第1話 カムラー(前編)
1
美しい景色だ、とバルドは思った。
ここトバクニ山から見下ろす王都の景観は、これまで見たことも想像したこともないものだ。
そもそもこれほどに住居が密集していることが信じられない。
それはこの都に暮らす人の数が多いことを示している。
人の数はすなわち国の力である。
パルザム王国の国力は、辺境育ちの騎士には見当もつかない、すさまじいものなのだ。
テーペータバール・エ・ライヒ。
すなわち、天母神の乳をしぼり固めし都。
その名の通り、トバクニ山からちょうど正面に見える宮城は、ただ皓い。
その巨大さ、荘厳さは、神々の庭の神座をそのまま地上に降ろしたかのようだ。
この地の特産品である白輝石をふんだんに使っているのは、宮城だけではない。
その周囲を取り巻く〈特区〉、すなわち騎士貴族たちの邸宅もまた、多く白輝石を使っている。
だから、〈上街〉、すなわち富裕平民の居住区との境界は、この距離からみると不思議なほどくっきりしている。
平民は建物に白輝石を使うことが許されないからだ。
その一つ一つの建物が、豪壮で手の込んだ作りになっており、辺境では想像もつかないような豊かさがここにあることを示している。
それに比べ、〈上街〉と〈下街〉、すなわち下層平民の居住区との境界はあいまいだ。
同じ〈上街〉でも〈特区〉に近いほど家は立派で、〈下街〉に接する地域の住民はほとんど下層平民と変わらない。
ちゃぷり。
バルドは湯を右手ですくって左肩に掛けた。
目を閉じて天を仰ぎ、心地よさを満喫する。
尻と背中に感じる乳練石の肌触りが心地よい。
「そろそろ、肌が湯になじみ、血のめぐりも落ち着いてきたようですな。
それでは、酒と食べ物を運ばせましょう」
バリ・トード上級司祭は、そう言うと、下僕に目線で指示を与えた。
この人物を接待役に選んだウェンデルラント王には感謝せねばならない、とバルドは思った。
バルド・ローエンは、ここよりはるか東方の辺境で、〈大障壁〉の裂け目から侵入する魔獣を討つことに一生を捧げてきた騎士である。
窮地に落ちた主家の助けになればと、すべての財産を返上して放浪の旅に出た。
死に場所を探すはずの旅は、生きる力をこの老騎士に与えた。
それだけではない。
新たな剣を、馬を、友を、家族を、そしていくたの人々との交わりを与えてくれた。
傷だらけの体は、温泉の熱気に上気し、温かく色づいている。
バルドの目の前に、板きれに乗ったゴブレットが差し出された。
バルドがそれを取ると、左隣で湯につかっているバリ・トード上級司祭が、
「本当はおつぎせねばならんのですがな。
略式でお許しください」
と、人なつっこい笑顔を見せて言った。
上級司祭が差し出したゴブレットに自分のそれを軽く合わせると、にぶい金属音が響いた。
赤ワインを冷水で割ったものである。
軽く一口味わうつもりだったが、あまりの心地よさに、ごくごくと飲み干してしまった。
下僕がすかさず板を差し出したので、それにゴブレットを乗せた。
下僕は、壺からワインを注ぐと、板に乗せてちょうど取りやすい位置に差し出した。
その手際のよさが、バルドの機嫌をさらによくした。
今は七月だから、バルドがテルシア家に致仕を願い出て旅に出てから、ちょうど二年が過ぎた計算になる。
それから二か月ほどしてバリ・トードと会ったのだから、この聖職者との付き合いは二年に満たない。
しかも顔を合わせていたのは合わせても数日間にすぎない。
それなのに、この人物は年来の旧友のように感じられた。
相手もそう思ってくれていることが感じられ、それがうれしかった。
明日はいよいよウェンデルラント王に謁見する日だ。
相手がバルドにどんな用事があって呼びつけたかはしらないが、バルドのほうでも王にぜひに言いたいこと、訊きたいことがあった。
待っておれよ、王よ。
バルドはぶるると身震いした。
「いやいや。
それにしてもまさか、あのジュルチャガがローエン卿に召し抱えられるとは。
こんなおもしろい話は、とんと聞いたこともありませんな」
バリ・トードがそう言うのも無理はない。
まだ平の司祭にすぎず、枢密顧問の要職にも就いていなかった二年前、バリ・トードは勅使として大陸東部辺境に赴いた。
病を得て死にかけたバリ・トードに薬を与え看病して命を助けたのがバルドであった。
翌日、勅使一行の宿に賊が侵入した。
しびれ薬を盛り、金目の物を盗み去ろうとしたのだが、バルドに捕らえられてしまった。
その賊こそ、当時その地域で名の売れ始めた〈腐肉あさり〉のジュルチャガだったのである。
そのとき村役に突き出されたジュルチャガが、ひと月後にはバルドの指示を受けて走り回っていた。
バリ・トードは不思議に思いながらも、バルドに首根っこを押さえられて言うことを聞いているのだろうとしか思わなかった。
