クライシス
瑠花の短大卒業後のアフターストーリー
祥大との同居解消の危機に直面する瑠花だが……
さらさらさら……。
優しい春の風があたしの部屋のカーテンを楽しげに踊らせている。
窓越しに裏向いのお家の庭に咲く八重桜の濃い桃色が目に入った。
そうかあ。もうあの桜が満開になる時期が来たんだ。
小さい頃、八重桜が桜とは知らず『あの花は何なんだろう?』って、ずっと不思議でしかたがなかった。
その謎を解いてくれたのはこの家で一緒に暮らしていたおばあちゃん。
『あれも桜の花なんだよ瑠花。花びらが八重咲きになっていてまるで牡丹の花のようだからね。別名ぼたん桜とも呼ばれているのよ』
この季節がくると思い出すんだ。あたしの大好きだったおばあちゃんのこと。命日じゃなくぼたん桜の季節に懐かしくなるの。
会社務めで多忙な母の代わりにあたしにいろんなことを教えてくれた。
パウンドケーキやシフォンケーキもよく作って食べさせてくれた。今思えば結構ハイカラなおばあちゃんだった。まだまだいっぱい教えて欲しいことあったのに、意外に早くこの世を去ってしまった。
おばあちゃんが居たからあたし、たぶんこの道に進むことにしたんだと思う。
先月短大を卒業したあたしは憧れているパテシエールのお店に就職することが決まり、勤め始めている。
祥大より先にあたしは社会人となった。祥大は4大だからまだ当分は学生の身分。
ほんの少しだけあたしのほうが先に自立した気分。といってもまだ初任給ももらってないんだけどね。
「瑠花いる?」
「うん。はいっていいよ」
「今日バイトじゃなかったの?」
「いや、今日はマスターの急用で臨時休業になった」
「そうなんだ」
祥大は大学生になってからもあの昭和ロマンの香り漂う『陽だまり』という喫茶店でバイトを続けている。あそこの渋いマスターに祥大は相当気に入られているようで、大学生になってからも店を手伝ってくれないかって猛アタックされたみたい。
それから桜里女学院の生徒たちからもやはり人気らしく、今でも放課後になると祥大目当ての客でお店は繁盛しているみたいよ。
あたしも少し大人になったから、余裕綽々にそのことを受け止めている。
祥大に限って浮気なんてあり得ない。
だって、あたし、祥大のこと信じているんだもん。だいじょうぶ。
「ねっ、祥大」
「な、なに、なんなんだよ急に」
ふふ。訳わかんないって顔してる。
「別になんでもないよ。ところで祥大なんか用でもあったの?」
「いや、あのさ、俺、もう限界かなって思って」
「なにが?」
「一緒にここで暮らすことにだ」
え? ちょっと待って。あたし……なんのこと?
そんなの知らないよ。
どうして祥大、なんで急にそんなこと言いだしたりするのよ。
「原因はなに? あたしのせい?」
「俺がもう限界なんだ。やべっ、市役所にいくんだった。諸々の手続きとか片付けとかねえと落ち着かねえし。じゃあ、俺急ぐし、いくわ」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと、……祥大ってば」
ぱたんっ。
なんなの、慌てて出てっちゃった。
ねえねえ、これって。
あたし、かなりのピ・ン・チなんじゃ……。
いやいやいや。まだなんも詳しくは聞いてない!! 単なる誤解かもしれない。
けど、あたしには『おまえと一緒にここで暮らすことはもう限界なんだ』そう祥大が言ったようにしか理解できない!!
そんなのってあり?
あたしは心の底から祥大のこと信頼してるから、すっごくすごく信じてるんだよ。
それなのに、祥大はあたしに愛想尽かしちゃうの?
