表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
拙者、お客様は神様だと申したはず! ~令和のバイトリーダー、うっかり江戸で天下泰平(主に接客面で)を目指す~  作者: ストパー野郎
第一部 ~バイトリーダー、城下を騒がす! おもてなし改革と七転八倒の毎日~
19/30

幕間8:頑固料理頭の矜持と憂鬱 ~饗庭与一、謙信襲来前夜~

 まだ鶏も鳴かぬ薄闇の中、相馬中村藩の城、その一角に設けられた厨房には、すでに灯が揺れていた。ごま油の香ばしい匂いと、薪のはぜる音が静かに響く。


 その中央に仁王立ちするのは、この厨房の主、料理頭の饗庭与一である。節くれだった太い指で顎をさすりながら、まな板の上に並べられた貧相な食材を睨みつけていた。


「はぁ……」


 誰に聞かせるともなく、深い溜息が漏れる。今朝、納入されたのは、いつにも増して心許ない量の野菜と、申し訳程度の干物ばかり。相も変わらず、芋、大根、菜っ葉。


 これでは、育ち盛りの若い藩士たちの腹も、そして何より心が満たされぬではないか。


「松吉!竹蔵!ぼさっと突っ立ってる暇があったら、釜の火加減を見ろい!お前たちの目は節穴か!」


 背後で手持無沙汰にしていた若い衆に、雷のような声が飛ぶ。びくりと肩を震わせた二人は、慌ててそれぞれの仕事に戻った。


 与一の怒声は日常茶飯事だが、その厳しさの裏に、彼らを一人前の料理人に育てたいという親心にも似た情と、そして、このどうにもならない現状への焦りが滲んでいることを、若い衆も薄々は感じ取っていた。


 相馬中村藩の財政は、ここ数年、逼迫の一途を辿っていた。度重なる天候不順による凶作、そして幕府からの御手伝い普請の命。


 藩の上層部は質素倹約を声高に叫び、その皺寄せは真っ先に、日々の糧を賄う厨房へと押し寄せていたのだ。かつては、浜で獲れた新鮮な魚介や、山々の恵み豊かな獣肉も食膳に上ったものだが、今ではそれも遠い昔語りだ。


「料理頭、本日の献立は…やはり、いつもの通りで?」


 恐る恐る声をかけてきたのは、若い衆の中でも少し年嵩の松吉だった。与一は、ふんと鼻を鳴らす。


「いつもの通り、だと?それで、お前は満足なのか。あの、若い侍たちの、力のない顔を見て、何も感じんのか」


「そ、それは…しかし、この食材では…」


「だから工夫するんだろうが!料理人だろうが、俺たちは!無いなら無いで、知恵を絞れ!それでも…それでも駄目なら、また別の手を考える!」


 与一は、まな板に残っていた大根の葉を掴むと、それを丁寧に刻み始めた。


 本来なら捨ててしまうような部分も、彼の手にかかれば立派な一品に変わる…はずだった。しかし、現実はあまりにも厳しい。



「せめて出汁だけでも、まともなものを飲ませてやりてえ」


 それが、与一の口癖だった。昆布や鰹節といった高級品は、特別な行事でもない限り、勘定方の渋沢監物が首を縦に振るはずもない。


 そこで与一は、浜の漁師に頼み込み、売り物にならない雑魚を安く譲ってもらったり、野菜の皮や芯、大根の葉や蕪の茎といった、普段なら捨ててしまうような部分を丁寧に干したり炒ったりして、どうにか旨味を引き出そうと日夜奮闘していた。


 ある日のこと、与一は雑魚を長時間煮詰めて濾し、さらにそれを野菜屑と共に煮込むという、手間のかかる作業に没頭していた。


 厨房には、魚の生臭さと野菜の青臭さが混じり合った、何とも言えない匂いが立ち込めている。若い衆は、遠巻きにその様子を眺めているだけだった。


「料理頭、そのようなことをしても、本当に美味い出汁がとれるんでやすか?」


 物怖じしない竹蔵が、つい口を滑らせた。与一は、顔を上げずに答える。


「黙って見ていろ。京や大坂の料理屋が、どんな出汁を引いているか知らんが、ここにはここのやり方がある。食材の声を聞き、その命を余すところなく引き出す。それが料理人の仕事だ」


