幕間2:若様放浪記 ~陸奥の風雲児(自称)、初めて江戸の空を見る~
相馬中村藩の若様、相馬吉胤(後の昌胤)は、退屈していた。城の中は、どこもかしこも作法と伝統と、そして年寄りたちの小言で息が詰まりそうだった。傅役ふやくの堅苦しい講釈は子守唄にしか聞こえず、剣術の稽古も、型にはまった動きの繰り返しで、ちっとも心が躍らない。
父である現藩主は厳格な人物であり、母は病弱で床に伏せりがちであった。家臣たちは皆、吉胤を丁重に扱い、その一挙手一投足に気を配り、そしてその行動を常に監視しているかのように感じられた。それが、若く血気盛んな吉胤には、何とも窮屈でならなかったのだ。
「ああ、つまらん! 実につまらん! この城の外には、もっと心が沸き立つような、面白いものがたくさんあるというのに! このままでは、わしの魂は、陸奥の冬の氷のように、カチコチに凍えてしまうわ!」
吉胤は、自室の窓から見える、どこまでも続く陸奥の青い空と、その向こうに広がるであろう未知の世界を思い描き、何度そう独りごちたことか。
彼の心は、まだ見ぬ広い世界への尽きせぬ憧れで、いつもパンパンに膨らんでいた。城下の古本屋の主といつしか懇意になり、こっそりと江戸の戯作者が書いたという滑稽本こっけいぼんや、遠い異国の風物が描かれたという怪しげな絵図などを手に入れては、夜更けまで読みふけり、想像の翼を広げるのが、唯一の慰めであった。そこには、江戸の町の目まぐるしい賑わいや、奇想天外な事件、そして何よりも、身分の上下に関わらず、自由奔放に、そして生き生きと生きる人々の姿が描かれていた。
「江戸か…一度でいいから、この目で見てみたいものだ。美味いものも、珍しい見世物も、そして何よりも、この陸奥の堅苦しい城の中では決して出会えぬような、面白い人間たちが、ごまんといるというではないか! きっと、わしのこの退屈を持て余した魂を、激しく揺さぶってくれるような、とんでもない何かが待っているに違いない!」
その抑えきれない思いは、日に日に募り、ついに吉胤は、ある大胆不敵な計画を思いつく。
――そうだ、江戸へ行こう。この息の詰まる城を抜け出して、お忍びで。
供には、幼い頃から吉胤の遊び相手兼小言役、そして唯一気兼ねなく話せる相手であった、数歳年上の真面目で心配性な小姓・酒井亀之助(後の城代家老・酒井忠助)だけを伴うことにした。
亀之助は、吉胤の、あまりにも突拍子もなく、そして無謀極まりない計画を聞かされ、最初は顔面蒼白、血の気が引くとはこのことかとばかりに、「若様!何を血迷われたことを!万が一、万が一のことがあれば、若様ご自身だけでなく、この相馬藩そのものが取り返しのつかないことになりますぞ!それに、殿や奥方様になんと申し開きを…!」と、涙ながらに必死で諫めた。
しかし、吉胤は、「亀、案ずるな!わしには天運がある!それに、お前という、石頭で面白みのない男だが、まあ、忠義だけは人一倍の亀が一緒なら百人力だ!それに、もし見つかっても、江戸の面白い土産話でもすれば、父上も母上も、きっとお喜びになるに違いない!」という、根拠のかけらもない自信と、有無を言わせぬ、どこか憎めない笑顔で押し切り、結局は亀之助も、深すぎるため息と、もはや諦観に近い表情で、「…分かりました。若様がそこまで仰せなら…この亀之助、どこまでも、たとえ地獄の果てまでも、お供つかまつりまする。ただし、道中のご無事は、一切保証いたしかねますぞ!」と、悲壮な覚悟でお供をすることを承知したのであった。
こうして、陸奥の若獅子(自称、そしておそらくは藩内で唯一彼だけがそう思っている)の、前途多難にして波乱万丈、そして抱腹絶倒間違いなしの、初めての江戸見物が、月の美しいある夜、静かに、そして無謀にも幕を開けたのである。
第一部:いざ、江戸へ! 若様と亀の、凸凹お忍び道中
【其の一:旅立ちの朝は、寝坊から】
