第二話 婚約者
「あ、あの……ジル、ベール……わたしと……」
私の声はか細く、消え入りそうだった。
それでも振り返ってくれたジルベール様は、ふわりと笑ってくれた。
昔から変わらない――と、私が思い込んでいた、あのあたたかい笑顔だった。
琥珀色の瞳が優しく細まり、
私を見つけたことを喜ぶように輝いている“ように”見えた。
「ああ、ノエル。君を待っていたんだ。
さあ、こちらにおいで」
優しい声なのに、胸の奥がなぜかざわついた。
私、緊張してるからだよね……。
そう思うと、胸がふっと軽くなる。
(……よかった。やっと……やっと、わたし……)
伸ばされた手に、そっと自分の手を重ねようとした――まさにその瞬間。
指先が触れる直前、
ジルベール様の視線が、すっと横へ流れた。
カトリーヌ。
扇子の影で、彼女がわずかに口角を上げる。
その隣で、
取り巻きの一人が、小さくクスクス笑いを漏らした。
そして――
伸びかけた彼の手は、何事もなかったように胸元へ引っ込められた。
(あれ? どうして……)
胸の奥で、なにかがきゅっと縮む。
言葉を発しかけた、その瞬間だった。
足首に、かすかな異物感。
ドレスの裾の奥で――誰かの靴が、私の足に引っかかった。
(え?)
その瞬間、足首の細い骨が、ぐにっといやな向きを向いた。
バランスを取ろうとしてもドレスが絡んで――。
視界が揺れ、腰のあたりがふわりと浮いて、
胸の重さだけがワンテンポ遅れてついてくる。
「きゃっ……!」
ジルベール様の礼装の裾が、わずかに私から遠ざかる。
差し伸べられるはずだった手はなく、その代わりに、彼の靴が半歩だけ後ろへ引かれるのが見えた。
空気がふわりと浮いた。
次の瞬間。
ざばっ――。
(ワ……ワイン……!?)
冷たい液体が髪をまとわりつき、
うなじを伝い、胸元へと流れて布地が湿って肌に吸い付く。
肩から背中まで、ひやりとした重さが張り付き――
甘い香りが、一瞬で世界を真っ赤に染めた。
床に両手をついたまま、私は呆然とした。
髪を伝う液体が、首筋に、背中に。
両親が用意してくれたドレスの白い布地が、音もなく赤へ侵されていく。
(……な、んで……?)
そんな私の見上げた先に、影が落ちる。
ジルベール様は――立ったまま微笑んでいた。
その瞳から“優しさの色”が、嘘みたいにすっと消えていた。
「ふふ……勝手に転んでしまうなんて。
ノエル……君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
(……そ、そんな……。
私がドジだから、こんなに優しいジルベール様に、恥をかかせて……
怒らせてしまった……)
恥ずかしさと申し訳なさで、胸がぎゅっと縮む。
「まあ、たいへん!」
耳元で扇子の乾いた音が跳ねる。
カトリーヌが同情の表情を浮かべて微笑む。
「でも、その地味なドレス……棄ててもいいですわね。
けれど、これではダンスどころではありませんわね?」
笑っているのに、碧い目は氷のように冷たい。
(わたし、カトリーヌ様にも軽蔑されてしまった……)
ざわ……ざわ……。
周囲の空気が時間差で刺してくる。
「今度はジルベール様に。また媚び売って失敗したの?」
「さっき氷の王子様にも色目使ってましたわよね?」
「……ラングロワ家のお慈悲で婚約して頂いたくせに!」
(ち……違う……わざとじゃないのに……)
喉がつまって声が出ない。
震える膝がうまく言うことを聞かない。
胸がきゅっと締まって、息を吸うたびに肋骨が痛い。
濡れた布地が肌に貼りつき、
少し動くだけで太ももの内側をひやりと撫でる。
それがまた恥ずかしくて、苦しくて。
そのときだった。
足元に、淡い影が落ちた。
長い脚。静かに沈む気配。
……氷の王子が、私の目線まで降りてきていた。
しゃがむという、ただそれだけなのに――
殿下が目線を合わせるために膝を折った瞬間、
礼装の生地がこすれ合う低い音が耳の奥に響き、
銀髪が月光のように光をひろう。
彼が近づくたび、
湿ったワインの匂いの向こうから、
ひやりとした体温の気配だけが迫ってくる。
銀の瞳が、
ワインに濡れた私を“真正面から”見つめていた。
その視線は、冷たい。
やっぱり、こんな私を軽蔑しているの?
でも、その瞳には、それ以外の色がある気がして――。
ゆっくりと、そっと、
殿下は白いハンカチを差し出した。
その指先が触れそうな距離まで近づいたとき、
殿下の喉が小さく揺れた。
息を呑んだような、堪えたような……
そんな微かな震え。
でも。
その氷のような瞳を見た瞬間、やっぱり――
「……どうしようもない間抜けな娘だな……」
と、言われているような気がして――
(あ……)
それでも、胸は跳ねていた。
会場はざわめきの渦。
「何あれ……」
「そこまでして殿下に媚びを売りたいの……!?」
「信じられない……。どこまで卑屈なのかしら?」
カトリーヌの扇子が、ぎり、と歪む。
差し出されたハンカチを震える指で握ったとき、
指先がほんの刹那だけ彼の指に触れた。
冷たい。
……なのに、触れたところだけ脈が跳ねて、
胸の奥まで一気に熱くなる。
ほんの指先ひとつなのに、
誰かに身体の芯を撫でられたみたいに震えた。
思わず手を引くと、私はそれをぎゅっと胸元で握り締めた。
濡れた布地が肌に触れ、分不相応に熱くなった体温を、ひやり、と冷まされた気がした。
その瞬間――熱いものが頬を伝うのを感じて、
私は立ち上がり、逃げるように走り出した。
なぜかわからない。
けれど、逃げるしかない、そう思った。
一度も振り返らなかった。
殿下も、ジルベール様も、どんな顔をしているのかわからない。
知りたくない――。
一歩、二歩――踵が床を叩くたび、楽団の音も、ざわめきも、遠くへ溶けていく。
聞こえるのは、自分の心臓がうるさいくらい打つ音と、靴音だけ。
たぶん、みんな笑ってる。
でも、もう何も聞こえなかった。
(だめ……どうしよう。ジルベール様どころか、殿下にまで……。
アモン……わたし、どうしたら……!?)
羞恥、悲しさ、悔しさ、混乱。
全部が胸でないまぜになって、息が苦しい。
何も悪いことはしていない。
けれど――何かいけないことをしてしまった気がする。
もう、何が何だかわからない。
光の中を抜け、外へ。
誰もいないところへ――。
濡れた布地が重くて、一歩進むたびに胸元がぴたりと肌に張り付く。
けれど。
胸元で握りしめたハンカチだけは――
なぜだか、不思議とあたたかかった。




