閑話 序3.5話
いつもとは違う感覚にソフィアは顔をしかめながら目を覚ました。
違和感にも近い感覚がソフィアに付きまとっていた。それがなんなのか。寝ぼけた頭で、確かめるまでも無く、ソフィアにはすぐに分かった。
ベッドが違うのだ。ベッドだけじゃなくて部屋も、ソフィアの友とも言っていい、風たちも、何もかも、そこでは違っていた。理由はここがアルビオンではないからだ。
「ヴェリスに来てしまったんですよね……」
ゆっくり呟き、ソフィアは窓の外から日が大分高い事に気付き、ため息を吐く。それだけでここがアルビオンでは無い事がわかる。アルビオンでは長老と呼ばれる人やアルビオンの貴族たちが、星回りやその日の占いで、ソフィアを起こす時間を決める。早い事はあっても遅くなることはないから、こんな時間までソフィアが寝ているなど、アルビオンでは天地がひっくり返ってもありえないのだ。
僅かに残る二度寝をした時の心地よい記憶を思い出し、ソフィアはうつ伏せへと体勢を変え、枕に顔を埋める。
このまま人生初の三度寝をしようかと悩んでいる時、ソフィアの部屋のドアがノックされる。その音で、ソフィアはここが女にとっては一瞬たりとも気を抜いてはいけない魔境である事を思い出す。
そしてそれと同時に、昨日の夜の情けない自分の醜態も思い出してしまう。
自分の事を気にかけてくれた人を魔術で吹き飛ばし、自分の本心を言い当てられ、思わずその人の前で泣いてしまった。ソフィアがこれまで過ごしてきた十七年間の人生の中で、三本の指には入るほどの醜態だった。少なくとも、ソフィアはそう思っていた。
醜態を思い出し、身悶えしつつ、けれど、あの人となら、もしかしたら友人になれるかもしれない。とソフィアは淡い期待を抱いていた。ソフィアにとっては初めての異性の友人になるかもしれない。
だからこそ、昨日の夜、寝る際に、これ以上の醜態は晒すまいと誓ったのに、翌朝には寝坊し、更には三度寝をしようとも考えてしまった自分を、ソフィアは恥じた。恥じた上で、とりあえずドアを叩いた人物に答えた。
「……どなたですか?」
「ユキトです」
「……どなたですか?」
ユキトという名前に聞き覚えがないソフィアはそう返してしまうが、ドアの向こう。昨日の一件で多少は仲良くなれたと思って、意気揚々とソフィアの部屋を訪ねたユキトは、疲れた顔で、両手を両膝につけていた。
ソフィアはユキト、ユキトと呟き、ようやくそれが昨日、自分の話し相手を務め、自分が風の魔術で吹き飛ばし、本心を言い当てられ、目の前で泣くという醜態を晒した人だと気づいた。そう気付いてしまった。
さっと血の気が顔から引くのを、ソフィアは感じた。至上の乙女と呼ばれるのは嫌いだと、鬱々と語り、それ聞いてくれた人の名前を名乗るまで聞こうともせず、しかも翌日には忘れる。
これではとんでもない我が儘な女だと勘違いされてしまう。ソフィアの胸にそんな考えが浮かんだ瞬間、さきほどよりもかなり控えめな音でドアがノックされた。
「……朝食、いえ、もう昼食ですかね。昼食をディオ様が一緒に取りたいと仰ってます……どうなさいますか……?」
沈んだ声を聞いて、ソフィアはドアの向こうでユキトがどんな顔をしているのか、すぐに想像できた。
拙い。そう思い、ベッドから出て、自分が薄い寝巻き一枚だという事に気づき、もう一度、拙いとソフィアは思った。
昨日の夜は暑かった為、つい、薄着で寝てしまったソフィアだったが、こんな格好では部屋から出られない。更にディオが用意した部屋にある大きな鏡に映った自分の姿を見て、三度、拙いと思った。
いつもは流れるような金髪は寝癖であちこちにはねており、寝起きの顔はお世辞にも健康的とは言えず、普段からはかけ離れた姿だった。それでも多くの女性を寄せ付けないほどに美しかったが、残念というべきか、当然と言うべきか、今のソフィアにとって、比べるべきは平時の自分であり、世の数多いる女性たちではない。
太陽のように眩しく、月のように神秘的とは言えない自分の姿を晒してでも、謝罪するべきか。この姿を晒すくらいなら誤解されていた方がマシか。色々と考えを巡らした結果。ソフィアは簡単な事を思いつく。
「しばらくそこで待っていてくれませんか?」
はぁ、構いませんが。という言葉が返ってきた瞬間、ソフィアは急いで着替え始めた。
■■■
ユーレン伯爵の城の近くには広い草原があり、そこでの昼食にソフィアを誘ったディオと、そのディオの付き人として従うユキトは、ウキウキとした様子で昼食の場に居た。
わざわざユキトと他数人で運んだテーブルには美味しそうな食事が並んでおり、見ているだけで空腹になるのではと錯覚しそうなほどだったが、二人がウキウキしているのは別の理由だった。
「ソフィア様はなぜあそこまで綺麗なんだろうね」
「そうですねぇ。なんであんな綺麗なんでしょうね」
年頃の男が二人集まれば、話題など世界が違えど、似たようなものになる。近くにとびっきりの異性がいれば、それこそ一択と言っていいだろう。
