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よくある話。  作者: 唐子
【余話。】

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22/23

【或る手紙の持ち主による、月並みな幸福について。】

 「二、友人」の裏側です。その夜の旦那様と、留学時代の友人二人の話。

 これだけでもお読みいただけますが、短編「噓吐きの恋文。」を先にご覧になると、いっそうニヤッとしてもらえるかと思います。

 少々長めかつ甘めかと。めちゃくちゃとばっちりを受けている哀れな朝井をお楽しみください。



「君、きいてた話と全然違うじゃん! 何が『機嫌を損ねたようだ』だ! これじゃあまるで、僕は勘違いの最低野郎じゃないか!!」


 朝井が、自分より上背のある男の襟首を締め上げる。

 がっくんがっくん前後に揺れる頭は、無言無抵抗でされるがままである。


「貴様ら、静かにしろ。何時だと思っている。近所迷惑だ」


 そう声をかければ、いい大人の二人はぴたりと止まり、静かに卓袱台に並んでついた。いや、片方は最初から静かではあったが。


 すでに夕餉を終え、家族団欒、くつろいだ時間を過ごしていたのだ。

 だというのに、この男共は、前ふりもなく突然訪問したかと思えば、早々言い合いを始めてからに。

 沸々と苛立ちが腹にたまり始めると、ちょうど頃合いに妻が戻ってきた。手にした盆には酒と肴。


「申し訳ありません。突然で、大したものも用意できなくて。お口に合えばよろしいのですけど」


 妻の朗らかな声に、男共はますます小さくなる。


 もっと早い時間に、前もって連絡してから来るのが筋だろうが。


 そんな言葉が透けて見えるも、態度には全く出ていない。さすがである。

 こういった、小さな毒を含んだ会話で妻に勝てたためしがない。


「子供達は」

「おねむだったので、もう休ませましたよ。よろしかったでしょ?」

「うん……」

「なんだい、君、子供に構って欲しかったのかい?」

「貴様らが来なければ、僕は三日ぶりの家族団欒を続けてられたんだがね」

「大変申し訳ございません」


 茶化そうとして即反撃にあった朝井。こいつの土下座も見慣れ過ぎたな。軽率に頭を下げ過ぎである。

 いまだ沈黙を保つもう一人を見やると、こちらはこちらで、天でも落ちてきたかのような絶望感を湛えて真一文字に口を引き結んでいる。

 溜息を吐きたいのをこらえて、腕を組んだ。


「何事なんだ、一体。大の大人が寄ってたかって」

「あなた。私これで下がりますわ。皆さんごゆっくり……」

「あ! 待って! 女の人の意見も聞きたいから、奥さんも残って!」

「おい」

「あら」

「実はかくかくしかじか」

「叩き出すぞ」

「ごめん! 冗談! 待って待ってちゃんと話す!」


 茶番を終えたところで、説明がなされる。

 弁舌高らかな朝井。ちゃぶ台に沈みそうにうつむいていくもう一人。そして、僕の隣に座る妻。


「……でね、こいつ、僕に詳細も語らず、ただ『あの子に会いに行って様子を見てきてくれ』ってだけで乗り込ませて! わかんないじゃんそれだけじゃ! ねえ僕に何ができたと思う?!」

「とりあえず、曲がりなりにも仲裁を任されたというのなら、お嬢様の側のご意見をうかがうのが筋ですわよね、まずは」


 朗らかに切って捨てる妻の言。うぐ、吐息を詰まらせる男二人。これは、駄目だ……貴様ら、生きろ。


「で、でもね、奥さん……」

「本当に、女性をなんだと思ってらっしゃるのかしら。何も思わず、考えもしない人形だとでも? ただ家にいて、家庭を整え、子を産んだらそれでいいと? 家長に殿方に意見するなと? それをお求めなのかしら? だとしたら、申し訳ありませんけど、私、これからお付き合いを考えさせていただきたいわ。意のままになるお人形のような女性をお求めの殿方とは、どうお付き合いしたらいいのかわかりませんもの」


 にこにこ笑みを深めながら言い詰める妻。冷え込んでいく空気。青褪めていく男達。沈黙する僕。

 すがるような朝井の視線は、敢えて無視する。やめろ。巻き込むな。


「なあ」

「貴様が悪い」

「同期の仲だろぉ! 助けろよ! 大体、君らの馴れ初めから今回こんな事態に巻き込まれた僕不運! すっごい不運!!」

「朝井さん、お話はまだです。それとも女の意見など不要だと?」

「はい! すみません! 貴重なご意見ありがとうございます!」


 途端しゃんと背筋を伸ばす。口で女性に勝とうなど、土台無理な話なのだ。僕は彼女で、しみじみそれを思い知った。独身で、女にそれなりに持て囃される朝井にもわかろうものだが。


