第八話 月下の約束
五年前のその夜――
引越したばかりのアパートを出た私は、
アモンにリードを引かれてあてどなく王都を彷徨っていた。
その日のこと――
破産したカスティーユ家の管財人となったラングロワ家の使用人たちは、
屋敷の中の品々に次々と「差し押さえ」と書かれた紙を貼っていた。
私が生まれた時から使っていた鏡にも、肖像画にも、衣装ダンスにも。
誕生日に父からもらったぬいぐるみにも。
全てに――。
あの頃の私はまだ、私たち家族に、そして私の身に何が起こっているのか、
はっきりとはわかっていなかった。
けれど、あの瞬間、大切な想い出が理不尽に奪われてしまったことだけは理解していた。
「くぅん……」
「ごめんね、リード嫌だよね?」
昨日まではリードなんていらなかったのに。
屋敷の庭を自由に駆けるアモンの姿を思い浮かべると、胸がきゅっと縮む。
それでも、今もアモンだけは足元で寄り添ってくれる……。
やがて、アモンに引かれるまま、
私は王都の中央に広がる湖の湖畔に辿り着いた。
水面には王都の灯りが映り、風が吹くと千々に乱れる。
なんだか――自分の気持ちみたいで。
じっとそれを見つめていた。
「わふ?」
アモンが首を上げると耳を立て、岸辺を見つめる。
そこには、湖畔の草原に座り込んで、
じっと湖を見つめている少年がいた。
風が揺らす草の音が、かすかに震えて聞こえる。
「アモン……?」
アモンが私を置いて、そっと少年に近づいた。
まるで何かを察したみたいに、隣に座り込む。
気付いた少年は、そっとアモンの毛並みを撫でた。
私もそっとアモンを挟んで、少年の隣に腰を下ろした。
「……少しだけ、一緒にいてもいいですか?」
自分でも驚くくらい静かな声だった。
水面を見つめたまま少年は返事をしなかった。
でも拒まれたわけじゃなくて。
だから、しばらく二人で湖を眺めた。
ゆらゆら揺れる光が、少年の横顔を透かして見える。
風がそよぎ、草が足元でささやく。
アモンが大きなあくびをして、私の膝に頭を乗せた。
その仕草に少年の口元がかすかに緩む。
どれくらい経った頃だろう。
少年がぽつりと、湖に向かってつぶやいた。
「……僕、今日から母さんと離れて暮らすんだ……」
「……そっか」
返す言葉が見つからなかった。
ただ、その言葉だけが自然に出た。
少年はゆっくりと私を見た。
「……憐れんだり、なぐさめたりしないの?」
「……ううん。しないよ」
少年のまつ毛が、ほんの少しだけ震えた。
湖面の光がきらりと揺れて、少年の表情を淡く照らす。
「……なんで?」
「だって……悲しいときって、誰かに“かわいそう”って言われたら、もっと悲しくなるから」
自分でも不思議だった。
誰に言われたわけでもないのに、その言葉は自然に出てきた。
少年がこちらを向く。
ドキッ、と胸が震えた。
鏡のように澄んだ銀の瞳。
水面の光を反射して白銀に輝く髪。
でもそれ以上に――その目は、どこか深くて、寂しそうだった。
ふと気づけば、手が伸びていた。
自分でも驚いた。
その寂しさに触れたら、放っておけなかった。
そのままそっと、雪のような少年の髪を撫でる。
アモンの毛並みよりも柔らかくて、絹のように繊細な感触。
少年の肩がぴくりと震えた。
「……これは……えと、その……。
……頑張った君への”ご褒美”……だよ?」
そう言うと、少年は少しだけ目を丸くし、
それから、ほんのわずか――肩の強張りをゆるめた。
少年は私の手を振り払うでもなく、
何も言わずに目を細めて水面を見つめていた。
でもしばらくして、
そっと膝を抱えていた腕の力をゆるめた。
「……名前、聞いてもいい?」
湖に落ちる光が、少年の頬を淡く照らした。
(あ……)
胸の奥がぎゅっとした。
私に向けられた銀の瞳は、
何かを求めるみたいに、淡くて、けれど真剣で、まっすぐで。
「……ノエル」
「ノエル……」
少年は小さく繰り返した。
その声は湖面より静かで、でもやけに胸に残った。
「……君にも、いつか”ご褒美”をあげたい」
「……わたしにも、ご褒美……?」
あまりに唐突で、意味がわからなかった。
わたしはただ……寄り添っただけなのに。
少年は小さく息をつき、膝にあごを乗せた。
「僕……今日、何も言われたくなかった。
でも君は、言わなかった。
それで……すごく……救われたから」
胸の奥がじんわりあたたかくなる。
「……だから、いつか君が困ったとき……
欲しいものをひとつだけ言って?
僕にできることなら、なんでもあげる」
私の心臓が一回強く跳ねた。
湖面に映った月光が、白い粒になって少年の輪郭を揺らす。
私は気づいていた。
――この子は、すごく優しい。
そして。
――この子は、きっと、ひとりでいっぱい我慢してきた子だ。
だから、私もこの子みたいに。
「……うん、また会えたらね」
ぽつり、と呟く。
少年は、ほんの少しだけ目を細めた。
それが笑ったのかどうか、わからなかったけれど。
でも――嬉しそうに見えた。
草原を渡る風の中で、アモンが私の手を鼻で押す。
そして――
少年は湖に視線を戻し、
薄い声で、でも確かにこうつぶやいた。
「……僕は、君のこと……絶対に忘れない」
胸が、ぎゅっと痛くなるようにあたたかくなった。
――それが十歳の、あの日のすべて。
どうして忘れていたのだろう……。
違う……。
ジルベール様との婚約の日に――自分で封印したんだ。
“私はジルベール様のこと以外を考えてはいけない”――
あのとき、自分でそう決めた。
あの日から、私は“恋をしてはいけないノエル”になった。
だって――それが、みんなが“幸せになれる唯一の道”だと思ったから。
――そして今。
目の前のまっすぐな銀の瞳から目が離せない。
私ははっきりと理解した。
あのときに――
私はもう。
恋に落ちてたんだ――。




