第28章 第4話
その夜。
夕食を終えた僕にお茶を差し出しながら礼名が呟いた。
「あのね、お兄ちゃん。ホントのことを教えて欲しいの」
「ホントのこと?」
どきん、とする。
僕たち兄妹のことか?
礼名は多分気付いている。
気がついていて、でもそれを認めていないのだと思う。
どうしよう、どう答えよう……
「あのね、お兄ちゃんは、その……」
「…………」
もう本当のことを言うべきか。
「お兄ちゃんはさ、ホントのところ……」
思い詰めたように俯いていた礼名が急に真っ直ぐ僕を見る。
「麻美華先輩のことが好きなの? 麻美華先輩と付き合ってるの?」
「えっ?」
予想外の質問に脳細胞がフリーズする。
今までは僕と結婚するって決めつけた発言しかしなかった、あの礼名が。
「ねえ、どうなの? ホントのところどうなのっ?」
「いや、倉成さんとは別にその…… 席が隣ってだけで……」
「誤魔化さないでっ! お兄ちゃんと麻美華先輩ってすごく仲がいいよねっ! 今日だってふたりだけで屋上に行ってたじゃない! 生徒会室にふたりっきりってのも何回もあったよねっ!」
「いや、だからそれは……」
「礼名怒ってるんじゃないよ! ホントのことが知りたいだけ! 礼名が邪魔なんだったらハッキリ言って!」
そう言う礼名の瞳は潤んで、今にも零れてしまいそうだった。
「礼名が邪魔なわけ無いだろ。倉成さんとは確かに仲がいいかも知れない。だけど、だからって礼名は僕の大切な妹だ。だから……」
「妹なんてどうでもいいのっ!」
礼名は椅子から立ち上がる。
「わたしはお兄ちゃんのお嫁さんになりたいのっ!」
どうしよう。何て言おう。今日の礼名はストレートだ……
僕だって礼名が大好きだ。
朗らかで優しくって気が利いて、こんないい子は他にいない。
礼名と一緒になれる男は絶対に宇宙一の幸せ者だ。
だけど……
「なあ、どうして僕がいいんだ? これからもっとたくさんの出会いがあるんだぞ!」
「礼名は迷わないよ。お兄ちゃんが一番だよ」
「だからどうして……」
「……好きなものは好きだから」
礼名はまた椅子に座ると自嘲気味に。
「わたし、お兄ちゃんを縛りつけたりしたくない。だけど不安になるんだ。ねえ、麻美華先輩とわたし、どっちが好き?」
* * *
自分の部屋で机に座り宿題をする。
手は数式を解いてはいるけど、頭の中はこんがらがったままだ。
「麻美華先輩とわたし、どっちが好き?」
礼名の質問に僕はずるい答え方をした。
「倉成さんとの結婚とかは有り得ないよ」
礼名はそれ以上の追求をしなかったけど。
ノートをめくって最後の問題に取りかかる。
図に示す三角形ABDの面積を求めよ、か。
簡単な問題だけど着眼を間違えるとすごい遠回りをする。三角形をどう見るか……
…………
ああ、礼名。
礼名、礼名、礼名……
切なくて胸が苦しいよ。
でも、僕なんかで礼名は幸せになれるのか?
そもそも、礼名が僕を好きだと言ってくれるのは、僕への同情ではないのか?
ああ、どうして僕はさっき、全てを打ち明けなかったんだ。
……怖いから?
今のこの、ふたりの関係が崩れ去るのが怖いから?
あのあと、礼名は思わぬことを言い出した。
「お兄ちゃん。わたしこの前、質屋さんのアコーディオン見てたでしょ。あれ、欲しいんだ……」
「え?」
「あっ、だけど高いよね、無理だよね……」
質屋さんで礼名が見ていたアコーディオンはスピーカー内蔵の最新式電子楽器だとかで価格は二十万円。それを買うと言うことは我が家の貯金計画が根底から転覆する。大きな決断が必要だ。清水の舞台から飛び降りて大腿骨骨折して入院も覚悟しなきゃいけないレベルだ。と言うか、生きるか死ぬかの選択だ。だけど礼名が欲しいという。この一年、自分からものが欲しいなんて一度も言ったことがない礼名の初めての希望。
「分かった。買おう」
僕は答えた。
「ちょっと待ってよ。即答? 二十万円だよ? 自分で言ってこう言うのも何だけど、もう少し考えようよ! どうしているんだとか、何に使うんだとか、ネットで最安値は調べたのかとか、電子ピアノなら安いのがあるぞとか、もっと色々聞いてよ! 色々詮索してよ! そんなにあっさり買おうなんて言える金額じゃないんだよ!」
「うん、礼名よく分かってるじゃん。だったら買おう」
「ちょっとお兄ちゃん!」
思っていた反応と違ったのか、慌てた様子の礼名。
「どうせウィッグ対策なんだろ? オーキッドのお客さんに演奏して聞かせるとかさ」
「えっと、店の中で演奏するのは静かな時間を欲しい人には迷惑だよね。夜の盛り場なら分かるけど」
「じゃあどうして?」
その言葉を待ってましたとばかりに礼名は居住まいを正した。
「商店街へ続く道って結構広いのに何だが無愛想だよね。だからさ、店の前で演奏したいなって思ったんだ。ほら、お洒落な欧州のカフェのイメージってオープンカフェでさ、カプチーノ片手に通りの大道芸人や演奏を眺めてるって、そんな感じでしょ? あれ、やってみたかったんだ」
楽しそうにそう語った礼名は自分にもお茶を入れる。
「それって客引きってこと?」
「うん、そうなるかもだけど、効果があるかは実は礼名にもよく分からないんだ。たださ、店の周りの雰囲気がよくなるかなって。商店街がお洒落になるかなって」
正直なところ、僕には彼女の考えが理解出来なかった。
ウィッグが出来ると客を取られる。だから店の前で演奏をして注目を集めて来店客を増やそうってことじゃないのか? けれども彼女の言い分はそうではない。むしろ集客に効果があるかは分からないという。だったらどうして……
僕は目の前のノートに視線を落とすと、三角形ABDをDを通り直線ABと垂直に交わる直線で切り分ける。そうして問題を解き終えると大きく背伸びをしてノートを閉じた。
ともかく明日、質屋さんへ行ってみよう……
礼名が今もピアノを好きなことは間違いない。と言うか、彼女は音を奏でるのが好きなのだ。才能だって群を抜いている。それが礼名の望みなら僕は何としても叶えるだけだ。
さあ、もう寝なくちゃ。
僕は明日の準備をすると水を飲むために部屋を出る。
もう深夜零時をとっくに回っていた。
静かに廊下へ出てみると礼名の部屋からまだ灯りが漏れている。
勉強をしているのか、それともお客さんの情報を整理して覚えているのか?
しかし。
立ち止まった僕の耳に意外な言葉が飛び込んできた。
「こんなものっ!」
その声に思わず礼名の部屋に歩み寄る。すると足音に気がついたのだろうか、突然彼女の部屋の灯りが消えた。
トントン
「礼名、起きてるか?」
「礼名はもう寝ました。グーグーグー」
「……わかった。おやすみ」
吹っ切れない気持ちのまま僕は水を飲みに階下へと降りた。