 しかし、何度試しても、与一がかつて味わった「本物の出汁」には遠く及ばない。雑味が多く、香りも薄い。


 それでも、何もしないよりはましだ、と自分に言い聞かせ、その貧相な出汁で味噌を溶き、藩士たちの椀に注ぐのだった。


 年に数回、藩の重要な節句や行事の日には、さすがに普段よりは多少ましな食材が割り当てられた。そんな日こそ、与一の腕の見せ所だった。


 若い衆を叱咤激励し、夜を徹して仕込みをする。この日ばかりは、藩士たちに腹一杯、心から美味いと思えるものを食わせてやりたい。


 その一心で、与一は厨房を戦場のように駆け回った。


 先代藩主の命日に、与一は特別な膳を考案した。藩の特産であった青海苔を練り込んだ手打ちの蕎麦、近隣の山で採れた猪の肉を使ったしし鍋、そして、わずかながら手に入った米で炊いた白飯。どれも、今の藩の財政状況からすれば破格の献立だった。


「これならば、殿も、そして若い侍たちも喜んでくれるだろう」


 満足げに頷く与一の前に、しかし、冷水を浴びせる人物が現れた。


 勘定奉行の渋沢監物その人であった。渋沢は、ずらりと並べられた料理を一瞥すると、眉間に深い皺を刻んだ。


「饗庭殿、これは一体どういうことですかな?このご時世に、これほどの贅沢は許されませぬぞ。藩の財政が如何に厳しいか、ご存じないわけではあるまい」


「渋沢様、これは年に一度の、先代様をお偲びする大切な日。そして、日頃、粗食に耐えている藩士たちへの、せめてもの労いでござる。これくらい、お許し願えまいか」


「ならん!質素倹約こそ、今の我が藩の務め。猪肉などはもってのほか!蕎麦も、もっと量を減らしなされ。白飯などもってのほか、いつもの通り雑穀飯で十分じゃ!」


 渋沢の言葉は、まるで刃のように与一の胸に突き刺さった。顔を真っ赤にして反論しようとする与一だったが、渋沢は冷ややかに続ける。


「これは決定事項です。もし、これ以上、無駄な食材を使うようであれば、今後の厨房への予算をさらに削減することも考えねばなりませぬな」


 その言葉に、与一はぐっと奥歯を噛み締めた。怒りで体が震える。


 しかし、ここで反発すれば、本当に厨房の予算を削られかねない。それは、若い衆や、何より藩士たちをさらに苦しめることになる。


 与一は、深々と頭を下げ、絞り出すような声で答えた。


「…承知、つかまつった」


 その日の饗膳は、結局、渋沢の指示通り、貧相なものに成り下がった。猪肉は消え、蕎麦の量は半分になり、白飯は見る影もなかった。


 与一は、悔しさで唇を噛みながら、黙々と料理を配膳するしかなかった。藩士たちの落胆した顔が、彼の心を容赦なく抉った。


 それでも、与一の料理人としての矜持が、完全に折れたわけではなかった。


 藩内には、病弱な者や、生まれつき食の細い若様などもいた。


 表立ってはできないが、与一はそういった者たちのために、こっそりと滋養のある食材を融通し、特別な料理を別誂えで作ることがあった。


 自分のわずかな給金をはたいて食材を調達することもあったし、時には、懇意にしている農家や漁師に無理を言って分けてもらうこともあった。


 ある時、長く病に伏せっている老藩士のために、与一は精魂込めて鯛の潮汁を作った。


