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第五話 思い出の場所

殿下はそっと、湖へ伸びる道の方を指した。


「少し、歩きませんか?」


その一言だけで、胸の奥がふるっと震える。


断ろうとした。

本当に、そうしなければと思った。


(だって……だって、私は……)


没落して、地味で、友達もいなくて。

ジルベール様にも恥をかかせて、カトリーヌ様にも軽蔑されて――

殿下みたいな人の隣を歩くなんて、資格がない。


なのに。


殿下が歩き出すと、気づいたら足が一歩前に出ていた。


殿下は少し瞬きをして、

それから――ほんのわずか、柔らかい笑みを浮かべた。


(……え……)


見間違いかもしれない。

だって、あの”氷の王子”が、笑うなんて。


でも、その笑みはすぐに消えてしまって。

わたしは何も言えないまま、殿下と並んで歩き始めた。


ゆっくりと。


半歩後ろを。

なのに、気づけば殿下が隣にいた。


彼が私に合わせてくれているのが分かった。

足音も、歩幅も。


隣に並ばれた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

それが緊張なのか、怖さなのか……わからなかった。


キャスケット帽を目深に被り、街の住人のような装い。

それでも――隠しきれないものがあった。

仕草のひとつひとつが、どうしようもなく綺麗で。

見てはいけないのに、目が離せなかった。


(なんで……わたしが、氷の王子様と……こんなふうに?)


ふと自分の服装が気になる。

地味なワンピースに、くたびれた靴――。


恥ずかしさと、知らない感情で胸が落ち着かない。

でも……嫌じゃなかった。


二匹の犬が前を歩き、

アモンはときどき振り返って私を確認する。


通りを進むと、やがて道が開け、湖の輝きが近づいて来る。


緑の絨毯のような草原がそよぎ、その向こうで朝の光が湖に反射して、

殿下の横顔をかすかに照らした。


(……綺麗……)


思った瞬間、心臓が跳ねて、

また“よくわからない熱”が込み上げてくる。


殿下がふと立ち止まる。


足を止めた殿下の横顔は、

朝日よりもずっと静かで、どこか遠くを見ていた。


「ノエル嬢」


「……は、はいっ」


声が裏返る。

恥ずかしくて、視線を落とした。


殿下は少し間を置いてから、言った。


「……僕にとって、ここは大切な思い出の場所なんだ」


殿下は少しだけ目を細め、湖の光を見つめた。

朝の明るさよりも、ずっと静かな横顔だった。


氷の王子――そう呼ばれていた人。

誰とも慣れ合わず、冷たいと噂されていた人。


本当は、こんなふうに話す人だったなんて――思いもしなかった。


「……思い、出……?」


殿下はほんの少し視線を落として、湖の方へ歩く。

朝の光が水面に散り、白い粒がゆらゆら揺れている。


その横顔は、どうしてだろう――

暖かいのでも、冷たいのでもなくて。

ただ静かに遠くを見つめているようで。


胸が、また強く跳ねた。


湖に近づくと、殿下はふと足を止めた。

アモンとアナベルも、わたしの少し前で並んで座り込む。


風が、そよ、と髪の隙間を抜けていく。


「もう五年も前のことだけど――覚えてる?」


「…………え?」


自分の声かわからない、小さな音がこぼれた。


五年前……。

ちょうどカスティーユ家が没落して、あのアパートに引っ越した頃。


確か、なんだか悲しくて、あてどなくアモンと一緒に王都を彷徨っていたとき。

確かにこの湖畔で、誰かに――。


「……ずっと探していたんだ……」


殿下は湖ではなく、わたしを見ていた。


まっすぐ。

逃げられないくらい、静かに。


その瞳の色は、昨夜と同じ。

氷みたいなのに、痛いほどあたたかい。


息が、うまく吸えない。


(……探してた……? わたし……を……?)


信じられなくて、信じたくなくて。

でも、殿下の言葉は嘘じゃないと、身体が勝手に理解してしまう。


「……ご、ごめんなさい……あの……何かご迷惑を……」


謝る必要なんてないのに、口が勝手に動く。

殿下のまっすぐな視線に耐えられなくて、足先がぎゅっと縮こまる。


殿下は小さく首を横に振った。


「……違うよ――」


言いかけて、一瞬だけ目を伏せる。

アナベルが足元で小さく鳴く。


永遠のような時間の後――

殿下の薄い蒼の瞳は、ただ静かにわたしを見つめていた。


そして、こんな言葉を零した。


「……やっと、見つけた……」


息が――止まった。


本当に、止まってしまった。


心臓の音だけが、やけに大きく響く。


(……わたしを……見つけた?)


理由なんて聞いちゃいけない人。

触れちゃいけない人。


そのはずなのに、わたしは。


ほんの少しだけ、

その言葉を“嬉しい”と思ってしまった。


終わってなかった。

昨夜、彼の手に触れたあの瞬間から、何かが――

本当に変わり始めていたんだ。


アモンが、アナベルが、

小さな足音を揃えて進む。


殿下の横で、息を整えることもできないまま――

私も湖の光の中へ、もう一歩だけ進んだ。


光りの中で殿下の足がそっと一歩、こちらに向く。


風の音と、わたしの鼓動。

それだけが、耳の奥で響いている。


「……五年前、僕はここで一人の少女と出会った……」


(……え……?)


顔を上げられなかった。


でも、殿下は続ける。


「……その少女は、この湖畔で僕に声をかけてくれたんだ」


世界が止まったような気がした。


アモンのリードを握っていた“あの日”の手の感覚。

幼い自分の手からふいに抜けた瞬間の、あのじんわりした痺れと温度。


湖畔の光の匂いまで、うっすらとよみがえりかけた。


「君は変わっていないね。……何ひとつ」


そう呟いた殿下の声は、どこかかすかに揺れていた。


「……僕はもう一度、ここで君と会いたかったんだ」


言葉が胸に落ちる音がした。


痛いほど嬉しくて。

痛いほど信じられなくて。


確かに――


五年前、彼とここで会った。


けれど――。


なぜかそれ以上は思い出せなかった――

きっと、大切なことなのに。


アモンがふっと寄ってきて、わたしの手を鼻で押す。

大丈夫、と言うみたいに。


朝の光が、少しだけ滲んだ。


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