 迂闊な朝井は放って、もう一人を見やる。

 しなびた菜っ葉のようになって妻の抗弁を傾聴するこの男……橘彰宗は、何をこんなに落ち込むのか、と。


 橘との付き合いは、短いが濃い。だが縁でいえば、橘より、その奥方の方が深い。

 何故なら僕は、子爵家を預かる加賀見教授に師事し、今は助手として仕えているのだから。

 恩師の教授は、僕らの結婚に骨を折ってくださった恩人でもある。


 彼女の勘当により一緒になれた僕ら夫婦である。

 結婚前より決まっていた留学により、彼女の所在は宙に浮いた。

 一人残していくには不安が残り、どうしたモノかと途方に暮れた僕らに助力くださったのが、師である教授だ。

 おかげで僕は、憂いなく勉学に励むことができた。


 同時期に欧州へ留学した同期は幾人かいた。この朝井もそうだった。

 少し前に到着していた朝井と合流し、暫らくして紹介されたのが、今妻に説教を受けている橘だった。


 異邦で土木治水と建築学を学ぶ留学生、橘彰宗は、伯爵家継嗣のご令息だった。

 私費ではなく国費というから頭脳はお墨付きで、僕らより幾分年下だったが、若者にありがちな浮ついたところも、羽目を外すわけでもなく。

 禁欲的に勉学に励む姿は、年に似合わない自制心に富んでいて、さすが立派な家柄のものは育ちが違うと感心したものである。


 寡黙な性質だが、不思議と朝井とウマが合ったらしい。たびたび顔を会わせるうち、僕も馴染んだ。

 自分と似て口下手な彼は共にいて楽だったし、共通の話題もあった。


 奇縁もあるもので、彼の婚約者は加賀見子爵令嬢。

 師、加賀見教授の姪で、妻である彼女が世話になっていた人だったのだ。

 そうしてつるんでいるうちに、彼も打ち解け、そこに破天荒な令嬢が加わり。

 必死に学問を修めながら、騒々しい留学時代は終わり、今がある。


「――聞いておられますか?」


 彼女の、妻の声に意識が戻る。

 神妙に俯く大きな体を前に、僕は声をかけてみた。


「君、聞いた話とずいぶん違うが、どういうことなんだ?」


 なにせ、留学時代の彼はといえば、婚約者に首ったけで、それを隠すことなくあらわにしていたのだから。

 故国からたびたび届く小包は、さすが伯爵家令息、といわんばかりの頻度だったが、その多くが彼の許嫁からのものだった。

 彼は、親しくなるにつれ明け透けに許嫁自慢するようになり、何度かに一度、その荷物に紛れて彼女の手紙が届くようになってからは、必然彼の惚気は僕に向かったのだから、よく知っている。

 そこに例の破天荒な令嬢が加われば、夜を徹した溺愛惚気合戦になる。あれはひどかった。何度朝日を拝んだか。許嫁、逃げるなら今だ、と思ったことは一度や二度ではない。目に入れても痛くない、というのはこういうことか、と僕は彼らで知った。


 僕の問いに、す、と視線をそらす。おい。


「よもやとは思うが、まさか、とも思うが。もしかして貴様、思いを告げなかったのか? 一度も?」


 無言。なんと雄弁な肯定。

 そして僕の隣から、凍りそうな冷気。

 冷や汗をかいてそろりと横目で確かめれば、妻は、微笑んでいた。いっそ慈愛深く。激怒していた。


 妻となった彼女は、ご令嬢に懐かれ、教授に気にかけられ、子爵家にとてもよくしてもらったという。

 とくに令嬢は、年若の少女とは思えない気配りで、彼女を助けてくれた。

 令嬢がこの男に送る小包に、彼女の手紙を紛らせるというのは令嬢の勧めであったと、彼女から打ち明けられている。

 意固地な彼女の負担にならない頻度で誘ったというのだから、その手腕がしのばれる。

 外国便の高額を思うと、僕の手元に十通以上の手紙があるというのは奇跡だ。


 そういうわけで、僕ら夫婦は全面的に令嬢の味方である。いくら感謝してもし足りない恩がある。


「私、子爵家には、お嬢様には、足を向けて寝られないほどの恩義を感じておりますの」


 にこにこしながら妻は言う。


「僭越ながら、妹のように感じてもおりますの。心身とも不安な時期にお姉様が旅立たれたからでしょうね。寂しさをこらえて、偶に甘えられると、何でも叶えて差し上げたくなって。この間も『偶にはお顔を見せて頂戴』なんて拗ねられて、可愛らしいったら、ねえ?」