 貴重な鯛は、馴染みの漁師が「料理頭になら」と、こっそり横流ししてくれたものだ。


 その芳醇な香りは、たちまち厨房の外にまで漂い、運悪く通りかかった渋沢の配下の役人の鼻を刺激した。


「饗庭殿!これは一体何事か!そのような贅沢な食材、どこから手に入れた!」


 役人は色めき立ち、与一を問い詰めた。与一は、臆することなく言い放った。


「これは、病に苦しむ者を慮ってのこと。料理人として、弱った者に滋養のあるものを食わせるのは当然の務めじゃ。文句があるなら、奉行様にそう伝えられよ」


 その堂々たる態度に、役人は一瞬怯んだが、それでも職務は職務である。「上役には報告する」と言い残して去っていった。


 後日、渋沢本人から厳しい叱責を受けたが、与一は一歩も引かなかった。


「それがしの首を刎ねるというなら、それでも構いませぬ。しかし、食えぬ者に食わせるのが料理人の道。この道だけは、曲げるわけには参りませぬ」


 渋沢も、与一の腕と、その頑固なまでの職人気質は認めていた。


 そして、何より、彼が私腹を肥やすような真似は一切せず、ただひたすらに「食」と向き合っていることも知っていた。


 結局、この件は厳重注意という形で収まったが、与一の厨房での孤軍奮闘は、ますます厳しいものとなっていった。



 夜、一人になると、与一は酒を呷りながら、過ぎ去りし日々を思うことがあった。


 若い頃、彼は京の有名な料亭で修行し、その後、江戸の武家屋敷でも腕を磨いた。


 そこでは、日本全国から集められた最高の食材を使い、贅を尽くした料理を作ることができた。客たちの満足げな笑顔、賞賛の言葉。


 それが、何よりの喜びであり、誇りであった。


「わしの料理で、人々を笑顔にしたい」

「相馬藩ならではの、心づくしの料理を生み出し、藩の名を高めたい」


 そんな夢を抱いて故郷の相馬中村藩に戻ってきたが、現実はあまりにも厳しかった。藩の財政難は、料理人の夢を打ち砕くには十分すぎるほどの力を持っていた。


 昼餉時、広間で出されるのは、ほとんどが握り飯と粗末な汁物、そして申し訳程度の漬物だけだった。若い藩士たちは、それを不満そうな顔で、あるいは諦めたように黙々と頬張る。その光景を見るたび、与一の胸は締め付けられるような痛みに襲われた。


「すまねえ…すまねえな、お前たち…」


 声には出せない謝罪の言葉が、心の内で繰り返される。


 料理人として、これほど無力感を覚えることはなかった。藩士たちの、あの生気のない目。あれは、腹が満たされぬだけでなく、心もまた満たされていない証拠ではないのか。


 食は、ただ腹を満たすだけのものではない。人の心を豊かにし、明日への活力を与えるものだ。そう信じてきた与一にとって、今の状況は耐え難いものだった。


「いつか、いつか必ず、こやつらに腹一杯、心から美味いと思えるものを食わせてやりてえ…」


 その想いだけが、かろうじて与一の心を支えている細い糸だった。だが、その糸も、いつぷつりと切れてしまうか分からないほどに、張り詰めていた。



 そんなある日のこと、城下で奇妙な噂が囁かれ始めた。藩の目安方筆頭に、栗田謙信くりた けんしんという、何やら型破りで、面白いことを次々と仕掛けている若武者が現れたというのだ。


