それはとても禍々しく、それはとても美しい
私は、ソフィア・ヴォルフは前線で戦っていました。
紙とペンと、通信用魔道具を持って。
「第七陣用の純粋紅魔石は第八五魔像部隊に。そちらの物資は第一一九人馬騎兵連隊への物資になります!」
私は前線で、必要な事をしていた。
前線で必要な物は多種多様。
しかし後方から運ばれてくる物資には限りがあり、それをどう効率よく分配するかが私の、兵站局員としての役目。
「医療隊です! 負傷者が多く、包帯が足りません!」
「今、近隣の陣地から医療品の輸送を頼んでいます! 今は少し待ってください!」
血と土の臭いが充満するベルガモット陣地で、かつて魔王ヘル・アーチェに助けられた私は待ち続けていました。
ヘル・アーチェ陛下が無事に帰ってきたという報告を、待ち続けていました。
必ず帰ってきてほしい。
私はまだ、陛下に恩を返していない。
返しきれない恩を、返していない。
願い、祈りました。
そしてついに、通信魔道具から待ちに待った声が聞こえてきました。
『ワイバーン隊所属のフルールよりベルガモット陣地司令部へ! 陛下を救出した! 現在ベルガモット陣地に移送中です! 他の親衛隊員も僚騎が移送しています!』
ベルガモット陣地から、歓声が上がります。
「やった……陛下が無事に……!」
私もまた喜びました。
誰かが勝手に箱から酒を取り出して栓を開けるのを咎めない程、私は狂喜しました。
だがその喜びは、続く報告でシンと途絶えたのです。
『現在、陛下は意識を失っている! 医療隊の支援を! 繰り返す――』
「なっ……」
まさか、という嫌な予感が、私の、全魔王軍の脳裏を掠める。
まさかそんなことが、ここまで来て……。と。
誰もが絶望の淵に立たされ、誰もが絶望に打ちひしがれようとしたその時、私は再び思い出しました。
自分が何者であるかを、思い出しました。
そうだ。
今は、誰もが己の職責の中で最大限の努力をしなければならないときなのだ。
「――医療隊の皆さん! すぐに陛下の受け入れの準備を!」
私が叫ぶまで、絶望によって我を失っていた魔王軍が再び息を吹き返します。
「あらゆる医療リソースを陛下に! 医薬品を、医療品を、陛下に! 不足分があれば、すぐに私に報告してください!」
「は、はい!」
ありとあらゆることを想定します。
陛下が重傷だった場合、必要になるのは何か。
陛下が傷を負っていないのにも拘らず気を失っている場合、必要な処置は何になるのか。
そして陛下もそうだが、陛下を治療する間に戦線が突破されないように、自分は何をすべきなのかを考えた。
何が必要になるのか、先手先手で考えて、準備を尽くします。
「それと……輸送隊に、使える飛竜か高速馬車か輸送用魔像はありますか!? 陛下を後方に運ぶために!」
「飛竜はない。人馬族の高速馬車はあるにはあるが、重傷者の搬送には向かんぞ!」
「わかりました。ベルガモットの野戦病院で馬車に耐えるだけの治療をした後に後送病院に送ることになると思います!」
「わかった、すぐに準備しよう! 護衛の準備は――」
「私が回ります!」
「頼む!」
やるべきことをする。
「ベルガモット陣地のソフィアです! リリルーカ要塞へ緊急の要請です!」
すべきことをする。それが私の仕事。
そして数分後、ベルガモット陣地に数騎の飛竜が到着します。
「陛下が来たぞ!」
「医療隊は急げ! 搬送の準備!」
素早い対応で、医療隊の天子族の治癒魔術師が陛下に駆け寄ります。
私もその天子族の後に続きました。
ですが治癒魔術師がヘル・アーチェの全身にある傷を癒そうと治癒魔術を始めた瞬間、陛下の容態が急変したのです。
「アァッ……カハッ」
ヘル・アーチェが吐血し、激しく痙攣したのです。
