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最終話 ひとつだけ、ご褒美いただけますか?

楽団の演奏が――ふっと、吸い込まれるように途切れた。


ざわ、ざわ……と静かな波紋がホール中に広がっていく。


「え……?」

「陛下……? 本物の……?」

「王家の親衛隊まで……どうして……!」


金と白の礼装が、シャンデリアの光を吸っては返しながら、

ゆっくりとホールを進んでくる。


(……あれって……まさか……)


「国王陛下!」


そのひと声を合図に、会場が揺れた。

空気そのものが震え、胸まで響いてくる。


誰もが跪く中、私も慌ててスカートをつまみ、膝をついた。


(え、え、え……?

 執事さんが陛下で……陛下が執事さん……?

 ということは……え……??)


心臓の音ばかりが胸の内側で響いて、

世界の音だけが薄い膜の向こうに遠ざかっていく。


頭を垂れたまま、思考が崩れ落ちるみたいに混乱していた、そのとき。


「アンッ――アンッ!」

「わふっ!」


アモンとアナベルが駆け込んできた。

アナベルは私の膝に前脚を乗せ、

アモンまで“ここにいるよ”と鼻を押しつけてくる。


(この子たちまで来てるの!?)


驚いて顔を上げれば――

今度は父と母の姿が目に飛び込んできた。


「お父様……? お母様……?」


胸の奥がぐらぐらと揺れる。

私は思わず握りしめていた白いハンカチを見つめた。


(そう……だ。返さなきゃ……)


混乱に飲まれかけて、なんとか思いついたのはそれだけだった。


――そのとき。


「ノエル・カスティーユよ、顔を上げよ」


静かに落ちた声が、胸の奥深くまで届いた。


恐る恐る顔を上げると、

“執事さん”――いや、国王陛下が柔らかな目で微笑んでいた。


「ふふ……驚かせてしまったかな?」


少ししゃがれたその声音は、いつもの朝と同じ、優しい穏やかさ。


「なぜ王が執事の真似事などしていたのか――

 あなたという娘を、正しく知っておきたかったからだ」


「わ、わたしを……?」


陛下は静かに頷き、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「それより――礼を言わねばならぬ。

 あの日、あなたがかけてくれた言葉が……息子を変えたのだ」


「……わたしの、言葉で……?」


「うむ。

 あの湖から戻ったカスパルは、まさしく“王子”の顔だった。

 私が愛した女性は平民の出でな……王宮に呼ぶことは叶わなかった。

 だが――あなたの言葉が、あの子の心を前に進ませてくれた」


胸の奥がじんわりと熱くなり、視界がにじむ。


(ううん。あれはただ……彼に自分を重ねただけ……)


俯きかけたそのとき。


「……ノエル嬢」


低くて優しい、彼の声。


顔を向けると――

銀の光が揺れ、その中心に殿下の手がそっと差し伸べられていた。


白く整った指先が光をすくうように差し出されている。

私はその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。


近衛兵が儀仗を打ち鳴らし、皆も立ち上がる。


振り返れば、ジルベールは蒼白になって立ち尽くしていた。


「さ、さすがは僕の婚約者だな、ノエル……

 ぼ、僕も鼻が高いよ……?」


口元を引きつらせながら言葉を続けた。


「ほ、ほら……ノエル……?

 こういう時こそ、未来の伯爵夫人らしく……笑って……?

 ね? ね?」


隣のカトリーヌは、扇子を震わせながら唇を噛む。


「ふむ。その件だが――」


王が口を開いた瞬間、

カスパルが一歩前へ出た。


「父王。ここからは僕が」


王は満足げに頷き、道を譲る。


カスパルはジルベールとカトリーヌの前まで静かに歩み寄った。

ただ近づくだけで、二人は肩を震わせる。


「ジルベール・ラングロワ。並びにカトリーヌ・モンテスパン」


声は氷の刃より冷たく、研ぎ澄まされていた。


「まず、ノエル嬢への度重なる侮辱行為。加えて意図的な流言。

 ――申し開きは?」


「そ、そそそ……そんなつもりは……っ!」

「…………っ!」


ジルベールは震えながらカトリーヌを見るが、

彼女は顔を強張らせたまま言葉を失っている。


「そ、それは誤解だよ!

 ほらカトリーヌ! 君からも何か……言って……?


カトリーヌは扇子をぶるぶると震わせたまま、答えない。

ジルベールの顔色が変わる。


「おいっ! お前も何か言えよ!」


荒げた声がホールに空しく響く。

ジルベールは助けを求めるように見回すが、誰もが目を逸らす。


(やっぱり……。

 ジルベール様は……優しい人なんかじゃ……なかったんだ……)


胸の奥が、音もなく沈んでいく。

怒りより先に、ただ寂しさだけが広がった。


親衛隊の騎士が進み出ると書状を広げた。


「ラングロワ男爵家、モンテスパン子爵家。

 共謀によりカスティーユ伯爵家を没落させしめた罪。

 両家は全財産を没収の上、伯爵家へ返還すること」


(……嘘……でしょ……?)