 同意を求めるように小首をかしげる妻。沈黙を続ける男。

 本来『沈黙は金』なんだろうが、こんなに能弁な沈黙もあるまい。


 ……甘えられたこと、ないのか……。


 かわいそうになってきた。


「出産の折も、お祝いが届きましたのよ。白い鳩と白詰草の刺繍のおくるみと産着。平穏で幸福な成長を、と願いを込めてくださったそうで。素晴らしい出来栄えもさることながら、お心が嬉しかったですわ。よくよく旦那様からもお礼をお伝えくださいな。あ、今はお側にいらっしゃらないのですっけ?」

「桐子。もうその辺でよしなさい」

「言い足りませんわ」

「弱い者いじめになる」

「やめます」


 今にも卓袱台にめり込みそうな男を指さしてやると、皮肉屋だが性根が真っ直ぐな妻は、すぐに口を閉じてくれた。

 ひとつ息を吐き、僕は落ち込んだ彼に声をかける。


「君、僕に話していたみたいに、思いのたけを告げればよかったじゃないか。いや、あの惚気の一割でも十分伝わると思う。どうして告げなかったんだ?」

「……ぁず……て」

「しゃきっとおっしゃいな」

「今更気恥ずかしくて言えませんでした」


 妻の低い声に急にはきはき話し出す。ああ、君、気持ちはわからんでもないが。


「あと、あまりにも、性格が違い過ぎる」

「まあ、そうだな……。常の君と溺愛する君は、少々差があるな……ご令嬢、びっくりするな……」

「そもそも何故、言葉を惜しむ? 君、出し惜しみする器用さも無ければ、口下手なりに言葉は尽くす奴だったじゃないか」


 朝井の疑問ももっともで。

 彼は普段寡黙だが、言うべきことはきっちり言うし、何事にもソツがない。

 留学時代の惚気から、許嫁に対してもそうだとばかり思っていたのだが。金髪碧眼肉感的美女に言い寄られても、冷然と振り切っていた男とは思えないていたらく。

 気落ちしながらぼそぼそといい足す言葉を拾う。


「彼女は……」

「うん?」

「その……美しいだろう?」

「うぅうんんんん?」


 朝井の素っ頓狂な唸り声。怪訝ながらもうなづく妻。僕は「来たぞ」と心内で身構える。


「最後に会ったのは、彼女が十二の時で。そのころも無論美しかったのだが、帰国して再会した彼女は、本当に、見違えんばかりに成長していて……いや、もちろん、見間違えるなんてないわけだが」

「や、どちらかってーと、愛らしい部類じゃないかな? 御令室は」

「しっ。黙って聞いてろ長くなるぞ」

「船から下りて、迎えに来てくれた彼女の姿を、今でもまざまざ思い出せる。一目でわかった。緊張した面持ちが私を見つけてほころんだ瞬間など後光が差してた。あの慈愛深い声で『お戻りなさいまし、お兄様』と。あの時私は、この美しく、愛らしく、健気で、かけがえのない存在を神々しくさえ思った」


 思い出を語るこいつは、恍惚としながら遠くを見。

 朝井は口の端をひきつらせ、妻は若干僕の方に身を引いている。気持ちはわかる。

 朝井、「後光って、菩薩か如来かよ」などぼそっと呟くな。吹き出すところだっただろうが。

 多勢の中から一目で見分けられるというのは、まあ、わからん話ではない。僕も、帰国の際、出迎えに来てくれた彼女を一目で見つけた。そこだけくっきり鮮明に浮き出て見えたものだ。絶対言わないが。


「昔からよく知っている可憐な蕾だった花が、大輪に咲き誇って目の前に現れたんだ。戸惑わないわけない。彼女が幼いころからお兄様お兄様と慕われていた自負はあった。それだけでも愛しかったというのにそこに恋慕が加わってみろ最強だぞ。彼女らしく控えめに示された思慕に私がどれほど狂喜したか、貴様らにわかるか?」

