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第三話 友達

朝の光は、いつもより眩しく感じた。


薄いカーテン越しの陽射しが、床に細長い影を落とす。

世界だけが勝手に明るくなっていくみたいで、昨夜あんなことがあったなんて――

嘘みたいだった。


何度も目を閉じても眠れず、寝返りばかり打っていた。

朝になっても胸のざわつきは消えない。

あの場所に、何かを置きっぱなしにしてきたようで、落ち着かなかった。


(……アモンの散歩、行かなきゃ)


名前を呼ぶと、


「……ん、わふっ」


ベッドの横で丸くなっていたアモンが、もそりと顔を上げた。

白くてもさもさで、小さい頃はわたしの何倍も大きくて……

庭で背中に乗せてくれたのを思い出す。


たった一匹の、わたしの友達。

もふもふの毛も、優しい目も、全部変わらずそこにある。

朝はいつだって、誰より早く起きてわたしを待ってくれていた。


「行こっか、アモン」


首輪をつけると、アモンは鼻先でわたしをぐっと押した。

その温もりだけで、胸の奥の強張りがゆるんでいく。


アパートの扉を開けると、ふわりと朝の空気が頬を撫でた。

裏路地の澄んだ冷たさが、胸の奥まで静かに沁みていく。


石畳を踏むたび、アモンの重い足音が響いた。

強くて、安心する音。


裏路地を抜けて表通りに出ると、人影はまだ少ない。

散歩にはちょうどいい静けさだった。


「今日、いい天気だね……」


雲ひとつない青空。

まっすぐ降り注ぐ光が、アモンの毛をきらきら照らす。

アモンはときどき振り返って、小さく鼻を鳴らした。


――それだけで、胸がきゅっと痛くなる。


しばらく歩くと、昨夜の帰り道が胸の中によみがえった。



「……ただい……ま……」


アパートの階段を上がり、

扉を開けた瞬間、母が顔を上げた。


「ノエル……そのドレス……」


驚いた瞳に、深い心配がすぐに落ちていく。


濡れた髪。

胸元についた跡。

赤く染まった手袋。

母の髪飾り。

夢中で走ったせいで折れたヒール。


「ごめんなさい……お母さん……わたし、ドジで、転んでしまって……

 大切にって言われてたのに……」


震える声で言うと、母は静かに首を振った。


「いいのよ、ノエル。あなたが無事なら……それだけで十分よ」


母は、ジルベール様のことを何ひとつ聞かなかった。


そっと肩に触れられた瞬間、

胸の奥に溜まっていたものが、一気にあふれそうになった。


「……うん」


それだけ言うのがやっとだった。


涙が出る前にひとりにならなきゃ――

そう思って部屋に戻ろうとしたとき、

アモンがとことこ来て、大きな頭をそっとわたしの膝に押しつけてきた。


「アモン……」


しゃがみ込んで抱きしめる。

胸に顔を埋めると、息が少しだけ楽になった。

アモンの体温は、わたしよりずっと高い。


毛の匂いも、鼓動の音も、

全部が“おかえり”って言ってくれているみたいだった。


(……わたし……)


けれど、今日、私のすべてが終わってしまった気がして――

涙じゃないのに、目の奥だけが熱くなる。


ふと、棚の端に白い布が置かれているのに気づいた。


洗いたてのハンカチ。

――殿下の。


「……返さなくちゃ……」


そっと指で触れた瞬間、

殿下の指先に触れたひやりとした感触がよみがえった。


ほんの一瞬、触れただけ。

ただそれだけなのに、胸の奥が跳ねた。

驚いて、すぐに手を引っ込めたくらい。


(……どうして……?)


分からなかった。

でも、その“跳ね方”だけが身体に残っていた。


でも、あの銀の瞳――どこかで……?


(私なんかが殿下と……?)


ううん、そんなはずない。


香りの薄くなった布を見つめると、

なぜか、とても寂しく思えた。



「わふっ!」


アモンの声で、今に引き戻される。


気づけば中央広場の噴水の前だった。

朝の光を浴びた水の粒が、きらきら揺れている。


アモンがふいに立ち止まった。

鼻をひくひく動かし、風の方へ一歩だけ近づく。


「アモン? どうしたの?」


いつもはあまり反応しない匂いに、

今日はやけに敏感みたいだった。


アモンはしばらく耳を立てたまま、

まるで誰かを思い出すみたいに鼻を鳴らすと、

またゆっくり歩き出した。


「どうしたの?」


そのとき――


「アン!」


小さな犬の声と軽やかな足音。


「わぅ!」


アモンも一歩前へ出て、尻尾を振る。


胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。


(……あ……いつものアナベルと執事さん……?)


朝日の光の向こうから、小さな犬を連れた人影が歩いてくる。


心臓が一度だけ妙に強く跳ねた。

あの逃げるときの強さでも、泣くときの痛さでもなくて。

名前のない“跳ね方”。


なぜか、手渡された白いハンカチの感触が、

記憶の底でかすかにうずく。


そして――私は、そっと振り向いた――。


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