十五、終演
お盆の夏から数か月が過ぎ、春。
ひらり、はらり。薄紅の花弁が舞います。
そう言えば、一年前のあの日も、わたくしは桜の花びらを目にしました。時が流れるのは早いものです。
あの後、わたくしと旦那様は、よくよく話し合い、結局、別居を続けました。
双方に非があったとはいえ、迂闊に家まで出てしまったわたくしの軽挙は問題です。それこそ、伯爵家の体面に泥を塗りつけたも同然なのです。
冷静になれば簡単に思い至れた事実に行き着かなかったのは、それだけわたくしは乱心していたのでしょう。本当に、浅はかな真似をいたしました。
それでも、重ねて旦那様は、帰館を切に願ってくださいました。義両親も、家の者も、愚かなわたくしを許してくださった。
ですが、それでは駄目なのです。
なにもかも許されて戻るのは、あまりに無責任で、卑怯でした。
振り回した周囲にも世間にも、何も成さず元の鞘に納まるのは、誰が許しても、わたくし自身が許容しがたいことでした。
なにより、根本的な問題の解決をしない限り、同じことの繰り返しだというのはわかりきったことだったのです。
そもそもが、わたくしの自信の無さが、根深い病原なのです。
平凡で、何物にもなれない、つまらないわたくし。それを知られ、厭きられ、見捨てられるのが、怖かった。
わたくしが逃げていたのは、わたくし自身でした。
今また楽な方に逃げても、いずれ病原は芽を出して、同じことの繰り返しになる。
そんな未来がまざまざと見えます。だから、伯爵家に帰るのに躊躇を覚えるのです。
自分に自信を持ちたい。何かを成したいと。
そうして得る自信をひとつでも持たなければ、わたくしは潰れてしまう。それは自分のことだからわかる、確信でした。
変わりたい。
強くそう願いました。
願った時が好機なのだと、お姉様なら笑っておっしゃりそうです。
そうしてわたくしは、幼馴染の彼の依頼を受ける決意を固めたのです。
旦那様は、どうしても譲れないところであるわたくしの意思を、認めてくださいました。
「また、わがままで振り回してしまうことになるのですが……」
「いや。君のいうことにも一理ある」
「お気に召さないことがあれば、どうぞ、斬り捨ててくださいまし。安直に仕事が自信に繋がる、という保証は出来かねますし。奥方が職を持つということが伯爵家の品位を貶めるというなら、わたくしはいつでも旦那様から身を引きます」
「だから、どうして、君はすぐ身を引くんだ。教育活動が品位を貶めるものか。ただ、彼の家に日参するのがだな……面白くないだけで」
目をぱちくりさせてしまいました。不貞腐れたようにおっしゃる旦那様の耳は、羞恥からか少し赤くなっておりましたので。
わたくしは、こうした意地の部分を少しずつさらけ出してくださるようになった旦那様に、それまでとは違う想いを抱くようになりました。
尊敬、敬慕といった、それまであった大部分を塗り替えるのは、だいぶ年上の殿方に失礼かもしれませんが……愛しさと可愛らしさです。
それまでよりずっと他愛ない会話も増えた中で、等身大の旦那様を曝け出してくださるようになったのです。
それは、心も体も離れていた婚約時代を、やり直しているようで、事実、旦那様もそうお考えのようでした。
わたくし自身にも、変化がございました。
幼馴染の彼にするような遠慮ない物言いを、旦那様相手にするようになったのです。
よく言えば直截な、一歩間違えれば罵倒のような言葉が飛び出るのですが、旦那様は気になさいませんでした。むしろ、その、嬉しそう?
