不噛合の人々
カヌーの底に接触するほど、水深が浅くなったのだ。
少なくとも舟に乗ったままでは、これ以上の前進はできない。
「……ここからは、歩きか」
カヌーは、これまでのところ、ハザマの体感で時速八十キロから百キロ以上の速度でタバス川を遡ってきた。
何度かの休憩を挟んでそれが丸一昼夜続いたのだから、野営地からはもうかなり距離を空けていると見てよい。
「歩きの方が、いっそありがたい」
そういったのは、ひどい船酔いに悩まされていたガグラダ族のアジャスであった。
「ああ。
やはり、地面の上に足を着けていないと生きた心地がしねえな」
「じゃあ、帰りはお前だけ歩いて帰るか?」
ハザマは、そういう。
完全に、からかう口調だ。
「歩いて、って……あの野営地までか?
この舟、どうみたって馬よりも速かったぞ」
「その馬よりも速い舟で、一昼夜かかった行程だ。
しかも、道もない森の中を抜けるか、川を泳いで下るか……」
「冗談じゃない!」
アジャスは、ハザマの提案を即座に拒否をする。
「なら、カヌーは川から引き上げて、多少は安全な場所に隠しておこうな」
「お、おう」
アジャスは、素直に頷いた。
全員で、舟の上に乗せていた荷物を岸の上に運んだ。
多少大きくても所詮、革張りのカヌーだ。
数人で手をかければ、軽く持ち運びができる。
「で、安全な場所ってどこよ?
あんのか? こんな人外魔境に?」
「そうだな。
……木の上にでも持ち上げておくか」
ハザマが、軽く答える。
「そうですね。
適当な枝と枝の間に渡して……」
リンザも、軽く頷く。
「綱で固定しておけば、獣に荒らされることもないでしょう」
トエスがそんなことをいいながら、すぐに手近の木に手をかけ、なれた手つきで登りはじめる。
イリーナも無言で、別の木に登りはじめた。
「お、おい。
お前ら……」
アジャスだけが、戸惑った様子で周囲を見渡している。
「都合がよさそうな枝ぶりを見つけたら、綱を降ろせよ」
ハザマが、上に声をかけた。
「もう、見つけた」
イリーナの声がして、すぐに綱が降りてくる。
「その先に、舟をくくりつけてくれ」
「……はいよ」
ハザマが、手早くカヌーに綱を結んでいく。
「こっちにもお願いします」
今度は、トエスの声とともに綱が降りてきた。
リンザが無言のまま別のカヌーに綱を結んでいく。
「こっちは終わった」
ハザマが、イリーナに声をかけた。
「それでは、こっちの端を引いてくれ」
イリーナの声とともに、綱の一端が降りてくる。
「ほいよ。
はい、男衆。
見ているばかりでなく、こいつを引くのを手伝ってくれ」
「お、おう」
ブシャラヒムが、綱を手に取る。
「これを引けばいいのですか?」
ガズリムも、綱を手にした。
「そ。
こいつを引けば、舟が持ち上がっていくから。
そんなに重いものでもないし、二人で引けば充分だろ」
「……こっちもお願いしまーす」
今度は、トエスの声が聞こえた。
「おー」
ハザマが答えて、その綱はアジャスとルゥ・フェイに任せる。
手の空いたリンザが、綱を持って別の木に登りはじめていた。
荷物を背嚢にまとめ、全員で背負って行進を続ける。
「……洞窟衆ってのは、みんな木に登れるのか?」
ハザマにそう訊ねてきたのは、ブシャラヒムである。
「別に、全員が全員ってわけでもないと思うが……うちにはエルフの鬼教官がいるからなあ。
その人に教えられた人は、一通り、森の利用法を叩き込まれる」