なんて日。なんてサイテーな日なの今日って日は。
就職してからずっと気を張りっぱなしでやっと迎えた今日は3回目の休日だっていうのに。
そして偶然にも祥大も今日は大学の講義ない日でバイトだって休み。お互いの休みが重なったラッキーデーのはずが、水風船みたいに一瞬でポシャンって音を立てて壊れてくなんて。
祥大教えてよ、あたしの何が、何処が至らなかったのか。
せめてそこから説明してよ。そしたらあたしがんばって悪いとこ直すようにするから。
でなきゃ、あたし、立ち直れそうにないよ。そんな突然きつい現実突きつけられたりしても受け入れらんないよ。
ねえ、祥大ってば。
数日たってもこのもやもやは解消されない。
それどころか、祥大の心変わりの真意を追求したくて、だからあたし、つい……。
今日は入社して4回目の休日。
こんなに天気のいい日にあたしが行くところといえば――。
ああ、なんか懐かしい道。よく祥大とも歩いたっけ、此処。
あれ、こんなところにケーキ屋さんができてる!!
なんで祥大は教えてくれないんだよ。あたしが将来パテシエール目指してること知っているくせに、もうっ。
……。
ちょ、ちょっと今はそんなことぶつぶつ考えてる場合じゃないでしょ。
今日のあたしの目的は……。
うーん、だめだ。よく見えない。もっと近づかなきゃ。中の様子がよくわかんないや。
そぉーと、そおーっと近づいて。
「なにしてんの? 中はいれば?」
「きゃっ!! やっ、なななななななんで祥大ここに居るの!!」
「それ、俺のセリフじゃねえの普通。おまえこそ、こんなとこでこそこそ偵察みてーに不審なことやって、なに?」
「て、偵察なんて、もう、人聞きの悪いこと言わないでよね。あ、ああたしは、ちょっと近く通りかかったついでに、よ、寄ってみようかと思っただけ。なんだから」
「あっそう。じゃどうぞ」
祥大ったら、すました顔してお店のドアを開ける。どうぞって手まで添えてあたしを中へと招きいれたの。
余裕の態度がパニくってるあたしを嘲ってるみたいに思えて、怒りが込み上げてくる。
誰のせいでこんなこと。こんなバカなことやってると思ってんの。
祥大のせいでしょ。祥大があたしに未だになんの理由も言い訳もしてこないから、気になってここまで来ちゃったんだから。
祥大が女子高生に心変わりしちゃったんじゃないかって。ちょこっと心配になって、それがあたしを拒む理由なんじゃないのかって。
「あれ? 瑠花ちゃんじゃないか、久しぶりだね」
「は、はい。こんにちはマスターさん」
「よく来てくれたね。ああ祥大ごくろうさん。そこ置いといて」
「はい」
なんだ。マスターに買出し頼まれてたのかあ。だから外にいたんだ。あたしったら、なんてバッドタイミングで来たんだろ。
「クリームソーダでいいんだよな?」
「あたし、珈琲。やっぱりミルクティーがいい」
失礼しちゃう。あたしとっくにクリームソーダなんて卒業してるんだから。もう、子供じゃないんだからね。
今日の目的、偵察失敗。
これじゃ偵察どころじゃない。桜女の女の子たちは店ん中にたくさん居るけど、たぶん尻尾はださないだろう。祥大が彼女持ちだってことくらいは知っているはず。マスターとも顔見知りの祥大の知り合いに警戒しないわけがない。
見回せば見回すほど、どの子もこの子も可愛くって、あたしよりも若くって、みんな祥大のタイプに見えてきてしまう。
ああ、あたしどうかしちゃってる。再び恋の病に冒されてる。
祥大に出会った頃を思い出す。懐かしいけどちっともハッピーじゃない。
もうやだよ、こんなの。
祥大、祥大ってばー。
あたしの気も知らないで。
あたしの気も知らないで!
あたしの気も知らないで!!
なんで最近、祥大は機嫌よさげなの!!
