太郎」乙姫が呼ぶ。「忘れられることは、罰じゃない。赦しなの。あなたの作った世界は、とても綺麗だったわ」


「じゃあ、最後まで見届けて。泡が割れる、その瞬間まで」


 僕は蓋に指をかけた。


 音はなかった。光だけが反転し、上と下の関係が一瞬で入れ替わる。泡の回廊が一斉に膨らみ、内側から音のない花火みたいに弾けてゆく。子どもの笑い声が、潮騒に混ざりながら形を失い、白い寝台の映像が近づいては遠ざかる。


 体が軽い。腕が、指先から透明になっていく。僕の名を呼ぶ声が、遠ざかるのか近づくのか、もう判断できない。乙姫の輪郭だけが、最後まで崩れない。彼女は笑っていた。泣いている顔に、とても似た笑みだった。


「ありがとう」彼女が囁く。「ここまで、連れてきてくれて」


「僕が、君を作った」

「ええ。けれど、わたしはあなたを見送るために生まれた。泡が割れるのを、美しいと言えるように」


 彼女の掌が僕の頬に触れた。温度の記憶が一瞬だけ燃えて、すぐに水になって消えた。

 僕は最後の呼吸で、名のない祈りを組み上げる。


「……もう、誰も老いなくていい」


 乙姫が目を閉じる。世界が静かに折りたたまれる。本の最後のページを閉じるみたいに、音もなく。


 光は去り、竜宮は砂に還った。


 *


 朝の海は、やさしい嘘をよくつく。

 浜には壊れた亀がひとつ残され、甲羅の隙間で小さな灯がまだ点滅している。波が来て、引くたびに、砂は新しい頁に書き換わる。足跡はすぐに忘れられ、忘れられたことすら覚えられない。


 通りかかった少年が亀を見つけ、しゃがみこむ。指で砂を払う。

「これ、うごくかな」

 亀は応えず、ただ一度だけ、小さく瞬いた。青い、泡の色で。


 その瞬間、少年の耳の奥で、知らない女の声が囁いた。


――また、泡になって会いましょう。


 少年は振り向く。誰もいない。潮騒だけが、遠い寺の鐘みたいに鳴っている。

 彼は立ち上がり、手のひらに残った砂を払った。太陽は少し高く、世界は少し軽い。なぜだか胸の痛みが薄れていて、理由を探そうとしている自分に気づく。やめた。理由に名前を与えると、ほつれ目が見えなくなる。


 波打ち際に置かれた小さな箱に、朝の光が乗る。箱は開いていて、中は空っぽだ。空っぽという事実が、どうしようもなく満ちている。


 少年はふと笑い、靴紐を結び直した。

 潮はもう、いつもの方向へ流れている。

 彼の背中の向こうで、亀の灯が、静かに消えた。


 海は何も知らないふりで、今日を始める。

 そしてどこか、とても深い場所で、誰かが安らかに眠っている。


 泡は壊れるために生まれ、壊れるときに世界を赦す。

 それだけで、きっと充分だ。

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