深夜、城の裏門からこっそりと抜け出す手筈であったが、当の吉胤が、江戸への期待と興奮のあまり前夜に一睡もできず、あろうことか出発の刻限に見事に朝寝坊をするという失態を演じた。慌てふためく亀之助が、吉胤の寝所へ飛び込み、「若様!若様!もうとうに日の出の時刻でございますぞ!これでは計画が台無しに…!」と、半泣きで揺り起こし、ようやく目を覚ました吉胤は、頭に芸術的なまでの大きな寝癖をつけたまま、訳も分からぬ顔で目をパチクリさせている。
「むにゃ…亀か…何をそんなに騒いでおるのだ…わしはまだ、江戸で大名行列を組んで、町娘たちに黄色い声援を浴びている夢の途中であったのに…」
「若様!夢はもう終わりでございます!現実にお戻りください!早くしないと、見回りの者に見つかってしまいます!」
結局、吉胤は、顔もろくに洗わぬまま、亀之助に引きずられるようにして裏門からほうほうの体で逃げ出すという、何とも締まらない、そして武士の威厳も何もあったものではない旅の始まりとなった。
用意した荷物も、吉胤が「江戸で流行りのものを買うから、銭だけで良いのだ!着物なぞ、向こうで誂えればよい!」などと、およそお忍びの旅とは思えぬことを言い張ったため、わずかな着替えと、吉胤がなけなしの小遣いをはたいて用意した(それでも若様にとっては大金であったが、江戸の物価を考えれば雀の涙にも等しい)旅費だけ。亀之助は、そんな吉胤の世間知らずぶりに、早くも頭痛と胃痛の予兆を感じ始めていた。
「若様、本当にこれでよろしいのでございますか…? 道中の宿代や食費だけでも、かなり心許のうございますが…」
「良いのだ、亀! 身軽が一番! いざとなれば、この吉胤の知恵と度胸と、そしてこの輝くばかりの若様オーラで、どうにでもなるわ! それに、お前も少しは銭を持っておるであろう?」
(…その知恵と度胸と若様オーラが、一番信用できませぬ…そして、私のなけなしの蓄えを当てにするのはおやめください…)と、亀之助は心の中で、誰にも聞こえぬよう、しかし切実に叫んだ。
奥州街道を南下する道中は、案の定、吉胤の世間知らずと好奇心、そして亀之助の心配性と苦労性が織りなす、トラブルと珍騒動の連続であった。
初めて見る街道沿いの宿場町の賑わいに、吉胤は目をキラキラと輝かせ、あちこちの店先に顔を突っ込んでは道草を食い、その度に亀之助に「若様!我々は先を急ぐ身でございますぞ!」と、悲鳴に近い声で叱られる。
茶屋で出された土地の名物という、素朴な味わいの餅菓子を「これは美味い! 天下逸品じゃ!」と、口の周りを粉だらけにしながら夢中で頬張り、勘定のことをすっかり忘れて悠々と立ち去ろうとし、慌てた亀之助が身銭を切って支払う羽目になる。
道端で、いかにも怪しげな風体の男が売っていた「熊の胆より百倍効くという、不老長寿の秘薬」なるものに、「ほう、それは誠か!ならば一つ試してみようではないか!」と、純粋な(そして危険な)好奇心で手を出しそうになり、亀之助に羽交い締めにされ、「若様!そのような得体の知れぬものに手を出すなど、正気でございますか!?」と、本気で涙目になりながら止められる。
夜は、安宿の固く、そして何やら蚤でもいそうな布団と、慣れぬ旅の疲れでなかなか寝付けず、「亀、亀、わしは退屈で死にそうだ。何か面白い話でもしてくれ。そうだ、お前が昔、好きなな町娘に振られたという、あの情けない話でもよいぞ」などと、人の古傷をえぐるような無茶ぶりをしては、亀之助をさらに不眠と心労の淵へと突き落とすのであった。
「若様…拙者は、若様の傅役でも、ましてや噺家でもございません…それに、その話はもうお忘れくださいと、あれほど申し上げたではございませんか…」
「固いことを言うな、亀。わしが退屈なのだ。それより、江戸に着いたら、まず何を見るべきか、一緒に考えようではないか。芝居か?相撲か?それとも、吉原という、それはそれはきらびやかな、男にとっては夢のような場所もあると、古本屋の親父が申しておったが…」
「若様! 吉原など、めっそうもございません! そのような場所へお近づきになるなど、殿にお顔向けできませぬし、そもそも我々にはそのような大金はございません!」
亀之助の胃痛は、まだ江戸の土を踏む前から、確実に、そして深刻に進行していた。
【其の二:白河の関は、江戸への入り口か、はたまた胃痛の始まりか?】