「ア、ハイ」

「オ察シシマス……」


 鬼気迫る目つきで睨むな。妻はもう完全に身を引いている。夫として僕まで引くわけには。


「しかし、私が彼女の成長に戸惑っている内に、婚姻が近づき、彼女は最初のころのような恥じらいも恋慕も押し隠すようになってしまった……まるで『伯爵家の妻』という仮面をかぶっているかのように。そのうち仕事は忙しくなるし、姉はまた厄介事を携えて、それがまた断れない筋からの要請であるし。あの馬鹿姉は暴走するし、何とか思いとどまらせようと説得を試みても馬耳東風。そうこうしているうち幼いころの親しみも砕け散ったように彼女はますます他人行儀になり私はどうしたものやら頭を抱え悩む時間も話し合う時間もないまま忙殺され一年が過ぎ今になる」

「ワーオ」

「あー……」


 最後早口言葉のようになっていたが、本人主観の経緯はわかった。

 なんというか……少し会わない間に、めまぐるしい一年を過ごしていたんだな、君。


「まぁ、多少同情の余地はあるが。しかし君の、その……事情など、奥方は知らないのだろう?」

「言えない。どこまで言えば守秘義務に触らないのか、私には判断しかねる」

「なんかごちゃごちゃしてんなぁ。姉の事情と御令室への愛情とは別物じゃないの? ハキッとズバッと、『お前が好きだ』って言ってやりゃーいいじゃん」

「貴様、相手が高い壁を築いていながら、言える私だと思うのか」

「精神豆腐過ぎか」


 ちゃっかり肴に手をつけ勝手に酒を嘗めていた朝井が言う。いつの間に。


「で、ようやっと言ったのが『愛してる』って一言? それだけ? なんなの? そんなん俺が女でも信じられんわ。今更かよって思うわ」

「女心に通じてらっしゃる朝井さんは、うかつな一言で更にお嬢様に傷をつけた自覚がございますの?」

「ごめんなさい」


 私でなくお嬢様に伏して詫びてくださいなでなければ黙れ。


 そんな威圧感のある笑顔、女学生のころはしてなかったよなぁ……と、若干逃避をしつつ。

 再びさらされた朝井の後頭部を見るともなしに見ていると、ついに卓袱台にめり込んだ男がぼそぼそ何か言っている。


「どうも、彼女は私に幻想を抱いているようで……」

「幻想?」


 先を促せば、言いづらそうに説明を始める。


「彼女の中で、私はとんでもなく完璧無比、品行方正な、瑕疵一片たりともない存在のようにされているようで。以前からその傾向はあったのだが」


 見栄を張り続けたのだという。尊敬のまなざしがあまりに心地いいものだから。

 ただ、努力すればするほど、確かな敬慕は募るのに、同時に距離を感じるようになったと。

 その理由もわからず、努力を止めるわけにもいかず、彼女の前ではことさら取り繕うものだから悪循環。もう自分でもわけがわからない、と。


「どんだけ『いいお兄様』してたの」

「いい格好したかったのは、男としてわからんでもないが……」

「努力の方向音痴ですわね」


 呆れる僕ら。切れ味のいい妻の言葉に更にめり込む。やめろ。卓袱台が壊れる。


「私の意見を言わせていただくなら」


 ため息を吐き、妻が切り出した。


「殿方の事情なんか知ったこっちゃないですわね」


 空気が凍った。固まる男共を鼻で笑い、滔々と続ける妻。


「その口は飾りですか? 言葉は何のためにあるとお思いなのです? ……全てを説明できなくても、伝えられる想いはあったでしょう。そこを怠けていた人に、この期に及んで何を言われても、今更としか思えませんわ。白々しい」


 包むこともなくなった言葉は一言一言、橘の上に圧し掛かっているようで、あゝともうゝともつかない呻き声しか発しない。


「失った信用を回復するには、これまでの倍、いえ、何倍もの働きと成果が必要なのです。さしあたり、この朝井さんを斥候に出すという手ですが、失策もいいところ。今頃お嬢様は、御身をきちんと向き合って話し合うまでもない、それっぽっちの価値しかない、と誤解なさっていると存じます」