「昨日は僕は一目しか見れなかったけど、ユキトは部屋で話をしたんだよね? どんな話をしたんだい?」
「そんなに話してはいないんですよね。何ていうんでしょうか。愚痴を聞いただけな気がします」
「愚痴? どんな?」
「至上の乙女って肩書きと立場で随分気苦労が多いようです。ですから、せめてここに居る間は、そういうのは無しにしたいと思いまして」
「だから外で昼食を取ったらどうだって、僕に提案したんだね? 気が利くね?」
「周りに気を使わずに食事をすることって少ないかな? って思っただけです。せっかく違う国にいるんですから、やっぱり……」
ユキトは少し吹いていた風が止んだことに気づき、そして護衛の大男を連れて歩いてくるソフィアの姿を見て、口を閉じた。これはディオとソフィアの昼食会であり、話を振られれば喋るが、そうでなければユキトは付き人以上の事はしてはいけないと、ディオの付き人たちから言い含められていた。
「ソフィア様。招待に応じて下さり、感謝いたします」
「こちらこそ。招待してくださり光栄です。ディオルード様」
一国の王子らしく、綺麗に一礼してみせたディオに、ソフィアも優雅に礼を返す。
美男美女。そんな言葉がユキトの頭には思い浮かんだが、どうしても釣り合っているようには見えず、すぐに霧散する。ディオは普通に美男子である。ただ単純に、ソフィアが美しすぎて、どうにも釣り合いが取れないのだ。
とはいえ、ディオも女性の扱いはそれなりに手馴れている。ソフィアから良く話題を引き出し、時には自分の話を交えつつ、楽しげに昼食会は終わりを迎えた。
料理を片付け、食後に紅茶に似た飲み物を飲んでいる時、ソフィアは意を決したように、ユキトを見て、そしてすぐにディオへ視線を戻して、告げた。
「明日の朝もユキトに起こして貰いたいのですけれど、よろしいですか?」
瞬間。ユキトは護衛の大男、ラーグに射殺さんばかりの視線と、殺気を叩きつけられ、背筋に寒いものを感じた。
ディオはそれを聞き、一瞬怪訝そうな顔をしたが、冷や汗を流すユキトを横目で見て、これはこれで面白いかと判断し、笑顔で快諾した。
「では、明日からもユキトを向かわせましょう。他に何かご要望はありますか?」
「そうですね……。夜、ユキトを借りても構いませんか? 話し相手として」
「どうぞ。良いよね? ユキト」
拒否権を奪われたユキトは、ディオからは笑顔を、ラーグからは殺気を向けられながら、頷くより他なかった。
■■■
その夜。ソフィアとユキトは別段、盛り上がって喋る訳でもなく、ただ、外の様子を見ながら、時間を過ごしていた。ユキトとしては、幾つか話題を用意してきただけに、拍子抜けも良いところだったのだが、ソフィアが居心地が良さそうにしているのを見て、まぁいいか。と思っていた。
今夜は満月であり、その満月を見ながら、ユキトはソフィアの美しさを満月に例えようとして、失敗した。何も思い浮かばないのだ。
自らの想像力の無さに打ちひしがれながら、ユキトは椅子に座っているソフィアにチラリと見て、苦笑する。
ソフィアはゆらゆらと微かに頭を揺らしながら、今にも寝そうな状態だった。随分と遅くに起きた割には寝るのが早いな。など思いつつ、ユキトはソフィアに声を掛ける。
「ソフィア様。お眠りになられるならベッドで」
「……ん、そうですね……」
椅子から立ち上がったソフィアはおぼつかない足取りでベッドに向かうが、途中、何度か転びそうになり、それをユキトが支え、なんとかベッドに辿り着く。
「……眠いです……」
「見ればわかります。また明日起こしに来ますので、お眠りください」
「……ユキト……私の名前は何ですか……?」
ほぼ寝ぼけたような声で聞かれた質問に、ユキトは困惑しながら、一応、真面目に答える。
「ソフィア・リーズベルク様かと」
「……ソフィアです……ソフィアと呼んでください……様など嫌です……」
そう言われ、ユキトは更に困惑する。絶対に半分寝ているのは間違いない。朝になったら忘れている類の質問である。真面目に答えるだけ無駄な気もしたが、少し潤んだソフィアに見つめられ、ユキトは抗えずにソフィアを、様をつけずに呼んだ。
「では、ソフィアと呼ばせて頂きます」
「……えへへ、やりました……」
何が、やった。なのか、ユキトが聞こうかと思った時にはソフィアは静かな寝息を立てていた。服は白いローブのままなので、このまま放置は拙いのだが、まさかユキトが脱がせる訳にも行かない為、ここから先は城にいる女性の付き人たちの仕事になる。
ユキトは静かに寝息を立てるソフィアの無防備さを見て苦笑し、もう一度、ソフィアの名前を呟いた。
「ソフィア……」
そして名残惜しげに部屋から出たユキトは、どうせ覚えていないんだろうな。と呟きながら、掴んだ一瞬の幸せに心を躍らせていた。それが一瞬では無かったと気づくのは、翌日の朝、顔を真っ赤にしているソフィアを見た時だった。