陸奥と下野の境にそびえる白河の関。古来より歌枕にも詠まれ、多くの旅人が往来したこの関所は、江戸へ向かう者にとって重要な通過点であり、そして若き吉胤にとっては、初めて経験する「藩の外」の厳しさと、世間の広さを肌で感じる場所となった。
「亀、あれが白河の関か。思ったよりも…物々しいというか、何というか、空気がピリピリしておるな」
吉胤は、関所の厳めしい櫓や、鋭い目つきで旅人たち一人ひとりを見咎める、屈強そうな関守たちの姿を見て、さすがに少しばかり気圧された様子だ。彼の想像していた、もっと自由で開放的な旅のイメージとは、少々異なる現実がそこにはあった。
「若様、ここでは決して相馬中村藩の若様であることなどおくびにも出されませぬよう。くれぐれも、軽はずみな言動はお慎みください。ここは、我らが藩の城下とは訳が違いますぞ。一歩間違えば、江戸に着く前に、関所で捕らわれの身となりかねませぬ」
亀之助は、いつになく真剣な、そして切実な表情で吉胤に釘を刺す。彼の額には、うっすらと脂汗が滲んでいた。
いざ、関所越え。吉胤は、亀之助から「決して余計なことは喋らず、全て私に任せてください」と固く言い含められていたにも関わらず、関守の「身元と、江戸へ行く目的を申せ」という厳しい盤詰に対し、持ち前の鷹揚さというか、能天気さで応じようとしてしまう。
「うむ、わしは、まあ、その…陸奥の片田舎から出てきた、ただの物見遊山の者じゃ。江戸の都は、さぞかし面白いと聞いてのう。一度、この目で見てみようと思ってな。はっはっは!」
その、あまりにも若様然とした言葉遣いや、世間知らずを隠そうともしない態度、そして何よりも場違いな高笑いは、当然のことながら、関守の鋭い疑念の目をさらに厳しいものにさせた。
(こ、この若造…何か隠しておるな…?)
亀之助は、背中に滝のような冷や汗を感じながら、必死で吉胤の前に割り込み、
「も、申し訳ございません、お役人様! こちらの若旦那は、少々頭のネジが緩んで…いえ、長旅でお疲れなのでございます! 我々は、江戸で呉服問屋を営む叔父を頼って商いの修行に参る、しがない田舎の商人でございます! どうか、よしなにお取り計らいを!」
と、震える声で、しかし必死の形相で取り繕い、懐からなけなしの心付け(という名の袖の下)をそっと関守に握らせ、何とか商人風情の若者二人組として、通行手形を認めさせたのであった。
その間、吉胤は、関所の片隅に置かれていた「抜け荷(密輸品)」の見本らしき、ひょうたんに入った怪しげな赤い液体や、異国の文字がびっしりと書かれた羊皮紙の巻物のようなものに目を輝かせ、「亀!亀!あれは何だ!? 実に面白い形をしておるではないか! あの赤い水は、もしや不老不死の霊薬か!? 一つ、土産に買って帰らぬか?」などと、またしてもとんでもないことを小声で言い出し、亀之助は、顔面蒼白を通り越して土気色になりながら、吉胤の口を力づくで塞ぎ、関守たちに聞こえぬよう「若様!あれは禁制品でございます! そのようなものに手を出せば、我らは江戸に着く前に、この場で打ち首獄門になりますぞ!」と、もはや泣きそうな声で叱りつけた。
関所を命からがら(主に亀之助が)通過し、ようやく一息ついた街道沿いの小さな茶屋でのこと。吉胤は、江戸から奥州へ向かう途中だという、見るからに抜け目のなさそうな薬売りの一行と出会った。彼らは、大きな風呂敷包みをいくつも抱え、その中には、色鮮やかな袋に入れられた丸薬や、奇妙な絵が描かれた膏薬、そして何やら良い香りのする粉薬などがぎっしりと詰まっていた。
「いやあ、若旦那がたも、これから江戸へ? 江戸はそりゃあ面白いところでっせ。銭さえあれば、天竺渡りの珍品だって手に入りますし、一夜にして大金持ちになる奴もいれば、逆にケツの毛まで抜かれてスッテンテンになる奴もいる。まさに、人の欲と夢と、そしてちょっぴりの嘘が渦巻く、魔都みてえなところですわい。へっへっへ」
薬売りの頭領らしき男は、にやついた顔でそう言うと、吉胤と亀之助に、江戸の最新の流行や、各地の珍しい噂話、そして何よりも「商売の面白さ」と「銭儲けの秘訣」を、立て板に水のごとく、面白おかしく語って聞かせた。