素のわたくしの言葉は、自分でも言われてみて初めて気がつきましたが、割と切れ味がよいのだそうです。淑女教育では、最初に思うまま話し出さないことを矯正されるので、今まで気がつきませんでしたが。打てば響くような反応を面白がっておられる旦那様に、ひっそり安堵したのは内緒です。
この双方の変化を、歩み寄りの証しととっても、ようございましょう。
「君の気の済むまで、何カ月でも何年かかってもいい。でも、貴女が帰るのは、私の所だ」
折に触れ、旦那様はそうおっしゃいました。言いきかせるように、何度も、何度も。気持ちは変わらないのだと。
実は、冬に到るまで、相応しい方が現れれば身を引く覚悟は揺らいでおりませんでした。
重ねてしまいますが、婚家を家出するとは、それだけのことなのです。
義両親は、それまで通り、行事や節目の役目さえ放り出さなければいいと笑って許してくださいましたが。
親戚が一枚岩なわけでもなく、口さがない方々ももちろんいるわけで。
目に余るふるまいを指摘されても反論はできません。嫁としての立場を引きずり落とされても仕方ないことをしている自覚があります。
そして、諫言を呈し、強行できるだけの方々も、わずかですが存在するのです。だからこその覚悟でした。
そんな覚悟、旦那様が文字通り蹴り飛ばしておしまいになられたのですが、それはまあ、詳しくは語りません。
家庭教師を始めた秋から春まで、時は怒涛のごとく過ぎ去ってゆき。同時に、たくさんの出来事がありました。
彼の従妹君は、優秀な生徒でした。懸念した症状も、短時間のお喋りから始まった授業に徐々に心開いてくださるようになって、女学校合格の通知が届いた時には、抱き合って喜ぶまでに距離は縮まり。
むしろ問題は、彼女を溺愛する従兄弟にあったのですが、これもまあ、割愛します。
この家庭教師を経て、わたくしは教育に準じる社会活動に興味を持ちました。
我が国はまだまだ未熟です。ですが、向上心は他国に比べても遜色なく高い志をもっていると、そう思います。
義務教育も浸透して参りましたが、子どもは貴重な労働源。学ぶ時間すら惜しいという貧困層はまだまだ多い。
ならば、働きながら学ぶ体勢を整えては、という思いが胸より湧いてきたのです。
商家なら、農村なら、都市部なら。その地や人によって、合うやり方は様々でしょう。
お国の方針にケチをつけるわけではないのですが、取りこぼされた子どもが、人が、少しでもいなくなるような受け皿は必要だと思うのです。
一華族の奥方には大それた野望だとは思うのですが。
全国津々浦々、あまねく教育の行き届いた国。そんな祖国にできたら、その一欠けの手伝いが出来たらと、そう考えるようになりました。
その思いを旦那様に相談したところ、さまざまな御仁をご紹介いただきました。
知識人の語る現実と、具現可能な範囲は、わたくしの夢を具体化せしめました。
ご助言いただいたさまざまな方から協力を申し出られ、来春を目途にいくつかの商家、貧農で試験的に運営してみる運びとなりました。
思いがけず早々に手がかりがついたのは、旦那様のおかげです。
水ゆるむころ。
お姉様は、再び異国の地へ旅立ってゆかれました。
「卑屈に効く薬は『愛情』と『自信』よ。貴女は愛情の受け取り方が下手くそだから、後者の方が効くかもね」
わたくしの意思に、お姉様は笑ってそう肯定してくださいました。
「だから、貴女が仕事をすることはいい薬かも知れないわ」
あの男もこれで少しは焦るでしょうよ。意地悪気にそうおっしゃっておられたのですが、その意味は教えてくださいませんでした。今でもわからないのですが……。
そういえば。同居の内、お姉様が『あからさま』とおっしゃったその意味が、ようやく鈍いわたくしにもわかりました。
家にいる間、確かにお姉様は、叔父様に引っ付いておりました。
離れに軽食を持っていったり、お菓子を差し入れたり、わたくしにはわからない法の討論をしていたり、異国の言葉でおしゃべりしていたり。
学習の成果か、それまでもそうだったのかわかりかねますが、ふしだらともはしたないとも言えない絶妙な距離感。
なにより意外でしたのは、その距離感を、お姉様の好意を、叔父様は疑問に思っておられないようなのです。
