第六話 裏切り
――朝の学院は、いつもと同じざわめきに満ちているはずだった。
けれど、この日は違った。
廊下を歩いていると、私の耳に、ふっと“切れ端のような声”が引っかかった。
「ねえ、聞いた?」
「昨日の朝よ。男の人と歩いてたんですって」
「婚約者がいるのに?」
「まあ、恥知らず……」
靴音が吸い込まれ、ひそひそ声だけが妙に鮮やかに響く。
(……え? 誰のこと……?)
「しかも――手をつないでたらしいわよ?」
「最低……」
「ジルベール様が気の毒だわ」
指先が強張り、背筋が凍る。
私は思わず立ち止まった。
(……わたしのこと!? 手? つないでなんて、ない。
そもそも……あれは……)
振り返った瞬間――
スッ。
令嬢たちは“息を合わせたみたいに”一斉に視線を逸らした。
胸の奥で、冷たいものがじわ、と滲む。
何もしていないのに、悪いことをしたみたいで――喉の奥がきゅっと詰まった。
そこへ。
「あら、ノエルさん。ごきげんよう」
カトリーヌが、貼りつけたような微笑みで近づいてくる。
後ろの取り巻きたちは、“続きを待っている”顔で目を光らせていた。
「婚約者がいながら、殿方と朝から歩くなんて……大胆ですのね?」
「ジルベール様がお気の毒ですわ……」
「婚約者失格、って言われても仕方ないわよね」
(ち、違う……!
アモンの散歩道で偶然会っただけ。
それに……殿下と手なんて……つなげるはずない……!)
私は思わず口を開いた。
「それは――」
……言いかけた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
『そこまでして殿下に媚びを売りたいの?』
――舞踏会で誰かにささやかれた言葉。
冷たい視線。
あれが一瞬で蘇って、肺の奥がぎゅっと縮む。
(……だめ。ここで“王子様と一緒にいた”なんて言ったら……
もっと噂が広がる……!)
声は喉でほどけ、音にならない。
胸がじん、と痛む。
その時――
「何の話?」
柔らかな声が廊下の奥から近づいてきた。
ジルベールだった。
カトリーヌだけが、ほっとしたように微笑む。
「まあジルベール様。
ノエルさんが……ちょっと誤解を招く行動をされたみたいでして」
「ああ……その話か……」
ジルベールは私の前に立ち、優しい顔で首を傾けた。
「ノエル、僕は怒ってないよ」
胸が、すこしだけ緩む。
ああ……ジルベール様は、やっぱりお優しい――。
……けれど。
「ただ……ね。誰かわからないけど、男性と仲睦まじく歩くなんて……
婚約者の僕に恥をかかせることになるってこと。
それだけは忘れないでほしいな?」
(……え? そんな……!
仲睦まじくなんて……違う……違うのに……!)
どうしても言わなきゃ、と口を開きかける。
「ち、ちが……!」
でも――声が震えて、続きが紡げなかった。
ジルベールは手を伸ばし、私の肩にそっと触れる。
「君は……婚約者としての自覚が少し足りないんじゃないかな?
舞踏会で転んでしまったり、男性に色目を使ったり、他の男性とデートしたり。
少しくらいなら大目に見るけれど――これ以上となると僕も支えきれない。
気をつけてほしいな」
その一言で、周囲の令嬢たちの息がさらにひそんだ。
「……ジルベール様、お心が広すぎますわ……!」
「なんで、あんな娘が婚約者なの?」
「そうよ、ジルベール様の優しさに付け込んで!」
突き刺さる視線。
息が浅くなり、呼吸するだけで苦しい。
ジルベールは満足げに口元を緩め、私を見つめる。
(……やだ……。ジルベール様に見捨てられたら……)
『ノエル、お前には苦労をかけたが、幸せになるんだぞ。
カスティーユ家を支援してくださった上に、ジルベール様との婚約まで。
ラングロワ家には、感謝しかない』
――婚約の儀の後、父が涙ぐんで言った言葉が脳裏を過る。
(もし、婚約解消なんてことになってしまったら……)
「はい……ご迷惑をおかけして、すみませんでした……」
口をついて出たのは――
かすれた謝罪だけ。
くすっ、と令嬢たちが笑い、
カトリーヌの目も扇の奥で笑った気がした。
「わかってくれたならいい。以後、気をつけるんだよ?」
ジルベールが柔らかく言うと、
カトリーヌと令嬢たちは彼を囲んで歩き出した。
楽しげな笑い声を残して――。
私は、自分の“浅はかな行動”でご迷惑をかけたと信じ込もうとしていた。
けれど――。
「ジルベール様、甘やかしすぎですわ」
「……そうかい? 彼女のおかげで僕は伯爵になれるんだ。
僕だって、彼女には感謝しているんだよ?」
遠くから、小さいけれど確かに聞こえた会話。
「……え? 嘘……でしょ?」
息ができない。
身体が凍り付いて棒のようで、一歩も動けない。
ジルベール様の“優しさ”は――ただ、それだけ。
その瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いた。
でも……不思議と涙は出ない。
たぶん、もう気づいていたから。
けれど――こんな私だって、愛してもらえるかもしれないって。
ほんの少しだけ期待してしまっていただけで。
(……一度でいいから、やさしく名前を呼ばれたかった……)
この胸に空いた穴は――もう一生埋まらない。
そう確信した瞬間、私の世界は――
音もなく、ゆっくりと崩れ始めた。