あたしはこんなに思い悩んでいるというのに。
「るーしゃん、えへんっ、えへんっ、うえぇん、うぇぇーーん、マーマ、ママァー」
「おっまえ、顔こわすぎだろが。愛梨が泣きだしちまっただろ」
「あっ、ああー、あーごめん愛梨。るーちゃんね、怒ってないよお。ほーらほら、にいー。ねっ、笑ってるでしょ。怖くないよ、ねっ?」
「ひひっく、ひん、ひえぇーーーん、マンマー」
あーん、凹む。愛梨泣かないでよ、お願い。
泣きたいのはあたしのほうなんだよ。祥大の心が読めず泣きたいくらい。
愛梨ってのはあたしとも祥大とも血の繋がりのある1歳4ヶ月になる妹のこと。
愛梨は美弥ちゃんの胸に顔を押し付けて本格的に泣き始めちゃった。
あたしもそんな風にしたい。祥大の胸に飛び込んで、あたしの気持ちを受け止めてもらいたい。
あたし、祥大のことが好き。
初めて好きだって気付いた時みたいに切ないほど、こんなにも好きなのに――。
そしてまた今日もあたしと祥大の休みがたまたま重なった。
本来ならラッキーなのに、こんなにも淋しい。
どうやら祥大は出かけるらしい。
もしや……、好きになった相手の子とデートなんじゃ。
みじめだと分かっていても、がまんできない。
このまんま、暢気にかまえて家でくつろいでなんていらんない。
偵察せずにはいられないよ、あたし。
真相を掴みたい。心臓を串刺しにされそうな現場に出くわすかもしれない。
それでもあたし、真実を知りたいんだ!!
祥大に見つかんないように慎重に後を尾行する。
ちょっと目深に帽子なんか被ってみたりして。伊達メガネもかけてみた。
3メートルほど距離を保ち、気付かれないよう足音をひそめて。
祥大が左に角を曲がったことを確認し、10秒ほどカウントしてからそそそっと小走りに進み同じ角を左に。
「なにやってんの?」
!!!
「きゃっ」
どたっ。
「いったいぃ」
超おどろいた拍子に後ろに避けぞり、足がもつれて尻餅ついちゃった。ええーん。
だって角を曲がったら、祥大が塀にもたれてあたしが来るのを待ちぶせしてたんだもん。
クールな顔して呆れたように。
「あーあ、ほんと瑠花、なにやってんだよ。ほら手貸しな」
祥大にぐいっと立たせてもらった。
祥大の手にどきどきしてる、あたし。なんで今さらこんなにシャイなの。
「俺の後つけてたろ?」
「……」
「ふふん」
え? 鼻で笑う? ひどい。あたしはこんなに真剣に悩んでるのに……。
「笑うなんてひどい」
「逆ギレしてる?」
「祥大が悪いんでしょ。あたしに内緒で誰に会いに行くつもりだったのよお」
「誰って、別に誰にも」
「うそ。絶対うそ! あたし知ってるもん。桜女の子でしょ」
「嘘だと思うんだったら、このまま俺の後ついてこいよ」
「いや、行かないっ」
「だめだ、来いよ」
「やっ、やめて!! ひっぱらないでよ」
やだもうー。行きたくないんだってば。
祥大が強引にあたしの手をひっぱって連れていこうとする。
ああもう、なんでこんな時に……、祥大の力いっぱい掴む手に、あたし、どきどき、どきどき……。祥大への想いが止められないよ。
「着いた。此処だぞ。俺が来ようとしていたのは」
「此処……。ここっておばあちゃんのマンション」
「今は美弥ちゃんの管理するマンションだろ」
「そうだけど、なんで此処に……。あっ、ああっ。ああーー」
『おまえと一緒にここで暮らすことはもう限界なんだ』
あれだ。
「祥大、ここに引っ越してくるの?」
「そのつもりだけど。301号室に空きがでたって聞いたから下見に来たんだ」
「そう、なんだ。そうなんだ……」
祥大、ここに引っ越すんだ。あたしとは別に暮らすんだ。
「エレベーター来たぞ。ほら」
あたしの背中を押しながら、ふたりで小さな箱の中に収まってく。
祥大がジーンズの右ポケットから鍵をだし施錠を解き開けると、がらーんとした殺風景な部屋が垣間見えた。
「思ったより広く感じるな。2DKで充分だな」
「むしろ贅沢すぎでしょ。祥大ひとりなのに」
「なんで? 俺ひとりじゃないから」
や、もう止めて。それ以上聞きたくない。
あたしはもう現実逃避の極限。
駄々っ子みたいに両手で耳を塞ぎ首を左右へと振りながら、目は硬く閉ざし、祥大の言葉を遮断し続けた。
「瑠花、瑠花」
祥大があたしの名を呼んでいる。
「ごめん」
いや、謝らないで。
祥大があたしの身体を力いっぱいに抱きしめてくる。
慰めてくれなくていい。余計みじめになるから。
「瑠花、子供みたいにしないで聞いて」
やだ。優しい声ださないで。
なんで、どきどきするの。哀しいのにときめくの。
好きだから? 祥大を今でも愛しているから。
「るーか」
な、なにするの。やだ。
力づくで手を剥がされ、強く掴まれる手首、痛いよ。
「なによっ!!」
また逆ギレしてるあたし。もう、どうにでもなれ!!
