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第二話『来訪者』―9


 潤の身体には、騰蛇の血清が打ち込まれている。もうかれこれ、十五年ほど前に。


 自然界に存在する、一般的には『視えない』存在。『妖精』や『精霊』もそれに分類されるが、『聖獣』と呼ばれる通り、騰蛇は大きい。体内に聖獣の遺伝子が結合している者は、潤以外にも存在する。


 先天的なものも、後天的なものも。潤は後者だ。ただし、どちらも能力的な差はない。あるとすれば、それは聖獣自身の能力値と、単純に遺伝子量の差によるもの――とされている。


 事例があまりないので、全員に当てはまるのかは定かではないが、現存している聖獣との融合体は、自然治癒能力が驚異的に高い。これも、聖獣の特性が反映されるのだが。


 潤の中に居る騰蛇は、蛇だ。蛇は脱皮を繰り返す。“再生”の象徴とされる通り、再生能力は高い。破壊されても再生される。もしくは、破壊される前に破壊する。ウイルスや、がん細胞などもそうだ。害があると騰蛇の遺伝子部分が判断すれば、それを破壊する。


 アルコールが急速に分解されるのも、その為だった。

 メラニン色素なども必要以上に増えないため、シミもほくろも出来ない。日焼けもしない。


 血清が完全に潤自身の遺伝子と結合する前に負った傷は治っていない。左目の『人』型の傷もそうだ。

 ともあれ、潤の再生能力は高い。杉山が陶酔しているのは、そこだ。ノコギリで腕を切ろうが、元に戻る。潤にとって不都合なのは、痛覚が一般的な人間と相違ないことだった。


 いくら治るとはいえ、ノコギリで切られるのは――言うまでもないが、とてつもなく痛い。

 しかも、杉山は麻酔などしない。麻酔が効かないわけではない。数は少ないが、潤にも効く麻酔は存在する。だが、それを使わない。

 杉山が潤に対して麻酔を使わないのは、単純な理由だ。『痛がる姿が見たい』。要するに、そういう趣向なのだ。その辺を歩いている人間を連れてきて、麻酔なしでノコギリを使って腕を切ろうものなら、ショック死する者もいる。だが、潤は致命傷となる傷でも死なない。


 実際、五年ほど前に腹を裂いて内臓を引きずり出してみたが、死ななかった。死にそうにはなっていたが、今も生きている。杉山にとっては、生きてさえいれば他の事はどうでも良かった。

 たまたま『嫌な予感がしたから』と駆けつけた、灰色頭のガキに同僚と部下を皆殺しにされ、自身も顔面を裂かれたわけだが。おまけに、一緒に来ていた雅弥からは当時使っていた研究室の閉鎖を言い渡されるし、紫頭のガキには研究データと個人情報を総ざらいされた。


 それでも懲りないのは――つまり、杉山耕市という人間とはそういうものだから、だろう。




 勇志は大きく嘆息すると、かぶりを振った。そして、潤の方へ目を向ける。

 診察台から上体を起こし、複雑な表情をしている。が、苦笑しているようにも見える。

 勇志も苦笑いで返した。


「こりゃ、泰騎先輩と倖魅先輩が怒るわけだ」


 杉山の手首を捻り上げるとノコギリが床に落ちた。白衣のポケットから手錠を取り出すと、杉山の両手を輪にかける。

 杉山が苦虫を噛んで勇志――否、黒髪黒目の『可愛らしい』青年を睨む。

「……何。君、事務所の人間だったの?」

「はい。本名は鈴村(すずむら)尚巳と言います。鳥取支部から来たなんて嘘をついてすみませんでした」

 尚巳は潤に向き直ると、肩をすくめた。


「潤先輩。一週間も留守にしてすみません。社長に『泰騎が、嫌な予感がするー。とか言うから、潤の護衛をして貰いたいんだよねー』と言われまして」


 目からソフトコンタクトレンズを外しながら、尚巳が笑う。


「あ、これ、女子に人気の黒目が大きく見えるコンタクトなんですよー。特注で大きめのを作って貰っちゃいました。凄いですね! 別人みたいに黒目が大きくなって!」


 感動を述べている尚巳の瞳は、いつもどおりの小ささに戻っている。目は大きいのだが、黒目が小さい。三白眼だ。もう『可愛らしい』青年ではない。『どこにでもいる』『普通の』青年だ。だから、彼はここに居る。潜入捜査に最も特化している容姿とは、何においても『平凡』な事だからだ。


「偽名は倖魅先輩が考えたんですよ。『冠地(かんち)(ゆう)()』。『監視中(かんしちゅう)』を捩ったらしくて」


 あの紫頭……、と杉山が渋い顔を作った。杉山にとって厄介なのは、感情に任せて簡潔に切り掛かってくる泰騎よりも、倖魅だ。とにかく、ねちっこい。陰湿だともいう。じわじわと内側から破壊していく、毒のような存在だ。


「で、潤先輩に危害を加えるようなら止めに入るように言われてたんですけど。潤先輩の大切な『体調管理者』を殺すわけにもいかないですし……どうしましょうか」

 尚巳が困り顔で手錠の鎖を握り直した、その刹那――。


 研究室の扉が、爆風で吹き飛んだ。熱風が、三人が居る検査室にまで流れ込んできた。

 尚巳は直感的に後ろへ飛び退き、腰を落とす。先刻まで尚巳が居た場所を、紅い炎がうねるように通過した。風圧で照明が破裂する。


 炎の通り道が無人ならば良かったのだが――逃げ遅れた『潤の大切な体調管理者』は炎に巻かれ、奥の壁に黒い焦げとして貼り付いている。手錠は熔けて変形したまま、壁に貼り付いていた。


 人ひとり消し炭になっているが、気にしてはいられない。反応が遅れていれば、黒い影はふたつ出来ていたのだから。


「この炎……」

 潤が、炎の発生源を振り向く。


 灰色がかった煙の向こうに、人影が見える。子どものように小さい。

 いや。現に、子どもがそこに居た。


「ロックの解除方法が分からないから壊しちゃったよ」

 黒いボウタイに、同じく黒いジャケットとハーフパンツと、白いシャツ。フォーマルな服装の子どもが立っていた。服装からして性別は男なのだろうが、見た目からは判断できない。


 その子どもの姿に、潤が言葉を失った。声を聞いた時に、違和感は覚えていたのだが――。

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