第七話 湖畔にて
「わうっ!」
「ごめんね、アモン。お待たせ。……さあ、行こう」
冷たい夜風がスカートの裾をそっと揺らした。
アモンは暗がりの中でも尻尾を振り、私の足元にぴたりと寄り添ってくれる。
あたたかい。
本当なら、アモンの散歩は朝のはずだった。
アモンはいつも通り、朝になるとリードを咥えて私の部屋へ来る。
それは変わらない。きっと、アナベルに会えないのが寂しいのだろう。
けれど――今は仕方ない。
昼間の学院では、誰もが私を避け、
すれ違うたびに“遠慮のない囁き声”が、まるで鋭利な刃みたいに耳を切った。
(……私が、誤解を生むような行動をしてしまったんだから……)
そう思い込もうとしても、胸の奥で小さく疼く。
アモンは何も言わない。
ただ寄り添い、あの大きな瞳で「大丈夫だよ」と言うように見上げてくる。
私はアモンの頭をそっと撫でた。
「……アモン。私……少し、弱いのかもしれない」
夜の空気は冷たく澄んでいた。
でも、その冷たさに触れるたび、夕焼けみたいな苦さが胸の奥に広がっていく。
足元のアモンが、くぅん……と小さな声を漏らした。
「ありがとう。アモンがいてくれてよかった……」
夜の散歩道は静かで、月明かりだけが道を淡く照らす。
昼間、胸にぽっかり空いた穴を、アモンだけがそっと埋めてくれていた。
――カスパル王子はあの後、小さく微笑んで言った。
『また……会ってもらえますか?』
私は小さく微笑んだだけで、返事はしなかった。
五年前、どんな会話をしたのかすら思い出せないままでは、会ってはいけない気がした。
広場で別れるとき、彼は小さく手を振ってくれた。
そのときの氷のような瞳に、確かに温もりが宿っていた気がしたけれど……私は、目をそらしてしまった。
――思い出してはいけない。
だって、思い出したら――きっと後戻りできない。
私はジルベール様の婚約者。
ラングロワ家に恩を返さなくちゃいけない。
だから学院でも、散歩でも……カスパル王子には、会わないようにしていた。
そう思いながらも、アモンのリードに引かれるまま歩いていると――
どういうわけか、気づいたときには“あの湖畔”に辿り着いていた。
次の瞬間、アモンが急に走り出した。
「ばうっ!」
「もうっ! どうしたの、アモンったら!」
足を取られ、転びそうになりながらアモンのあとを追う。
「アンッ」
「え?」
アナ……ベル?
王都の灯りが水面に揺れている。
その輝きを背に、誰かが静かに佇んでいた。
「……やっと、会えた」
その声が落ちた瞬間、胸がひくりと揺れた。
逃げなきゃ。だって、この人は――触れてはいけない場所にいる人。
「だめっ!」
逃げようと一歩下がった瞬間――
アモンが「バウッ!」と吠えて前に踏ん張り、私を止める。
「待って」
掴まれた腕は、驚くほどあたたかかった。
夜の冷気の中、そこだけが“ひとつの熱”みたいだった。
ゆっくり振り返ると――
月明かりの下、カスパル殿下が静かに息を整えていた。
「……ノエル嬢」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が細く震える。
殿下は、そっと目を伏せて言った。
「すまない。僕のせいで辛い思いをさせてしまった」
声が……低い。
落ち着いているはずなのに、耳元に落ちるたび、心臓が跳ねた。
私は首を振る。
「わ、私のせいです……。私が浅はかだったから――」
「違う」
殿下は歩幅を合わせるみたいに、ゆっくり一歩近づく。
その一歩で、夜気の温度が変わる。
呼吸の深さすら違って感じられた。
キャスケットの影から覗いた瞳が、淡く揺れた。
それだけで、胸の奥がひどく落ち着かなくなる。
(……やだ……どうして……?)
こわいのに、息がほんの少しだけ深くなる。
掴まれた腕から伝わる熱に――
身体のどこかが勝手に反応してしまう。
「君が忘れていてもいい。それでも僕は……」
言いかけて、一瞬だけ目を伏せる。
アナベルが足元で小さく鳴いた。
続きを聞いたら――たぶん、戻れない。
胸の奥で、声にならない何かが暴れ出す。
「殿下……いけません……」
自分でもわからない。
なぜ止めようとしたのか。
ただ、胸が、このままじゃ壊れそうだった。
逃げようと半歩下がったとき。
ふっと、髪にあたたかいものが触れた。
(……え……?)
優しく、そっと。
夜風よりも静かな、ひとの指先。
殿下の手が、私の髪を――撫でていた。
「……怖がらないで。君は頑張ったんだから……」
その“温度”が落ちた瞬間――
胸の奥で、封じていた何かがパチンと音を立てた。
アモンの低い鼻鳴きが、耳の奥で揺れる。
アナベルが私の足に鼻先をふれた。
次の瞬間――
湖畔の光。
白銀の髪。
寂しげな横顔。
――五年前の少年が、殿下の姿と重なった。
「……や……っ……!」
足から力が抜ける。
その場に座り込むと、草の匂いと土の湿り気が頬の近くで混ざり合った。
アモンがすぐに「くぅん……」と寄り添い、
アナベルもそっと膝の上に頭を預けてきた。
殿下の指が、私の髪からそっと離れかけて――それでも、戻ってきた。
彼は驚きもしない。
ただ静かに、膝をついて私の肩に手を置いた。
「思い出したんだね」
その声は、五年前のあの子の声と同じだった。
優しくて、どこか寂しくて――
でも、嬉しそうで。
私は震える声で、かろうじて言う。
「……あれ、は……殿下……だったんですね……」
殿下は、小さく息を吸って、言った。
「ああ。
君が“ご褒美”って言ってくれたときのこと……
僕は、ずっと忘れたことがなかった」
胸が潰れるほど痛くて、
でも、なぜだか――涙は出なかった。
殿下はそっと微笑んだ。
「君のくれたご褒美は、僕の一生の宝物だから」
(ずるい……そんなふうに言われたら、もう……)
月明かりの下、
五年前の約束が、ゆっくりと息を吹き返した。