「瑠花も一緒じゃなきゃ、俺ここには引越してこないから」
「えっ? どういうこと祥大……」
祥大があたしの胸元に顔を寄せながら言った言葉。
うそ。ほんと?
掴まれていた手首は解かれ、代わりに腰が包囲されている。
「瑠花とふたりだけで暮らしたい」
「あたしもだよ」
胸元に寄せられた祥大の顔。大切に腕で包み込み、祥大の頭に頬ずりをする。
大好き。
どうしよう、この気持ち大きすぎて、溢れだして溺れそうだよ、あたし。
再び祥大はあたしの両手を今度は優しく掴みながら教えてくれた。
「瑠花と暮らすために将来のこと考えて、俺の苗字を元に戻す手続きをしてきたんだ。だから俺いまはもう『田中祥大』じゃなく『皆藤祥大』に戻ったんだ」
「皆藤祥大」
「そう。親父たちは既に了解済み。あとは瑠花に尋ねるだけなんだけど」
祥大がすっと視線をあたしからずらし、一度肩で息をした。
いつも冷静沈着な祥大が珍しく緊張しているみたいだ。
「俺が大学を卒業するまでここで同棲してほしい。卒業して就職して社会人になった時、『皆藤瑠花』になってもらえないか? 俺と婚約してほしい」
「なにもかもすべて祥大のものになりたい。あたし」
「ほんと?」
「うん」
そしたら祥大、ジーンズの左ポケットに手を突っ込み中を探り始めた。
「これで瑠花のこと縛り付けておくから」
「わあ。きれい」
「気にいってくれた?」
「祥大、だいすきっ」
思いっきり抱きついちゃった。嬉しすぎてたまらなくて。
祥大の身体に回した腕。あたしの左の薬指にある指輪を右手で確かめながら、幸せをいっぱいに噛みしめていく。
あたしの大好きだったおばあちゃんが残してくれた家。そこで17才のクリスマスイブの日から祥大との同居が始まった。
あれから3年と5ヶ月。
愛梨というセメントベイビーが加わったこともあり、あたしたちの関係は家族の色が濃くなって時間と共に違和感すら感じなくなっていた。
そのことに祥大は不満をもってくれたんだ。
『俺、もう限界かなって思って』
苗字を元に戻すことでわたしたちは恋人としての色を取り戻せる。
あの時、曖昧に言ってくれたのもわざとでしょ。
あたしがあたふたすることを計算して、ずるい人。
だけど、ありがとう祥大。
おかげで切ないほど祥大のことが好きなのに、兄妹だからどうしようもないというあの頃。それと同じくらいの熱い想いを思い出すことができたから。
これからはおばあちゃんがあたしたち母子に残してくれたもう一つの財産。
このマンションの301号室で祥大とふたりっきりの生活をスタートさせることになるんだね。
この部屋の窓からもあのぼたん桜がちょこっとだけ見えているよ。だから来年の春もまたおばあちゃんの思い出に浸れるね。
「祥大、あたしおばあちゃんっ子だったんだ。おばあちゃんにお料理やケーキの作り方いっぱい教わったの。だから祥大にも食べてもらいたいんだ」
「だったら瑠花、いつ引っ越そうか?」
「今日からがんばって荷物の整理するよ」
「いそがないとな」
「うんっ。ねえ、ここら辺にテーブルかな?」
「ベッドはダブルベッド買う?」
「質問の答えになってない!!」
こんなに楽しくて嬉しくていいのかな。
いいんだよね、あたしたち幸せになっても。
*** クライシス * end ***