吉胤は、彼らから聞く江戸の生き生きとした話に目を輝かせ、身を乗り出して聞き入り、すっかり意気投合。
「ほう、江戸ではそのような薬が流行っているのか!それは面白い!人の悩みや病を治し、感謝され、しかも銭まで儲かるとなれば、これほどやりがいのある仕事もあるまい!よし、わしも何か新しい薬でも開発して、この陸奥の薬草を使い、江戸で一儲けしてみるか!名付けて『相馬中村藩特製・万病即効若様元気丸』!」
「若様!またそのような馬鹿なことを!第一、若様に薬の調合の心得など、微塵もおありでないではございませんか!それに、そのような怪しげな名前の薬、誰が買うというのですか!」亀之助は、もはや何度目か分からない絶望的なため息を、深く、そして重くついた。
しかし、この抜け目のない薬売りたちとの出会いは、吉胤の中に、外の世界の多様性と、そして「新しいものを生み出し、それを人々に届ける」ことへの興味を、さらに強く刺激したのかもしれない。
彼らが、巧みな口上と、人目を引く派手な包装、そして「今ならもう一つおまけ!」といった巧みな販売戦略で薬を売りさばく様は、後の栗田謙信が「相馬屋」で見せる「マーケティング戦略」や「プロモーション活動」を、どこか予感させるものであった。
茶屋の老婆が出してくれた、この地方で古くから飲み継がれているという、数種類の薬草を煎じた、苦いがどこかスッキリする不思議な味わいの「健胃湯」を飲みながら、吉胤はふと思った。
(このただ苦いだけの薬草湯も、名前を例えば『陸奥秘伝・若様印 健やか爽快長寿之湯』とでもして、派手な効能書きと、美しい絵図でもつければ、江戸の者共には珍しがられて、それこそ飛ぶように売れるやもしれんな…いや、待てよ、まずいものほど体に良い、という逆説的な売り文句も面白いかもしれん…)
その、あまりにも安直で、そしてどこか商魂たくましい発想は、後の藩主・相馬昌胤の、あの独特な「新しいもの好き」と「面白いこと好き」の片鱗を、確かに感じさせるものであった。亀之助の胃は、このありがたい健胃湯を飲んでも、残念ながら、一向に良くなる気配は微塵もなかった。
第二部:花の都の万華鏡 ~若様、江戸で七転八倒~
【其の一:日本橋の喧騒と、財布の軽さ】
幾多の困難(主に吉胤が引き起こし、亀之助が必死で解決する)を乗り越え、ついに江戸、日本橋に到着した吉胤と亀之助。
その、どこまでも続く人の波、道の両側に軒を連ねる多種多様な店の賑わい、威勢の良い呼び込みの声、行き交う人々の熱気、そして何よりも、情報の洪水とも言うべき喧騒に、吉胤は目を丸くし、口をあんぐりと開けたまま、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「す、すごい…これが江戸か…! まるで、毎日が祭りのようだ! 見ろ、亀! あの大きな魚! あの美しい反物! あの…あの、何やら怪しげな見世物小屋は一体何だ!?」
吉胤は、初めておもちゃ屋に連れてこられた子供のようにはしゃぎ回り、あちこちへと走り出そうとする。亀之助は、そんな吉胤が人混みではぐれてしまわぬよう、そして江戸の悪党たちの格好の餌食とならぬよう、その袖をしっかりと掴み、片時も目が離せず、気苦労が絶えない。
早速、吉胤は江戸の美味いものを片っ端から食べ歩こうとするが、その値段の高さに度々驚愕することになる。
「な、何だと!この握り寿司一貫が、我が相馬の城下で食べる昼餉の握り飯三つ分だと!? 江戸の物価は、どうなっておるのだ!これでは、三日も持たずに破産してしまうではないか!」
持参したなけなしの小遣いは、吉胤の旺盛な食欲と好奇心の前にはあまりにも無力で、あっという間に心許なくなり、江戸での豪遊どころか、日々の宿代すら心配になる始末であった。亀之助は、密かに自分のへそくりを切り崩しながら、吉胤の無駄遣いを諌めようとするが、聞く耳を持たない若様の暴走はなかなか止まらない。