「そうか。
エルフがいたんだよな、洞窟衆には……」
ブシャラヒムは、感慨深げに頷いていた。
「それよりも、本当にこちらの方角で間違いはないのですか?」
そう声をかけてきたのは、ガズリムだった。
「間違いない。
水妖たちもそういっているし、バジルもこっちにうまそうなやつがいるといっている」
ハザマたちは今、小川を歩いていた。
水深は、ハザマの膝くらいまで。
軽い傾斜になっており、ハザマたちは「昇り」の方角に進んでいた。
タバス川の支流、いや、源流のひとつなのだろう。
「しかし、ここまではなんの邪魔も入らなかったな」
アジャスが、そんなことをいいだした。
「山岳民の領地とはいえ、戦場になるような場所でもなさそうだしな」
というより、思いっきり山の中に入り込んでしまっている。
おそらく、戦場はおろか、人里からも遠く隔たった場所に違いない。
人の気配という者が、周辺に一切感じられなかった。
「楽に進めるのなら、それにこしたことはありません」
身も蓋もない意見を述べたのは、イリーナである。
「同感」
ハザマは頷きかけ、
「……とも、いってられないか」
と、続ける。
ボタボタと、巨大な物体がいくつも落下してきた。
「な……なんだ、これは?」
ブシャラムヒが、絶句している。
「おれたちは、木登りワニと呼んでいる。
こいつの肉、結構うまいんだよな」
もちろん、気配を感じたバジルが動きを止めて、落下させたのだ。
「捌いて食事にしますか?」
リンザが、ことなげにそんなことをいいだす。
「おう。
そうだな。ここしばらく、まずいパンばかりが続いたから、ひさびさに肉を食うか、肉。
あ。捌くのは、一匹だけにしておけ。
残りはバジルの餌にする」
「わかってます」
リンザとトエスが手分けして一匹のワニを解体しはじめ、イリーナは岸辺の適当な場所の草を払い、火を熾しはじめる。
ハザマは、バジルの胴体を掴んで適当なワニの方に放った。
パチパチとはぜる火を囲んでの食事となった。
「……確かにいけるな、この肉」
「だろう」
ブシャラヒムとハザマは、そんな会話をはじめる。
「おれの国は、腹が減ってはいくさができぬという至言がある。
メシは重大事だ」
「なにをするにしても、生きていればこそ、ですか」
ガズリムも、素直に感心していた。
「真理といえば、真理ですね。
少々、直截的すぎる気もしますが」
「しかし……このワニがこんなところにいるとはなあ。
ひょっとして、この前の大発生も、ルシアナってやつが仕込んだのか?」
「大発生……ですか?」
ガズリムが、問い返してきた。
「このワニが?」
「ああ。
いくつかの村が、こいつの大群に飲み込まれた」
「そういえば、そんな報告もあったようだな」
ブシャラヒムが、補足してくれる。
「いくさに出立する間際に受け取ったので、詳細を確かめるまではいかなかったが……」
「最終的にどれだけの被害が出たのか知らないが、こんなのが何百何千と森の中を進んで来てみろ。
普通の開拓村なんてあっという間に飲み込まれちまう」
「……違いない」
ガズリムが、心なしか顔色をなくして頷いた。
「貴殿らは、その場に居合わせたのか?」
「居合わせたというより、止めた。
バジルの能力にしてみれば、対処するのに便利な相手だったしな」
「……止めた」
「……止めた」
アジャスとブシャラヒムが、声を揃えて絶句する。
「だって、目の前で村ひとつが滅ぼされかけていたんだぞ?
