天狗の酒
厨に置かれた瓶子に真っ先に気付いたのは仙太であった。何の気無しに蓋を開けると、ふわりと甘い芳香が立ち上った。誘われるように瓶子を傾け掌に中身を垂らす。
白く濁りのある液体はわずかにとろみがあり、舐めると甘露のごとき甘さが喉を通り胃の腑に滑り落ちる。後に残る甘みもたちまち消えてしつこくない。それだけでこれが上質な酒であることがわかる。
辺りを素早く見回し誰も居ないことを確認すると、盃を取り、一献。先ほどとは比べものにならないほどの香気が口いっぱいに広がるが、後味は決して悪くない。儚く消える甘さを追うように盃を重ねていき、気が付けばさして大きくない瓶子は空になってしまった。
意地汚く瓶子を逆さにして最後の一滴まで呑み尽くす仙太の視界の端で、家主の藤原孝仁が悲鳴に近い声を上げた。
「な、な、なん、何をしてくれたんですか!」
「何じゃ、喧しいの。落ち着け」
ぺろりと瓶子の口を嘗めて呆れたように孝仁を見る。
この孝仁、おっとりした性格でめったに声を荒げることはない。その彼が顔色を無くすとはそうとうなことであるが、仙太はほろ酔いで気が大きくなっているせいかうるさそうに手を振った。
「旨い酒だったぞ。ほれ、次を持って来い」
肴でもよい。この時期の茸は炙ると旨いなぞと笑う仙太に、肩を震わせた孝仁が、
「当然です。大納言様より戴いた最上級の新酒ですよ。滅多に手に入らないものなので小五郎様に差し上げようと思っていたのに……」
地蔵山に住む天狗の名を聞いて、一気に酔いが醒めた。
「な、何じゃと」
「それを何勝手に呑んでいるんですか!」
「そんな事情は知らなかったのじゃ」
言い返すも、語気は弱い。知らなかったからとて許されることではない。小五郎天狗は仙太よりもずっと位が上なのだ。
「ど、どういたそう」
おろおろと見上げてくる仙太に冷たい視線をむけて、
「知りません。もう明日伺いするとお伝えしてあるんですよ」
どうにかして調達してきてくださいとにべもない。
屋敷を追い出された仙太は空の瓶子を腰に提げ、空を飛んでいた。既に陽は暮れ市も店じまいしており、人通りすらない。このまま無為に飛んでいたところで事態が好転するわけもなく、さりとてどうすればよいのか良い知恵も浮かばない。
「そもそも、あやつが厨なぞに置いておくのが悪いのじゃ」
と愚痴をこぼしても、聞いてくれる相手も居ない。がっくりと肩を落とし嘆息する。
「どうしたものかのぅ」
困り果てた仙太の鼻をくすぐる風が甘い艶な香りを運んできた。しばし吟味するように目を閉じて鼻をうごめかせると、表情を明るくした。
まごうことなき酒の香である。
鼻をひくつかせて香りをたどっていくと、一目で上流貴族のものとわかる屋敷に行き当たった。宴でもしているのであろうか、楽の音や笑い声が手前の通りにまで聞こえてくる。
季節柄月見の宴なのだろう。篝火は最低限しかなく容易に忍び込むと、更に香りをたどる。芳香は倉の前に並んだ甕からであった。幸い人影はない。
香気をいっぱいに吸い込み満足気に微笑むと、瓶子に中身を入れようとして手を止める。どうせなら甕ごと持って帰り孝仁を驚かせてやろう。
いたずら心のままに壁際に伏せてあった甕を酒甕のあった場所に置いておき、自分は酒甕を担いで帰路を急いだ。
孝仁が同僚からひとつの噂を聞いたのは地蔵山に行った翌日の朝であった。
「右大臣様の屋敷に物の怪が出たらしいぞ」
二日前のことだ。知己を招いて月見の宴を開くために倉から出した酒が、ひとつの甕だけ水に変わっていたという。
「それはまた、面妖な」
「だろう。それで昨日、陰陽頭が祓いに行かれた。――どうかしたか?」
「え、あ、いえ。別になにも」
首を傾げる同僚に取り繕うような笑みを向けて、
「せっかくの宴が物の怪騒ぎでは、大変でしたでしょうね」
というと、同僚はどうだろうな、と腕を組んで微妙な表情を浮かべた。
「右大臣様はもとより、宴に招かれた貴族連中も揃って物忌みだそうだ。じきに観菊の宴もあるというのに、このままではどうなることか」
物忌みやなんやかやと適当に理由をつけては出仕しない貴族は多い。むしろ貴族の誰かがいたずらをしたのではないか、と苛立たしそうに言う。
否定も肯定もしないよう曖昧に相づちを打つと、相手も気がそがれたのか肩をすくめて先に行ってしまった。悪いことをしたな、とその背を見送りながら思う。もう少し真面目に聞いてやればよかったと嘆息するが、頭の中はそれどころではなかった。
「二日前の夜、か」
ちょうど仙太が酒甕をどこからか持って帰った夜である。あの時は気にしなかったのだがよくよく考えてみれば酒甕が道端に落ちているわけもなく、盗んできたに違いないのだ。
帰ったらそこのところをよくよく聞いてみようと決めて仕事に向かった。
気持ちのよい秋晴れの空に不似合いなくしゃみが響いた。
鼻をすすって仙太は首を傾げる。誰か噂でもしているのだろうか。誰か、というところで思い浮かんだ顔は天敵のもの。慌てて頭を振りそれを追いやるとふいに悪寒がして身震いをする。日当たりの良い屋根の上で寒さを感じることなどない。
「おかしいのう」
と首をひねっているとまた鼻がむずむずしてきてくしゃみを一つ。鰯雲に吸い込まれた。