「陛下!? どうされたのですか!?」
思わず、ヘル・アーチェ陛下の手を握りました。
そして治癒魔術師を見ます。まさかここに来てトドメを差しに来たのかと、怒りを籠めて睨みつけた。
でもそれに対する治癒魔術師の答えは明瞭。
「なんだ……これは!?」
絶望的な声で、絶望的な言葉を放ったのです。
「どうしたんですか……?」
「わからない。こんな症状、始めてだ。いったい何が……」
医療隊が、さじを投げたのです。
未知の症状を発する病気、そして傷を治癒魔術で治そうとすれば症状が悪化する。
他の親衛隊員も同様で、治癒魔術によって死に至る者もいました。まさに絶望的な状況。
「まさか……これが人類軍の新兵器だと言うのですか!?」
兵站局で聞いた、斥候からの報告はまさにそれを意味していたことに気付きました。
そんな重大な問題だとは、思っていなかったのに。
天子族の治癒魔術師は、陛下に識別魔術を掛けます。
辞書のような機能を持つその魔王で、陛下が何に罹っているかを調べようとしたのでしょう。
しかし治癒魔術師から出た言葉は単純で……そして厄介な結論でした。
「……毒、だと?」
「毒? そんな古典的な……それに毒ならば解毒薬や解毒魔術があるはずじゃ……」
そうだ、そうなのだ。そのはずなのだ。
毒は、自然界にも存在する。毒を持つ動物や魔獣もいた。
魔族はそれに対して解毒薬や解毒魔術も作ってきた。ですが彼が陛下に識別魔法をかけてから告げられる言葉は、無常。
「毒が特定できない。私の識別魔術ではその毒を『毒ガス』としてしか認識できない。陛下程の力があれば特定できるかもしれないが……」
「でもそれは!」
「あぁ、無理だ」
そんな。
そんな、ここまで来てどうにもならないなんて。
人類軍の新兵器は、私を、魔王軍を絶望の淵へ陥れた。
人類にしか知り得ない原理を持つ毒を無効化することは、魔族に出来るはずはない。
……そう思ったところで、はたと気付きました。
人類なら、知り合いにいるじゃないか。
信頼できる人間が、近くにいるじゃないか。
「残念だが――」
諦めるしかない。そう呟きかけた治癒魔術師の口を、私は大声を上げて防ぐ。
「待ってください! まだ、諦めるわけにはいきません!」
「何……? しかし」
「諦めるわけにはいかないんです!」
必要な物を提供する、それが兵站の仕事だから。
「アキラ様! 応答願います!」
私は必死に、通信魔道具に向かって叫びます。
そんなに叫ばなくてもいいのに、叫びました。そして返事は、すぐに来ました。
『――兵站局のアキラです。どうしました、ソフィアさん?』
いつもと同じ、落ち着いた声で、応答しました。
でも私には、それはできません。
「アキラ様、陛下が――陛下が――」
涙を流しながら、必死に訴えようとしました。
言葉が喉でつっかえて、思うように伝えられなくて。
『落ち着いてください。ゆっくり、呼吸を整えてからお願いします』
優しい声で、そう諭してくれました。
そうだ、感情的になってはいけない。
戦場では冷静さが必要だ。必死に泣き叫ぶだけでは解決しないことなんて、私はとうの昔に知っている。
「――陛下が、毒に冒されました。識別魔法では『毒ガス』としかわかりませんでしたが」
『……人類軍の新兵器、ですか?』
「そうです」
私たちが驚愕した事実を聞いたアキラ様は、冷静でした。
やっぱり、知っていたのだと。
「お願いです、アキラ様。陛下を救ってください!」
懇願します。
アキラ様が知っていると信じて。
『情報が足りません。陛下の症状を見せてください』
「は、はい」
言われた通りに、陛下の身体を通信魔道具越しに見せます。
その脇で、治癒魔術師の方が症状の詳細を説明しつつ、他の親衛隊員の情報と合わせてアキラ様に伝えました。