 あの方、どうにも自己評価が卑屈でいらっしゃるもの。そうつぶやき、悲しげに伏し目になる妻。

 とばっちりが来た朝井は小さくなって震えている。阿呆め。


「どうすれば、彼女の心は動くだろう?」


 妻は即答しなかった。起き上った橘の顔を真顔でじっと見。


「割と思い込みが強くて、頑なでらっしゃるから……言葉と、行動でしょうか。一発逆転で騰貴できるほどの手札はございませんもの」


 苦笑ともつかない曖昧な笑みで、そう言った。さしずめ、お気の毒様、といったところか。


「誠実さと、わかり易さが肝要かと。どうもお嬢様は、人からの好意を受け取り慣れておられないようですから」

「要は、かき口説けってことだろ? こいつに出来る? この豆腐精神男が」

「やりようによっては、まあ、有効では? その前にまず、誠意のこもった謝罪と、お嬢様側の意思確認が必須ですけれど」


 懲りない朝井の茶々に、妻は肩をすくめる。意見を反芻し、沈思する橘。


「すまない、私には、どうも口説き文句が思いつかない。ご教授願えないだろうか」


 その後は無礼講だった。

 素面では話しにくかろうと、朝井が悪乗りをはじめたのだ。

 橘が手土産に持参した一升瓶二本は、ほとんどが朝井と彼の腹におさまり。

 やれ最高の謝罪は土下座だの、手放すつもりは一切ないだの、まるで学生時代の延長のような悪ふざけや惚気が上がり。

 終息したのは、日付も変わる夜半だった。


 突然押しかけて悪かった、鋭意健闘する、御細君にも非礼を詫びてくれ、本当にありがとう、と深く頭を下げ。

 橘はあれだけ飲んだにもかかわらず、シャンシャンとした足取りで帰って行った。


 門前まで見送り、居間に戻ると、妻は呑み潰れ寝落ちた朝井に布団をかけていた。

 イビキをかきながら大の字になる朝井に、僕は呆れ妻は苦笑する。

 なんだかんだ人の好い朝井は面倒見がいい。

 留学の苦楽を共にした橘を、身分差を越えて友人と思い、肩入れするのは自分も同じだ。

 滅多に私事で頼らない彼の頼みに、朝井なりに張り切ったのはわかる。それ故に、此度のことに関しては責任を感じていたのも察するに容易だ。

 様々提案を上げ、常にない呑み方をし、早々潰れてしまった。

 研究がおしていたというから、疲れもあったのだろう。調子はいいが、悪い奴ではない。


 呑み散らかした卓袱台の上を妻と共に片付ける。

 勝手に並び立ち、水仕事は僕が買って出た。春とはいえ、水は冷たい。妻は洗った食器を布巾で拭く。


「済まなかった」

「旦那様が謝ることじゃないでしょう」

「では、ありがとう。こんな時間までつきあってくれて」

「たまになら、こんなことも悪くありませんわ」


 抑えた声で微笑む妻に不満は見当たらず、ほっと安堵する。

 隣に並びながら、こうして日常を過ごすと、不思議な気持ちが湧き上がる。

 ふいに十年は昔の記憶がよみがえった。



 祝言直前に留学が決まってしまった僕は、彼女との別れを覚悟した。

 何年かかるかわからない国費留学である。

 花の盛りの彼女をつなぎとめるのに、僕は自分に自信がなかった。


 孤児同然の水飲み百姓の小倅が、運と努力で大学までいった。

 彼女は商家の、何不自由なく大切に育てられたご令嬢で、勉強しか取り柄のないつまらない人間である僕にとっては高嶺の花であった。

 強運と朝井の協力により、束の間の幸福を得た。それで十分のはずだった。

 徐々に疎遠になり、無礼な男として記憶の片隅にでも残れば……そんな卑怯な気持ちでいたのが悪かったのだ。

 あの三行半の手紙は、まさしく僕の心臓を切りつけた。


 折りしも、当時彼女に持ち上がっていた縁談は、彼女の不本意で。

 家業の補填目的の、致し方ない見合いだった。

 相手が似合いであればまだよかった。

 よくない噂の付きまとう四十以上年上の、ひ孫まで居る男の後々妻として入るとなれば、話は別だ。

 彼女をかっさらったことを後悔した日は、一度もない。


 朝井の尽力で繋ぎとめた彼女だったが、留学が決まり、これ以上僕の都合で振り回すのは申し訳なかった。

 でも、彼女は、待っていると、言ってくれた。妻となれば、僕を待つのも長いことではない、と。


 彼女は実家を勘当で、僕もほぼ天涯孤独の身。

 学生で、家も金も職もなく、頼れる親戚もいない中、彼女だけ残していけるはずもない。

 悩み抜き、相談したのが加賀見教授だった。