「何でも、目安箱に投じられた領民の訴えを、自ら聞き取りに回り、即座に解決してしまうとか」


「ああ、聞いた聞いた。あの古臭い慣習ばかりの評定所に、新しい風を吹き込んでいるらしいな」


「『KAIZEN』とかいって、藩の仕事を効率化しようとしているともっぱらの評判だ」


 厨房で若い衆がそんな噂話をしているのを耳にした与一は、当初、鼻で笑っていた。


「ふん、また若造の、絵空事のような戯言であろうよ。目安方だか何だか知らんが、この藩の根深い病巣は、そう簡単に取り除けるものではないわい。どうせ長続きはせんわい」


 そう吐き捨て、いつものように仕事に戻った。新しいもの、訳の分からぬものに対する警戒心は、与一の頑固さの一端でもあった。


 しかし、栗田謙信の噂は、日を追うごとに具体性を増し、そして、良い評判ばかりが聞こえてくるようになった。


 滞っていた訴訟が次々と片付き、無駄な支出が削減され、城下の商人たちにも活気が戻り始めたという。


 さらには、藩士たちの訓練方法も見直され、士気が高まっているという話まで聞こえてきた。


「あの栗田様が来てから、なんだか城全体の雰囲気が明るくなったような気がしやすぜ、料理頭」


 松吉が、少し興奮した面持ちでそう言った。与一は、相変わらず無愛想な顔で、


「馬鹿を言え。たかだか一人の若造が、何をしたというのだ。気のせいだ、気のせい」


 と突っぱねたが、その言葉とは裏腹に、心の奥底で何かが微かに動き始めているのを感じていた。


 最初は無視し、次に嘲笑し、そして今、与一は、その栗田謙信という若武者の存在を、無視できないものとして意識し始めていた。


 もちろん、すぐに期待するほど、与一の心は単純ではない。長年の苦労と失望が、彼を懐疑的にさせていた。


 だが、それでも。


 もし、万が一。


 あの目安方の若造が、本当に、この腐りきった藩の空気を変えられるというのなら…。


 そして、万が一にも、この絶望的な厨房にまで、あの『KAIZEN』とやらで、新しい風を吹き込んでくれるというのなら…。


 それは、あるいは…。


 与一は、無意識のうちに、窓の外に広がる空を見上げていた。


 相変わらず鉛色をした空だったが、ほんのわずか、雲の切れ間から陽の光が差し込んでいるように見えたのは、気のせいだったろうか。


 その時、厨房の入り口が勢いよく開かれ、甲高い、しかし力強い声が響き渡った。


「ごめんください!こちらに、饗庭与一殿はいらっしゃいますかな!?」


 与一が驚いて振り返ると、そこには、涼やかな目元に利発そうな光を宿し、しかしどこか常人離れした熱量を放つ、一人の若武者が立っていた。


 歳は二十代半ばか。その出で立ちは質素だが、背筋はぴんと伸び、全身から自信と活力が溢れ出ている。


 若武者は、厨房の中を見回し、仁王立ちしている与一を見つけると、ぱあっと顔を輝かせ、ずかずかと近寄ってきた。


「おお!あなた様が、かの有名な饗庭与一殿ですな!お噂はかねがね!某、目安方筆頭を拝命しております、栗田謙信と申します!以後、お見知りおきを!」


 そう言って、深々と頭を下げる若武者。与一は、あまりの突然の出来事に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


(栗田…謙信…だと…?)


 噂の人物が、なぜ、この俺を訪ねてきたのか。


 しかも、その目は、まるで長年探し求めていた宝物を見つけたかのように、きらきらと輝いている。


 謙信は、顔を上げると、与一の手をいきなり両手でむんずと掴んだ。その力強さに、与一は思わずたじろぐ。


「饗庭様!この栗田、饗庭様の神のごとき料理の腕と、その熱き職人魂に、感動いたしました!つきましては、我が藩士たちの『エンプロイー・エクスペリエンス向上』のため、共に『食のKAIZEN』を断行し、奇跡の『KAIZENランチ』を開発しようではございませんか!」


 暑苦しいほどの熱弁。そして、意味の半分も理解できない横文字の羅列。


 与一は、ぽかんと口を開けたまま、この嵐のような若武者を見つめていた。


 長年、澱んだ水のように停滞していた厨房の空気が、この瞬間、激しくかき回されたのを、彼は確かに感じていた。


 頑固でぶっきらぼうな料理頭の心に、ほんの僅かに芽生え始めていた変化の兆し。


 それが、この栗田謙信という、規格外の男との出会いによって、果たしてどのような化学反応を起こすのか。


 相馬中村藩の食文化が、そして藩士たちの腹と心が、根底から変わることになる、そのほんの少し前の物語。


 饗庭与一の、長く、そして熱い戦いの新たな幕が、今、まさに上がろうとしていた。


 彼の、頑固でぶっきらぼうな態度の下に隠された、料理への熱い情熱と、そして「本当に美味いもの」への飽くなき探求心が、やがて謙信の型破りな発想と出会うことで、どのように爆発し、そして藩の食文化を根底から変えていくことになるのかを予感させて、幕。



不器用な男です。


ブクマと評価を頂けると作者が喜びます。本当に喜びます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