第九話 王子と没落令嬢
ホールの天井から吊るされた無数のシャンデリアが、白い光をこぼしていた。
胸元に当たる淡い布地の感触も、裾を踏まないようにそっと持ち上げる仕草も、あの夜と同じ。
けれど――私の胸の奥だけが、すこしだけ違っていた。
壁際にあのときと同じ白いドレスで立つ。
この場所も、前と同じ。
(……殿下)
あの後、あの湖での会話が、胸の奥で静かに波紋を広げる。
◆
「でも……もう会えません……。
またご迷惑をおかけしてしまいます……」
言いながら、視線を落とした。
本当は彼の顔を見るのが苦しかった。
『何も変わっていない……』
彼はそう言ってくれたけど――。
今の私はあの頃の私じゃない。
家のためなら大切な思い出さえ忘れられる女。
もう純粋じゃなくて――穢れている……。
ふるりと、彼の長い睫毛が揺れる。
「少しだけ待って欲しいんだ。
だから、もう一度だけ。
次の舞踏会、必ず来て」
「でも……」
「……待ってるから」
その声音は、湖面よりも静かだった。
なのに胸の奥を打つ力だけが強くて、私は思わずこくりと頷いていた。
「……はい」
殿下は小さく、けれど確かに微笑んだ。
◆
本当は、来るつもりなんて、なかったのに。
手元のハンカチを握り締める。
真っ白で、殿下が差し出してくれたもの。
もうじき、これを返して。
全部終わりにして――。
(終わらせるんだ。今日で)
***
「まあ、また来てるわよ」
「信じられない」
「あのドレス、一着しかないのかしらね?」
「……やだ、裾にワインの跡が残ってますわ」
ひそひそ声と嘲笑が壁際まで突き刺さる。
胸の奥がじわりと痛むけれど、もう慣れっこだ。
(……大丈夫。今日は殿下に返すだけ)
そう言い聞かせていたとき――。
「ノエル?」
甘い声。背筋がかすかに震えた。
(……ジルベール様)
そしてその周りには、カトリーヌと取り巻き。
「また来いらしたのね。ほんと図太いわ」
「あれだけジルベール様に恥をかかしておいて……」
「恥ずかしげもなく舞踏会には来れるなんて、羨ましいこと」
くすくす笑いながら近寄ってくる。
胸の奥が固くなり、私は知らず後ずさった。
「……っ」
次の瞬間――
足首に、何かが引っかかった。
扇子の影でカトリーヌの瞳が――笑った。
視界が傾く。
(――また……!)
床が迫る。
反射的に目を閉じた、その時。
白銀の影が、すっと差し込んだ。
「……大丈夫だ」
短い息のような言葉と共に、腕が、背中に回る。
ふわりと受け止められた衝撃に、呼吸が止まった。
「……っ!」
力強い腕の感覚――胸の鼓動が一気に跳ね上がる。
「殿下……?」
囁くように名を呼ぶと、すぐ耳元で低い声が返った。
「怪我はないか」
白銀の髪が、シャンデリアの光を柔らかく弾いていた。
氷の王子――カスパル殿下が私を抱き留めている。
夜の湖より冷たいはずの腕が、どうしてか一番あたたかかった。
ホールがざわめく。
「なっ……」
「氷の王子が……なんで!?」
「没落令嬢を? また……?」
ざわめき。
殿下の瞳が令嬢たちを射抜くと、一斉に静かになる。
ジルベールの顔から血の気が引いていた。
「で、殿下……これは……その……!」
カスパルの瞳が、氷のように静まる。
「あなた方がしたことは、見ていた」
その声音は冷たい。
けれど私に向けたときだけ、ほんのわずかにやわらいだ。
「ノエル嬢。立てますか?」
私は小さく息を呑んだまま、殿下の胸元を見つめてしまう。
(……どうして……。
湖で聞いた声が、まだ胸の奥で溶けきらない……)
返事をしようとしたのに、声が震えて出ない。
カスパルはそっと私を支え直し、
胸元で彼の鼓動が触れた気がして、息が止まった。
「君が傷つくところを見るのは……もう、耐えられない」
そのひと言が、
白い光の中で、胸の奥深くに落ちていった。
――返すはずだったハンカチを、私はまだ握り締めていた。
すると、会場が再びざわめいた。
人混みが割れると、入口から青と白を基調とした親衛隊の制服を着た数名の騎士と――
先頭にいるのは、毎朝アナベルを連れていた、執事さん……?
(え? なんで?)
思わずハンカチを握り直す。
これを殿下に返すだけ。ただそれだけで終わるはずだったのに。
あの金と白の礼装は――?
どうして、あの方がここに?