そんなある日、日本橋のたもとで、往来の隅に座り込み、一枚の絵草子を道行く人々に懸命に売ろうとしている、年の頃は吉胤と同じくらいか、少し下に見える貧しい身なりの若い絵師と出会った。その絵は、決して技巧的に上手いとは言えないが、どこか素朴で温かく、江戸の庶民の日常や、名もなき人々の喜怒哀楽の表情を、生き生きと、そして愛情深く描いていた。
「ほう、なかなか面白い絵を描くではないか。その筆致、どこか飄々としておるが、描かれた人物の心の奥底まで見通しているかのような、鋭い観察眼も感じられる。わしもな、昔取った杵柄と言うほどではないが、絵を描くのは嫌いではないのだ。どれ、一つじっくりと見せてもらおうか」
吉胤は、その若い絵師とすぐに意気投合し、しばらくの間、絵談義に花を咲かせた。
そして、何を思ったか、懐からおもむろに取り出した自分の描いたという馬の絵(本人は疾走する駿馬の勇姿を描いた傑作のつもりだが、亀之助の目には、どう見ても足が三本しかないように見える奇妙な獣が、何やら苦しそうにのたうち回っているようにしか見えない代物)を、その絵師に「これはわしの故郷、陸奥の野を駆ける名馬じゃ。お主の絵もなかなか見どころがある故、特別にこれを与えよう。今後の参考にするとよい」と、実に気前よく(あるいは、もはや自棄っぱちに)与えてしまった。
若い絵師は、そのあまりにも奇妙で、そしてお世辞にも上手いとは言えない馬の絵を見て、一瞬、言葉を失い、顔を引きつらせていたが、すぐに人の好さそうな笑顔を浮かべ、「いやはや、これはまた…何とも…力強く、そして独創的な筆致でございますなあ。まるで、描かれた馬の魂が、絵の中からこちらへ向かって猛然と駆けてくるかのようで…素晴らしい!まことに素晴らしい絵でございます!ありがたく頂戴いたします!」と、無理やり、しかし心からの(ように見える)賛辞を述べた。吉胤は、「そうであろう、そうであろう!お主もなかなか見る目があるではないか!」と、すっかり満悦の表情であった。
この、江戸の片隅での貧しい絵師とのささやかな出会いと、自らの絵に対する(勘違いかもしれないが)自信が、後の藩主・相馬昌胤の、あの独特な絵付けのセンスや、新しい芸術への寛容さに繋がったのかもしれない…と、思うのは、さすがに穿ち過ぎであろうか。亀之助は、その光景を遠巻きに眺めながら、(若様…その絵は、どう見ても下手くそでございます…絵師の方も、さぞかしお困りでしょうに…)と、心の中でそっと絵師に同情していた。
【其の二:芝居見物と、役者の心意気】
江戸に来たからには、一度は見ておきたいのが、当代きっての人気役者たちがしのぎを削る芝居の世界。吉胤は、亀之助の「若様、そのような華やかで、しかしどこか退廃的な場所に長居は無用でございます!我々の懐具合も、もはや風前の灯火でございますぞ!」という、血を吐くような悲痛な訴えを、いつものように右から左へと聞き流し、なけなしの銭をかき集め、江戸で最も大きな芝居小屋の一つ、中村座(あるいは市村座)の木戸を意気揚々とくぐった。
初めて間近で見る歌舞伎の舞台は、吉胤の想像を遥かに超えて、絢爛豪華、奇想天外、そして何よりも圧倒的な迫力に満ちていた。美しい衣装に身を包んだ役者たちの、鍛え抜かれた所作と力強い台詞回し、観客と一体となって舞台を盛り上げる鳴り物や掛け声、そして息もつかせぬ物語の展開に、吉胤は完全に心を奪われ、身を乗り出して食い入るように見入っていた。特に、その日の演目で、悲運の若武者を演じた、まだ年若い二枚目の立役役者の、愁いを帯びた美しい容姿と、その内に秘めた激しい情熱、そして観客の心を鷲掴みにするような、圧倒的な存在感に、吉胤はいたく感動し、思わず目頭が熱くなるのを覚えた。
芝居がはね、興奮冷めやらぬ吉胤は、何を思ったか、亀之助の制止を振り切り、その立役役者の楽屋へと、まるで嵐のように押しかけた。
「そなたの芝居、実に見事であった! わしは陸奥相馬から来た吉胤という者じゃ! そなたの、あの若武者の悲憤慷慨、そして内に秘めたる忠義の心、この胸に深く、深く突き刺さったぞ! わしは、そなたの芸に、心底惚れた!」
吉胤は、いきなり大声で、そして何のてらいもなくそう叫び、化粧を落とし途中で呆然とする役者本人や、周りにいた他の役者、裏方たちを、あっけにとらせた。