ジルベールを見ると、彼は目を逸らした。


(……本当……なんだ……)


胸に空いたままの穴がずきり、と痛む。


「い、嫌よ! このわたくしが没落など……!」


カトリーヌは白目を剝き、全身がぶるぶると震える。


しかし、容赦なく別の書状が示される。


「――婚姻後にノエル嬢を離縁し、カトリーヌ嬢と再婚して伯爵家ごと乗っ取る計画。

 その全てに、両家当主みずからの血判が押されている」


ぐさりと胸を突かれたような痛み。


(……ひどい……っ。

 私……本当に、彼にとってただの道具だったんだ……)


利用され、棄てられることになっていた――。

その事実に、胸にぽっかりと空いた穴がじくじくと広がって行く。


「ふふふ……君は僕を見捨てられない。

 ……これからも、僕だけを見ていればいい」


ジルベールは私を見下ろし、微笑もうとして口角を上げた。

その声には、いつもの余裕はなく、むしろ縋るような色があった。


けれど、私にはもう何の感情も湧かない。


「ねえノエル? 君は、僕と結婚するしかないんだ」


ジルベールの少し震えた声。

その瞳に宿った熱を見て、私は思わず半歩後ずさってしまった。


(……そんなの、やだ……)


でも、私は彼を見捨てることはできない。

婚約も、その破棄も、両家が首を縦に振らなければ叶わない――

小さい頃から、何度も聞かされてきた現実。


だから結局、私はこの人に一生縛られて生きるしかない……。


そう思うと、息が浅くなり、視界がぼやけた――

その瞬間、殿下の低く通る声が沈黙を裂いた。


「欺かれていた事実は明白。

 ゆえに、約定は無効。

 この場をもって――王家の裁定により、この婚約は破棄とする」


(……えっ!?)


ホール全体が揺れ、息が止まる。


「……そ、そんなぁ……!」


ジルベールは膝をつき、頭を抱える。


カツン――ッ。


カトリーヌの扇子が落ち――


「嫌あぁぁぁ――ッ!」


牡丹色の唇が震え――その場に崩れ落ちた。


しかし、誰も、取り巻きでさえも二人を支えようとはしない。


「没落して反省するがいい。……できるものなら、だがな」


それは、まさに氷の宣告。


私はただ、息をするのも忘れたまま立ち尽くしていた。


(……でも……。こんな形で、また一人になるなんて……)


足元のアモンが身体を寄せる。


それでも、胸の奥がひりつくように痛い。

なのに、なぜか――一瞬だけ、あの湖畔で見た殿下の顔が胸に浮かんだ。


そんな私の前に――

真っ白な影がゆっくりと歩み寄る。


(……殿下?)


私の視界が揺れ、彼の姿が霞む。


さっきまでの冷たさが嘘のように、

穏やかで、優しくて、胸が痛くなるほどあたたかい微笑みを浮かべて。


「も、申し訳……」


反射的に謝ろうとして──そこで、殿下の言葉に遮られた。


「――ノエル嬢、君は自由だ。君はどうしたい?」


(……殿下!?)


そっか……彼は――きっと、私の答えを待っている。

彼の瞳がそう言ってる。


(……彼に言わなきゃ。伝えなきゃ……)


胸の奥がきゅっと熱くなり、

私は震える指でハンカチを握りしめる。


(わたしは――)


唇から自然と言葉が溢れた。


「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか……?」


(――もう逃げない。

 自分の気持ちに嘘をつかない――)


殿下は驚いたように瞬き、

すぐに柔らかく笑って、王族の礼を取った。


「……なんなりと」


(――あなたと――)


私は手を握り締め、

これまで生きてきた中で、一番の勇気を振り絞った。


「――わたしと、踊ってくださいますか?」


空気が完全に止まった。


(――並んで歩いて行きたいのです――)


次の瞬間。


パリン。


彼の心の氷が割れる音がした。


そこにいたのは、

もう“氷の王子”ではない。


彼は私の手をそっと取り、

その甲へ、溶けた氷の滴みたいに優しいキスを落とした。


「……喜んで。……その言葉をずっと待っていた」


彼は今、王子ではなく一人の青年としてそこにいる。

その銀の瞳には今、私だけが映っている――


(――そう、わたしは、あなたに。恋しています)


「バウッ!」

「アンッ!」


アモンとアナベルが嬉しそうに跳ね、恋人みたいに並んで座った。


(アモン。わたし――ちゃんとできたよ)


王が頬を緩め、片手を上げると、

楽団が再び音を奏で始めた。

お父様とお母様も寄り添って微笑んでいる。


その曲は――ふたりのためのワルツ。


私はそっと、彼の手を引く。


温かい。


こんな温度で私の手を取ってくれるのは、

これまでも、これからも――きっと、彼だけ。


――あの日。

湖に落ちていた私の心を拾ってくれたのも――

この人だった……。


彼は宝物を見つけたように私に微笑む。

冷たいはずの銀の瞳に灯った熱に、胸が熱くなり、

そっと微笑みを返した。


「……僕はもう、君を離さない」


「わたしも、ずっとお傍に……」


胸に空いていた穴は、嘘みたいに消え、

代わりに別の温かいもので満たされて行く。


そして私は心の中で呟いた。


(アン、ドゥ、トロワ。……一歩、前へ)


二人の影が一つになり、ホールの中央に差す。


――この瞬間、私の本当の夜会が、ようやく幕を上げた。




(完)


お読みくださり、ありがとうございました。

お気に召しましたら、評価やブクマ、感想などで応援していただけるとすごく嬉しいです。


これからも、皆さまの心に少しでも残る物語をお届けできますように。

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