コレット・アイスバーグ
私の記憶がどこからが正しくて、どこからが間違っているのか。
魔王を知らずして、魔王が自分の弟を殺したという幻影をいつまでも見ていた私に、本当の記憶なんて残っているのかもわからない。
どうやったら私は記憶を取り戻せるのだろう。そんな思いを口にしたら、
「なら、思い出さなくてもいいじゃないですか」
と、肩を竦めてそんなことを言われた。自分の親友だと頑固に主張するソフィアに。
「思い出せないのに思い出そうとするから苦しくなるんです。過去の記憶と向き合え、というのはカッコいいですが、誰もがそれを実行できるわけではないですし」
「……向き合う過去もないしね」
「過去より未来に生きましょう」
彼女はそう言って笑いながら、軍病院のベッドの上で身動きの取れない私の口に無理矢理リンゴを突っ込む。
正直言って、ウザい。
でも彼女が見舞いを終えて帰ろうとするとき、妙な不安感に襲われる。
それを口に出すと面倒なことになるから言わないけれど。
それに、それどころではないのだし。
彼女が帰り、夜になると彼がやってくる。
「……」
「いらっしゃい」
弟。たった一人の、私の家族。
そして私の記憶。偽物か本物かわからない、弟の記憶。
「……」
弟の顔は真っ黒に塗りつぶされている。表情を見ることは出来ない。
「…………毎日ご苦労様」
あの日以降、幻影の弟は喋らなくなった。
ジッとこちらを見つめて、ときどき私の身体を触ろうとする。
ちょっと前なら抵抗したところだが、今は無理だ。
そうやって、慌てず彼の目を見ているうちに、弟のことには慣れていった。
これが当たり前だと、心の余裕を持つと案外何とかなるのかもしれない。
それに今は、私にもお姉ちゃんがいる。それが支えになっていると言われたら、否定は出来ないかも。
弟が現れた時、基本、何もしない。
最初は「何もできない」だったけれど、今は「何もしない」。
時々本を読んで、弟は本が気になるのかにじり寄ってくる。ドキッと驚くこともあるが、それでも私は受け止めている。
「本好きなの、あなた」
「……」
「今日の本は、新しい奴よ。でも趣味じゃない。あいつが持ってきた本だから」
「……」
喋らない。いつも通り。それでも興味津々と近寄ってくる。
「あまりにも面白くないから、次はどんなつまらない本を持ってくるかが最近の楽しみになってる」
「……」
「あんたも考えてみる? 家庭菜園の本を病人に渡す神経してる自称親友のチョイスを」
そうやっているうちに、弟はいつの間にか消えている。
相手は喋らないのだから盛大な独り言にしかならず、ときどき巡回の看護師に不審がられるが知ったことではない。おおよそ人生に関係のない者が抱く私の印象などどうでもいい。
それを毎日、私は繰り返していた。
だけど、今日はちょっと違った。
「……お姉ちゃん」
喋った。
しかも「お姉ちゃん」と言った。
お前が殺したんだと恨み言を発するのではなく、まるで弟みたいに。
「お姉ちゃん」
「……なに?」
「あのね」
幻影は、もじもじとしながら、私に話しかけた。
その言葉はきっと、生涯忘れることのないだろうもの。
「――――――」
気付いたら朝になっていた。窓から差し込む光が妙に眩しい。
「……あまりにもつまらない本だから寝落ちしたのかも」
手元にある、家庭菜園の本を眺める。
その本を見ているうちに、弟の声を、そして、黒に塗りつぶされた表情に色が戻っていく光景を思い出していた。
「…………私も、同じ気持ち。だから心配しないで、ディック」
その日以降、弟が私の下に現れることはなかった。
ディックが消えることが望みだったのに、私の心には、大きな穴が開いてた。
医者の許可を貰って、退院が認められたと同時に、私は憲兵隊に呼ばれた。
審判の時だ。
でもソフィアの上司、即ちあのクソッタレな人間が根回しした結果、私はその判決内容を既に知っている。
「被告人コレット・アイスバーグを、無期限の奉仕活動刑に処す」
魔王軍への無期限奉仕活動。
牢獄の中で一生過ごすよりは少しはマシという刑罰だ。
軍法会議の議場から出て、晴れて囚人となった私を待っていたのは、私の自称親友のソフィア。
「おめでとうございます」
花束を以って出迎えた彼女の顔は、笑顔に満ちていた。
「……嫌味?」
「違います。事実上の無罪放免祝い。そして――」
花束を私に押し付け、それを見ろと言わんばかりに目くばせする。花束の中にはメッセージカードがあって、そこにはこう書かれていた。
『今日があなたの第二の誕生日』
と。
「今日この日、コレット・アイスバーグは生まれ変わりました。過去に縛られるコレットではなく、未来を志向するコレットに」
「……」
何を言っているのか、よくわからない。矛盾点を18個くらい突きつけてやろうと思ったけど、
「……悪い気はしないからやめとく」
「はい?」
文脈を理解できない彼女を放って、囚人に宛がわれた兵舎へと向かう。牢獄よりマシな生活が待っていると思うと、今から楽しみだ。
「お祝いついでに、今からどこか行きませんか、コレット様」
「…………嫌」
「な、何故ですか!?」
「面倒だから」
そんなことより新しい家の方が重要だ。金はまだないから家具も何も変えないし、食糧についても考えなければならない。
こんな自称親友に付き合ってる暇は……、
「…………」
暇は……、
「………………」
…………はぁ。
「……あんたの奢りなら考えてもいい」
「――!」
一瞬で顔が晴れやかになった。
「なら、五番街にいいお店あるんですよ。そこに行きましょう!」
「でも花束家に置いてからね」
「わかりました。あ、なら私も一緒に行っても良いですか? ちょっと興味あるんです」
「別にいいけど、面白いものはない」
「構いません。私、友達の家に行くの初めてなんです!」
「友達じゃないけどね」
「えぇっ!?」
案外喜怒哀楽の激しいやつだ。鬱陶しい上に自称友達だ。
面倒だな……。そう思いつつ、なんだかんだ楽しんでいる私がいる。