その立役役者は、最初は驚き、そしていかにも田舎から出てきた若様然とした吉胤の、あまりにも無邪気で、そして熱烈な賛辞に、少々訝しげな目を向けていたが、やがて吉胤の言葉に嘘偽りがなく、その瞳が純粋な感動でキラキラと輝いているのを見て取ると、ふっと緊張を解き、穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「若様、身に余るお褒めのお言葉、恐悦至極に存じます。わたくしども役者は、お客様に、ほんの一時でも浮世の憂さを忘れ、芝居の世界に浸っていただき、そして何か心に残るものを感じていただくこと、それが何よりの喜びであり、日々の務め、生き甲斐でございますれば」
その、静かだが、しかし確かな誇りに満ちた言葉は、吉胤の胸に、まるで熱い鉄を押し当てられたかのように、深く、そして鮮烈に突き刺さった。
(お客様に喜んでいただくこと…お客様に夢を見ていただくこと…か。それは、芝居役者だけでなく、あるいは、国を治める者、藩を預かる者にとっても、同じように一番大切なことなのかもしれんな…)
それは、後の栗田謙信が口癖のように唱える「お客様は神様です!」という言葉の、本質の一端に触れるような、若き吉胤にとって、極めて重要な、そして生涯忘れることのない気づきであったのかもしれない。亀之助は、そんな吉胤の、いつになく真剣な横顔を、少し離れた場所から、複雑な、しかしどこか頼もしいような思いで見守っていた。
【其の三:浅草寺の喧騒と、おみくじの行方】
江戸随一の観光名所であり、庶民の信仰を集める浅草観音、浅草寺。吉胤は、その広大な境内を埋め尽くすかのような人の多さと、仲見世通りの両側にずらりと並んだ、種々雑多な土産物屋や食べ物屋の賑わいに、またしても目を白黒させ、興奮を隠しきれない様子であった。亀之助は、そんな吉胤の袖をしっかりと掴み、スリや置き引きに最新の注意を払いながら、常に周囲に油断なく目を光らせている。
吉胤は、威勢の良い香具師こうぐしの巧みな口上に乗せられ、何の変哲もない木の珠を繋いだだけの数珠を「これはありがたい観音様のご利益が宿った、開運厄除け間違いなしの霊験あらたかなるお数珠でございます!」と言われ、危うく大枚をはたいて買いそうになったり、暑さしのぎに飲んだ冷やし飴の、その喉越しの良さと上品な甘さに感動し、立て続けに何杯もおかわりし、すっかり良い気分になって千鳥足になり、亀之助に肩を貸してもらわなければ真っ直ぐ歩けないほどになったりと、相変わらずのマイペースぶりで、亀之助の気苦労を増やし続けていた。
ようやく本堂に辿り着き、賽銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼(のつもりだが、どこかぎこちない)でお参りを済ませた後、吉胤は「よし、亀! ここは一つ、わしの江戸での運勢を占ってみようではないか!」と言って、おみくじ売り場へと勇んで向かった。
結果は「末吉」。
「むむ…末吉か。大吉ではないが、まあ、凶よりは遥かにマシか。して、何と書いてあるのじゃ?」
吉胤は、少しだけ不満そうではあったが、以前どこかで引いた「凶」よりはマシだと自分を納得させようとしている。亀之助は、その光景を見ながら、(この若様の運勢が末吉とは、むしろ出来過ぎなくらいだ…下手をすれば、また凶を引いて、ここで大騒ぎをなさるのではないかと、気が気ではなかった…)と、心の中でそっと安堵の息をついた。
そのおみくじには、こうも書かれていた。
「望み事、多くは叶いがたし。高望みをせず、分相応を心がけよ。されど、小さな徳を日々積み重ね、人のために尽くさば、必ずや思いがけぬ助けありて、道は開かれん。焦らず、奢らず、誠実であれ。身近な人の言葉に耳を傾けるべし」
吉胤は、その言葉を、何度も何度も読み返し、何かを深く考え込むように、ふっと真剣な表情になった。
(小さな徳…人のために尽くす…か。今のわしに、一体、何ができるというのだ…そして、身近な人の言葉とは…まさか、亀のことではあるまいな…?)