症状は主に、嘔吐、失禁、高熱、呼吸障害、昏睡、痙攣、そして瞳が極端に縮小するなど。
通信魔道具の向こうにいるアキラ様の表情は……眉間に皺を寄せて、なにか嫌な物を思い出すような、そんな顔。
そして頭を手で抱えて、こう呟きました。
『最悪だ』
と。
『――ソフィアさん。それは神経ガスです』
知っていた。
私たちが知らないことを、知っていた。
「アキラ様の世界でも、あったのですか?」
『はい。どこぞの怪しい宗教団体がチカテツでばら撒く代物ですよ。死傷者が大量に出たクソッタレなテロ事件がありました。私の国じゃ、一番有名な化学兵器……恐らく「サリン」でしょう』
心底嫌な顔で、そう言ったのです。
瞳孔が極端に縮小する症状、即ち「縮瞳」は、そのサリンに冒された者の特徴的な症状であると。
「へ、陛下はその『サリン』とやらの直撃を受けたと思われます!」
『直撃って……軍用の化学兵器が直撃して、虫の息とはいえ生きてるって……どんだけ陛下頑丈なんですか……』
「呑気な事言っている場合ですか!」
『失礼。つい。――神経ガスは時間と共に症状は悪化します。まだ生きているとはいえ、至急に手を打たないと手遅れになります。サリンなんかは制限時間が5時間ほどしかありませんし、軍用兵器ならばもっと早いでしょう』
「そんな……」
『陛下の体力を信じるしかありません。とりあえず、すぐに薬を投与してください。痙攣が始まっているのは既に末期ということ。心肺停止となってもおかしくありません』
「し、しかし薬と言っても一体……」
『サリンは有機リン中毒の治療薬、プラリドキシムヨウ化メチル(PAM)やアトロピンを使用します。……まぁ、魔王軍にあるとは思えませんがね』
有機リン系農薬があれば別ですけど、と彼は続けます。
聞いたことのない言葉の羅列で、治癒魔術師の方も首を横に振っています。
「それじゃ……陛下は助からないのですか? 無理なんですか?」
思わず、そう呟いてしまいました。
答えがわかったのに、何もできないということがわかってしまったから。
アキラ様自身が、それをほぼ認めたのです。今の魔王軍では、陛下を救えないと。
でも、アキラ様はまだ諦めていませんでした。それどころか、
『ソフィアさん。諦めたらそこで何もかもが終わりですよ』
「……で、でも」
『私に、薬の在り処について心当たりがあります』
力強く、自信満々に答えたのです。
『サリンの治療薬は恐らく――いえほぼ確実に――人類軍が持っています』
「……えっ?」
『考えてみてくださいソフィアさん。使用されたのは「毒ガス」です。風向きによっては自分たちがそのガスを浴びる可能性があるんですよ?』
確かに、その通りだ。
ガスは気体。
であれば、うっかり自分が吸ってしまうと言うことはあり得る。
魔王軍でも、うっかり自軍に攻撃魔術を掛けてしまうという事故がままあるのだ。人類軍も、それは同じだろう。
「つまりアキラ様は……人類軍の部隊を襲え、ということですか?」
『そういうことですね。簡単に言うと「現地調達」とか「鹵獲」ですね』
「…………」
後方からの輸送体制の構築に腐心し、現地調達や略奪と言う風習を少しずつ改善しようと努力した本人が、そんなことを言うなんて。
『ソフィアさん?』
「……いえ、ちょっとおかしくて」
こんな時なのに、笑ってしまいました。
『はぁ……まぁいいでしょう。とにかく治療が最優先です。兵站局から最前線にいるレオナや他の部隊と連絡を取って薬を確保します。ソフィアさんはその間に「それ以外のやるべきこと」をやってください』
「はい! 何をすべきですか!?」
『まずは毒から遠ざけて。現場にもう味方はいませんね?』