「それなら、細君は僕がお預りしましょう」


 朗らかに笑って、教授は言った。

 だから、君は安心して勉強してきなさい、と。

 驚いている間に、とんとん拍子に僕の留学中、彼女は教授の起居する子爵邸に身を寄せることが決まった。

 彼女は、ただ居候するだけでは申し訳ないからと、女中として働くことを条件にそれを受けた。


「君の人生において、かけがえのないものが見つかった喜びを、簡単に棄ててはいけませんよ」


 教授は、留学を選ぶなら、彼女と別離する僕を、予見していた。

 そして、彼女を選ぶなら、僕が留学を辞退し、大学を去り働く決意をしていたことまで、ご承知だった。

 天秤が後者に偏っていることも、その覚悟のほども。

 すべてご承知で請け負ってくださった教授には、感謝してもし尽くせない。


「無二の人に、いらない苦労をさせたくないなら、今は踏ん張って、勉学に励みなさい。君にはその力がある」


 そんなはなむけの言葉と共に、ささやかな祝言を上げ、すぐ旅立った。

 短くはない留学期間、異邦で心の支えになったのは、帰りを待つ彼女の存在だった。


 届く手紙には、愚痴なんて書いていなかった。けれど、お嬢様育ちの彼女に、女中仕事が辛くないはずがない。一人で苦労を掛けている心苦しさは常にあった。

 でも、手紙の末尾に必ずある『お帰りを心待ちにしております。』その言葉に。

 帰る場所があるという、それが彼女だという喜びに、どんなに支えられたか。



「――同じなのだよな。僕も、彼も」

「何がですか?」


 最後の皿を洗い切り、伏せた。小首を傾げて見上げる顔を、じっと見下ろす。


「なりかねなかった己を見ているようで、もどかしいな、と」

「橘様とあなたは違いますよ」

「そうだろうか。思い当たる節が多すぎてな」


 肝心な場面で口下手が顔を出すところや、間が悪いところや。

 見下ろす妻は、当たり前だが、あのころより年を重ねた。母として女として円熟した魅力をかもし始めた彼女。

 もしかしたらこの姿を見ることはなかったのかもしれないと思うと、ゾッとする。


「桐子」

「なんです、友介さん」


 父と母でなく、ただの男として女として尋ねる。


「今こうして在る幸せを、僕は大事にできているか?」

「なんです、感化されましたか?」


 笑い飛ばす彼女に首肯する。食器を拭く手を止め、まじまじと見つめられる。


「大学に詰めきりで、育児に家事に、君に任せきりだ。一頃やつれた君を見るのは忍びなかった。大した手助けは出来ていない、情けない夫だ」

「そんなこと、気になさらなくていいのに……」

「僕は、君を、幸せにできているだろうか?」


 恋した季節から、随分遠いところまで来た。今なら、彼女も冷静に考えられるだろう。


 手放す機会ならたくさんあった。

 彼女の幸せを考えるなら、僕じゃなくてもよかった。

 それでも、わずかに伸ばし返された腕をとってここまで来た。

 手放せなかったのは、僕の未練だ。

 幸せにする確信も覚悟も足らないまま妻に迎えた。喜びばかりをもらっている。

 なら、彼女は?


「馬鹿ですね」


 呆れたその音は笑ってるようにも聞こえた。


「本当に、馬鹿。見てて、わかりませんか」


 眉宇をひそめ、怒った風を装う。これだった。

 いつだって、皮肉げな声を発したって、最後は僕を許してくれる。

 この眼が、未練だった。切り捨てられない、僕の妄執だった。


 そっと寄り添ったあたたかい体温に、腕を回す。

 家族となってくれたこの人を、僕はこれからも、離したりはしない。







 そうして「五、旦那様」の土下座がなったわけで。


 「噓吐きの恋文。」の彼ら+旦那様。

 年齢は、朝井・彼>(アラサー)>旦那様>彼女>お姉様>(二十歳の壁)>わたくし。

 国費留学はエリート中のエリート。帰国後の躍進間違いなし。(ただしちゃんと勉強してれば。)


 彼らの間には歴然とした身分差が横たわっているのだけど、彼らだけの時は気にしない。

 旦那様はひとかどの人物である朝井と彼を尊敬と共に認めているし、それは彼らの方も同じ。身分差を越えた友情、いいよね……。


 この後ろで、うっかり目を覚まして水をもらいに来た朝井が独り身の絶望に打ちひしがれている。



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