その問いは、若き吉胤の心に、新たな、そしてより具体的な目標を、ぼんやりとではあるが、しかし確かに示唆しているかのようであった。彼はそのおみくじを、大切そうに懐にしまい込んだ。
第三部:陸奥の空、再び ~若獅子、ちょっぴり大人になる?~
【其の一:さらば江戸、また来る日まで?】
数週間にわたる江戸滞在(という名の、吉胤にとっては刺激と興奮に満ちた大冒険であり、亀之助にとっては胃痛と心労と不眠の連続であった苦行)も、いよいよ終わりを告げる日が来た。持参したなけなしの小遣いはとっくに底をつき、宿代も食費も、そのほとんどを亀之助の虎の子のへそくりで何とか賄っているという、実に情けない有様であった。 さすがの吉胤も、これ以上江戸に留まるのは無理だと(亀之助の涙ながらの懇願と、残り少ない財布の中身を見てようやく)悟り、後ろ髪を引かれる思いで、しかしどこか満ち足りた表情で、帰国の途につくことにした。
「亀、江戸は…江戸はやはり、途方もなく面白い、そして底知れぬ魅力に満ちた場所であったな。また必ず来ようぞ。今度は、もっとたくさんの銭をたんまりと持ってな!そして、あの美味い鰻の蒲焼を、それこそ腹がはち切れるほど食ってやるのだ!」
吉胤は、遠ざかる江戸の町並みを、名残惜しそうに何度も何度も振り返りながら、しかしその表情は、旅立つ前とは比べ物にならないほど、どこか自信に満ち溢れ、晴れやかなものであった。
亀之助は、(もう二度と、この若様のお忍びでの江戸見物のお供など、金輪際ご免こうむりたい…私の胃袋と寿命が、いくつあっても足りませぬわ…しかし、まあ、今回の旅で、このお方は、ほんの少しは世間の厳しさも、そして面白さも学ばれた…のかもしれないな…)と心に固く、固く誓いながらも、ほんの少しだけ逞しくなったような(それはおそらく気のせいではなく、日々の心労でやつれた自分とは対照的に、見るもの聞くもの全てに目を輝かせていた若様は、精神的に一回り大きくなったのかもしれない)吉胤の背中を見て、深い安堵のため息と、ほんの少しの寂しさを覚えるのであった。
【其の二:旅の終わりに思うこと】
相馬中村藩への帰り道、奥州街道をゆっくりと北上しながら、吉胤は、これまでの旅の出来事を、まるで美しい絵巻物でも一枚一枚繰るように、あるいは、初めて読んだ面白い物語の筋を辿るように、丹念に、そして何度も思い出していた。
初めて見るもの、初めて聞くこと、初めて出会う人々。堅苦しい城の中では決して見ることのできない、江戸の町の圧倒的な活気と喧騒。そこで生きる人々の、力強い息遣いと、様々な夢や欲望。その全てが新鮮で、刺激的で、そして彼の心を、これまでにないほど大きく揺さぶった。
それは、彼にとって、ただの物見遊山ではなく、世の中の広さと複雑さ、そして人間の面白さと不可思議さを、その身をもって知る、かけがえのない学びの旅であったのだ。
(わしは、これまで、あまりにも狭い、そして守られた世界の中で、何も知らずに、そして何も考えずに生きてきたのかもしれんな…父上や家老たちの言うことが全てで、それ以外の生き方や価値観があることなど、想像すらしていなかった…)
吉胤は、ふと、そんな深い感慨と共に、ほんの少しの反省の念を覚えた。
そして、江戸で出会った、あの芝居小屋の立役役者の、凛とした言葉を思い出す。
(お客様に夢を見ていただく…それこそが、わしが将来、この相馬中村藩の藩主となった時の、一番大切な、そして最もやりがいのある務めなのかもしれんな…そのためには、まず、この藩に暮らす全ての領民たちが、安心して、そして心からの笑顔で日々の暮らしを送れるような、豊かな、そして希望に満ちた藩を、この手で築き上げねばならぬ…)