「いません! 飛竜が上空を飛んでいますが……」
『飛竜も念のため退避をお願いします。患者については、まず服を脱がせてください。服に毒が染み込んでいる可能性がありますので。脱いだ服は必ず処分を。陛下を救出した部隊、ソフィアさんも含め、陛下や親衛隊員と接触した全ての人員についても、ガスを吸っている可能性がありますから同様に対処を。あとは――』
アキラ様は、必死に何かを思い出そうとしています。
確かこうだったはずだと、記憶を探りながら、必死に陛下を助けようとしていました。
『……あとは陛下の体力と運に任せるしかありません』
「わかりました。ありがとうございます!」
そう言って、私は通信を切りました。
大丈夫。
アキラ様なら、きっと私たちを助けてくれる。
「みんな、治療の準備だ! なんとしても患者を救え!」
治癒魔術師の方たちが、陣地に号令をかけます。一刻も早く、陛下を救わなければならないと。
「「「はい!」」」
「飛竜隊、何騎か飛竜を借りるぞ!」
「どうする気だ!?」
「陛下と、助かりそうな重傷者をより設備の整った後方病院に後送するためだ」
「なら人員も必要だな! 失神している奴を乗せて飛ぶのは至難の業だ! 予備騎手を叩き起こしてくるぞ!」
「頼む! ソフィア殿、医療物資を後方病院に手配してください!」
「わかりました。手配しましょう」
「助かる。それと私も君も後方病院に行かなければならない。代わりの人員を手筈して――」
「安心してください。必要な物は全て兵站局が用意します」
そう言ってから、私は笑って空を眺めます。
視線の先にあったのは、リリルーカ要塞から飛来した数騎の飛竜。
疑問符を浮かべる治癒魔術師を余所に、飛竜の出迎えをします。その飛竜に乗っていたのは――、
「リリルーカ要塞所属の軍医だ! 支援に来たぞ!」
軍医と、看護師が数名。
さらには緊急用の医療物資が少し。その応援者らの姿を見て、天子族の治癒魔術師は驚愕しました。
「なっ……どうしてここに!?」
「あぁ、『誰か』からの至急の要請があったらしくてな! それよりも治療だ! 急げお前ら!」
「「はい!」」
彼らは素早く動き、ベルガモット陣地の指揮系統の確認をした後に素早く医療任務を引き継ぎました。
もしかしたらこうなるかもしれないと思って「誰か」が呼んだ。
ヘル・アーチェ陛下の移送に取り掛かる前に、治癒魔術師は私に尋ねました。
「……あれは君が?」
「はい。必要なものを必要な場所に届ける――それが、我々の仕事ですから」
それは、彼が言った言葉だ。
自分は陛下を助けない。
陛下を助ける部隊を助けるのが、私、ソフィア・ヴォルフに与えられた仕事であると理解しました。
「ベルガモット陣地からメメント後方病院へ。今からヘル・アーチェ陛下以下親衛隊をそちらに移送します。最優先事項です。治療準備を始めてください! ――はい、お願いします!」
アキラという人間の言葉を、私は理解しました。
某読者「サリンは色々な意味でアウトだから違うと予想」
わたし「サリンでした(テヘペロ」
・人類軍兵器解説
【化学兵器】
汚い流石人類汚い。
歴史は意外と古く、紀元前から地球人類は化学兵器を使っていました。その後地球人類は世界大戦において死者と空薬莢だけが延々と積み上がるだけの塹壕の戦場を見て、この兵器を使用しました。マスタードガスなんかが有名です。
他方、異世界人類軍の場合は魔王を打ち倒すための兵器として開発しました。なにせ魔王は203ミリ徹甲弾を余裕綽々で弾くお方です。これを見た人類軍が「質量兵器では魔王を倒せないのでは」と思うのはごく自然の成り行きでした。そこで開発されたのが化学兵器で殺傷力が高い神経ガス「サリン」こと、「特殊弾」だったのです。