そのまま眺めているだけでは、寝覚めが悪いだろ」
アジャスとブシャラヒムは、なんとも微妙な顔つきで、
「……おお」
とか、
「……ああ」
とか、呻いている。
「おい、ハザマさんよう」
そう声をかけてきたのは、軍属魔法使いのゼスチャラである。
「せっかく陸にあがって腹も膨れたんだ。
ここいらで、せめて一晩くらいはゆっくりと寝かせてくれないか?」
この中で一番体力がないのは、間違いなくこの男であろう。
「……んー……」
ハザマは、言葉を濁しながらエルシムの顔色を窺う。
わずかに頷いたように見えたので、
「ここまで来れば、これ以上急いでもあまり変わらないか」
といい、夜明けまで交代で眠ることにした。
『……それで、どう思います?』
心話で、ハザマはエルシムに問いかける。
『周囲には……それとわかるほどの警戒網は張られていないな。
こちらに気取られないほど、巧妙に偽装されていればはなしは別だが……』
エルシムたちが使い魔を使役する際には、使役者と使役される対象との間には、なんらかの繋がりができる。
並の術者なら、その痕跡を隠すことは、まず不可能だった。
つまり、この近くを「蠱術のルシアナ」が探っている気配は感じ取れなかった。
『エルシムさんでも見破られないとすれば、心配するだけ無駄でしょう』
『そういって貰えると、気が楽になるのだがな』
ハザマの言葉に気をよくした……わけではなく、今後なにかあったとしてもハザマの判断ミスになる、という意味である。
『それで、エルシムさん』
ハザマは、本題を切り出す。
『どう思います?
その、ルシアナってやつのこと』
『正直にいえば、今回の件ではじめて名を聞いた。
われらエルフは、そもそもヒト族とはあまり交わらない。
山岳民どころか王国内の事情にも、そうとうに疎い』
長年に渡って戦場を渡り歩いてきたファンタルなどは、「はぐれエルフ」の異名が示す通り、例外中の例外なのだろう。
『その実力とかは?』
『今までに耳にした内容を総合すると……われわれの使い魔とは別のアプローチで、動物や、場合によってはヒトを操るのに長けた術者であるようだな』
『そんなことが、できるものなのですか?』
『現に、水妖だの、木登りワニだのをこちらにけしかけているではないか。
前者は洗脳に近い形で、後者はどうも大量に繁殖させた上でなんらかの方法で大移動させたようだが……』
『どっちにしても、ずいぶんとエゲツないやり口のような……』
『エゲツないというより、後先考えないやり口だな。
どちらも失敗する可能性、飼い犬に手を噛まれる公算が高い方法だ。
そんな不確実な方法をあえて実践しようという輩だから、性根の部分が相当にイカレている相手だぞ』
『なるほど。
保身には、あまり関心がないタイプなのか……』
『術者としての能力もさることながら……怖いものだぞ。その手の、潜在的にみずからの破滅を願っている輩の相手をするのは。
常に、こちらの予測を外した対応をしてくるからな』
『ひとことでいって、常識が通用しない、っと』
『ま、お前様にはぴったりな相手であるといえんこともないがな』
そのままその場で一夜を過ごし、ハザマは落ちてきた木登りワニをきれいに骨にしたバジルを拾いあげてから、全員に出発の準備を整えるように告げた。
全員で火を消し、背嚢を背負う。
ワニの薫製肉も荷物に加わったが、持参したパンもそれなりに消費していたし、うまい食料である荷物が増えても誰も文句をいうことはなかった。
「せめて、酒が飲みたい」
魔法使いのゼスチャラは、そんな愚痴を口にしながら、だらだらと歩き続けた。
「もう少し、気合いをいれてくれ」
ハザマが、発破をかける。
「酒なら、帰ってからいくらでも奢ってやるから」
「……本当か!」
ゼスチャラが、にわかにやる気を見せる。
「お、おう」
食いつきのよさに若干引き気味になりながら、ハザマはうけあった。
「その程度でやる気がでるんなら、安いもんだ」
実際、この男ひとりのために全員の速度が落ちてしまっても、それはそれで困るのだ。
「間違いはないな!
いいか、絶対にその約束を破るなよ!」
鼻息荒くそういうと、ゼスチャラは俄然張り切った様子でバシャバシャと水を跳ね上げて前に進んでいく。
「……安い男だな。
いろいろな意味で……」
その後ろ姿をみながら、ハザマはそう呟いた。