その思いは、まだ漠然とした、青臭い理想論に過ぎないのかもしれない。しかし、それは若き吉胤の心の中に、これまでにないほど強く、そして確かに根付いた、新しい目標であり、そして生涯をかけて追い求めるべき夢の始まりであった。
その高潔な(そしていささか現実離れした)夢が、やがて栗田謙信という、稀代の「おもてなしの達人」にして「改革の風雲児」との奇跡的な出会いによって、思いもよらぬ形で、そして驚くべきスピードで現実のものとなっていくことなど、この時の彼は、まだ知る由もなかった。
【其の三:陸奥の若獅子、少しだけ牙を研ぐ】
相馬中村藩の城に戻った吉胤は、父である藩主や、筆頭家老をはじめとする家臣たちから、その無断での長期不在と、お忍びでの江戸見物という前代未聞の行動に対し、こっぴどく、それこそ数日間にわたり、座敷牢に入れられる寸前まで厳しく叱責されたのは言うまでもない。しかし、彼は、どこ吹く風といった様子で、
「いやあ、父上、江戸は実に素晴らしいところでございましたぞ! あの賑わい、あの活気、そして何よりも、あの美味い鰻の蒲焼! 我が相馬中村藩も、いつの日か、江戸に負けぬような、活気あふれる、そして美味いものがたくさんある、面白い藩にしたいものですなあ! そのためには、まず、あの古臭くて、見ているだけで眠くなるような勘定方の帳簿から、ドーンと改革ですな! 例えば、帳簿を全て絵入りにするとか、あるいは…」
などと、全く反省の色を見せず、逆に父を呆れさせ、そして、当時から既に勘定奉行として藩財政の重責を担い、先々代の頃よりその辣腕を振るっていた渋沢監物を、新たな、そして将来さらに大きな頭痛の種となりそうな若様の奇抜な言動で、密かに胃を痛ませるのであった。
だが、確かに、あの無鉄砲な江戸への旅から帰ってきた吉胤は、以前とは少しだけ、本当に少しだけではあるが、変わっていた。
相変わらずの新しいもの好き、面白いこと好きで、突拍子もないことを言い出しては周囲を困らせる性格は健在であったが、その目に、以前にはなかった、どこか深く、そして遠くの、しかし確かな一点を見据えるような、強い光が宿るようになったのだ。
そして、これまで退屈で仕方がなかったはずの藩の政務に関する様々な報告にも、時折、ハッとさせられるような鋭い質問をしたり、あるいは、家老たちが眉をひそめるような、しかしどこか的を射た奇抜な意見を述べたりして、周囲の者たちを驚かせるようになった。
「父上、我が藩の特産品、例えばあの素朴で地味な相馬焼なども、江戸の商人たちと上手く手を組み、もっと新しい、若者にも好まれるような絵付けや形を考え、そして江戸での売り方を工夫すれば、あるいは大きな銭になるやもしれませぬぞ。そのためには、まず、藩の古いしきたりや、一部の者だけが甘い汁を吸っているような、旧態依然とした仕組みを、思い切って見直す必要があると思うのですが、いかがでございましょうか?」
その言葉は、まだ若く、経験も浅く、そしていささか青臭いものではあったが、確かに、後の名君(あるいは、稀代の面白藩主?)相馬昌胤の、大胆不敵な改革への、ほんの小さな、しかし確実な第一歩を予感させるものであったのかもしれない。
陸奥の若獅子は、初めて見た江戸の空の広さと青さ、そしてそこで出会った人々の熱気を、その若い胸に深く刻み込み、自らの内に秘めたる牙を、ほんの少しだけ、しかし確実に研ぎ始めていた。その牙が、やがて相馬中村藩の未来を、大きく、そして何よりも面白く切り開いていくことになるのは、また、この物語の少しだけ先のお話である。
(若様放浪記 ~陸奥の風雲児(自称)、初めて江戸の空を見る~ これにて一旦、幕)
この上司あってあの部下あり、ということですかね。
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