「叔父様はねえ、贖罪ととられておいでだから」
お姉様は悲しげに微笑まれました。
「あと、いつまでも子どもだとお思いのようだから。だから、今は、雌伏の時よ。私ももう妙齢の淑女なのだと、そう思っていただけるようにね」
素晴らしい笑みでございました。あれですわ。好物を前にする空腹の猫の目。もしくは、狩りをする猛禽の目。
しかし、そんなお姉様の攻勢も空しく。
その冬最後の冷え込みの晩。叔父様とお姉様は、離れで長いこと話しこまれ。
翌朝お会いしたお姉様のお顔で、すべて悟りました。
それからのお姉様の行動は、素早いものでした。
「子爵令嬢が仕事に生きたって、いいと思わなくて?」
泣きはらした目で快活にそうおっしゃった笑顔のお姉様。
あっという間に渡航手続きを終え、十日後には船上の人でした。この行動力が、諜報員には必要なのでしょうか。
波止場まで見送りに来て泣きぬれるわたくしに、お姉様はおおらかに抱擁してくださいました。
「貴女は、自分に足りないもの、必要なことがちゃんとわかっていたのよ。だから今回のことは、貴女には乗り越えるべき壁だったのかもしれない。大丈夫。これから貴女なら、なんでも成し遂げられる。お姉様は知ってるわ」
あたたかく力強い微笑みとお言葉に、もっと涙が出てしまったのは、しょうがないことだと思います。
一緒に見送りに来てくださった旦那様にも、なにか言付けていらっしゃったようですが、小声と雑踏のざわめきに紛れてわたくしには聞こえませんでした。ただ、心配げだった旦那様の顔が、一瞬にして赤くなり蒼白になり忙しいことになったとだけ。
わたくしと旦那様にも、別居の間、たくさんのことがございました。
旦那様はまたにわかに忙しくなられ、さすがに毎日子爵邸においでになることはなくなりましたが、それでも頻繁に訪ってくださるようになりました。
話すことは、他愛のないことです。夕餉の献立、昨日咲いた花、明日のお天気。旦那様のために仕立てた袷と羽織。わたくしにために買ってきてくださった甘味の感想。
他愛のない会話が増えると、小さな誤解や諍いも増えました。でも、そのたびに理解は深まり、わたくし達は仲直りが上手になりました。
待ち合わせての逢引もいたしました。デパートメントや洋食屋、公園、街歩き。旦那様は色々と連れまわしてくださいました。
わたくしが気にしていた、お姉様との逢引疑惑。唯一納得できなかったデパートメントでの逢瀬の謎も、ついに解けました。
デパートメントに入っている宝飾店。そこで旦那様は、華奢で繊細な金の指輪を、わたくしの左の薬指にはめてくださったのです。
なんでも西洋では、婚姻の際、花婿は花嫁に指輪を贈るのだとか。
「留学中、参列した結婚式があまりに幸せそうだったから、あやかりたいと思って」
指輪にも大きさがあるということを失念し、お姉様に相談したのだそうです。
曰く、私より細いでしょうが、大体このくらいでしょう、と、ご自分の指を目安にしてさしあげたのだとか。いただいた指輪は確かに少し大きく、ちょうどではありませんでしたが、気にするほどの差異ではありませんでした。
「君に内緒で用意して驚かせたかったんだが、裏目に出た。今度は最初から君を同席させよう」
宝飾品で散財する趣味はないので、この指輪ひとつでもう十分なのですが、その時は言えませんでした。
なにしろ、ハンカチーフを濡らすのに、忙しかったもので。
私室の窓辺で、ほんの数か月の間に過ぎた様々な出来事を思い返していると、女中が来客を伝えます。旦那様です。軽い返事で入室を許します。
入ってらした旦那様に微笑みますと、旦那様も小さく笑ってくださいました。
足元に置いた鞄を手に取りますと、するりと奪われました。重いはずなのに、むしろ揚々と持ち上げられます。
窓の外、踊るような桜の花弁。一年前とはなんて違う感慨でしょう。
旦那様の差し出された手を、躊躇なくとります。
そうして、わたくしは家に帰りました。
長々お付き合いいただき、ありがとうございました。本編はこれにて閉幕です。
最後までお読みくださった読者様、更新を待ち続けてくださった読者様に、多大な感謝を。
次話に、設定資料的な登場人物紹介ページを設けます。不要の方はスルーでお願いいたします。