だから、バルドがパルザム王国に入国したとき、ジュルチャガが供をしているのを知って、ひどく驚いた。
ジュルチャガが一時はコエンデラ家に雇われバルドの敵となり、次に味方となったいきさつと、その後ともにした冒険の数々を聞いて、さらに驚いた。
ジュルチャガがドリアテッサに同行してゴリオラ皇国の皇都に行き、なんと皇王その人に面謁し、準貴族の身分を与えられたと聞いて、のけぞらんばかりに驚いた。
ジュルチャガは自分を下人として扱うようバリ・トードに頼み込んだ。
バリ・トードはいたずらっ子そのものの顔でこれを了承した。
以来毎日ジュルチャガは、薄汚い身なりでパルザムの王都をうろついている。
トード家に帰って来ないこともある。
バルドの宿舎に指定されたのはトード家である。
バリ・トード上級司祭の本当の名は、バリアンクィズィガル・トードという。
トード家の長子であったが、弟に家督を譲り神への奉仕に身を捧げた。
格式の高い貴族家の子弟であるから〈特区〉の神殿に役職をもらえたのだが、あえて〈下街〉の神殿に入り、孤児院を営んだ。
このトバクニ山はその全体が温泉である。
そこここに湯が湧き出し、乳白色の岩肌を流れてゆく。
くぼみには湯がたまり、あふれては下のくぼみに流れていく。
なぜかその湯は青色をしている。
貴族なら誰でも無料で使える温泉山なのである。
今バルドとバリ・トードについている八人もの下僕は、みなバリ・トードの孤児院出身者だ。
最有力にして最高待遇の就職先らしい。
二人がつかっているくぼみは、山頂近くの最高の位置にある。
「こんなときでもなければ枢密顧問の特権を使うこともありませんからな」
と、バリ・トードは笑っていた。
馬はふもとに預け、車輪つきの輿でここまで登った。
バルドは自分の足で登ると言ったのだが、バリ・トードは柔らかく首を横に振った。
そうか。
この者たちに仕事をさせねばのう。
働かずに得た金は、ほどこしと変わらん。
ほどこしで生きれば誇りを持てん。
うむ。
バリ・トード殿は、まことに優しい。
二杯目のワインを飲み干したとき、板きれが差し出された。
その上には皿が乗っており、皿には肉と野菜が盛られていた。
トード家から持って来た料理だ。
左をうかがうと、バリ・トード上級司祭は料理を手づかみで食べていた。
それにならって、手で肉をつまんだ。
むむ!
むむ!
カムラーめ。
妙な味付けであったら、必ず文句を言ってやる。
バルドは敵対心いっぱいで、肉片を舌に乗せた。
うおおおおおおお!
何たるうまさか。
これは牛の肉だ。
生に見えるが、生ではない。
カムラーは、そんな物をわざわざ弁当にしたりしない。
部位はおそらく背骨の脇だ。
だが、この味は。
しばらく噛みしめて奥深い味を楽しんでいるうちに、かすかな煙臭を感じた。
それでこの料理の正体に見当がついた。
背骨の脇の肉を丸ごと燻製して、そのまん中の赤い部分だけを切り出したのだ。
悔しいが、うまいと思わずにはいられない。
汚れた指をどうしようかと思ったが、バリ・トードがあふれだす湯で指をすすいでいるのを見て、同じようにした。
2
カムラーは、トード家の料理人である。
貴族たちにとり、晩餐とは外交の戦場にも斉しい。
他家とのやり取りで優位に立ち、利益と名誉を確保するには、料理と酒の質こそ重要なのだ。
貴族家の料理人頭は、その外交の戦場における将軍といってよい。
戦場で必ず勝てる将軍が君公にとって至宝であるのと同様、腕のよい料理人頭はまことに得難い存在なのだ。
ただし、名将が人格者であるとは限らない。
カムラーとは初めからそりが合わなかった。
当家の料理人頭は名人であるから、どんな料理でもお申し付けいただければお出しできる、とトード家の当主に言われ、バルドは、ならばコルコルドゥルの生卵を掛けて混ぜた炊きプランが食べたい、と言った。
しばらくすると、料理人頭であるカムラー自らが晩餐室に姿を現した。
その物言いは、ごく上品で丁寧だった。
言い換えれば、もって回った言い回しであり、慇懃無礼そのものだった。
要約すれば、こうなる。
コルコルドゥルの卵はまことに素晴らしい食材だが、生で食べたりすればどんな病気になるか分からない。
そもそも鳥の卵を生で食べるのはけだもののすることであり、人間の、まして騎士のすることではない。
プランを水で炊いて食べるのは野蛮人のやり方なので、そんなものを食べることをおおっぴらに口にしてはいけない。
バルドはむかっとして、食べたい料理を訊かれたから答えたまでのことだが、当家ではわしの好みに合う料理は作れないということか、と言った。
これはトード家の当主には相当に礼を欠いた言葉であったが、料理人頭のこんな無礼を許している当主こそ失礼である、とバルドは思っていた。
カムラーは、薄笑いを浮かべながら、こう答えた。
「まさか、まさか。
当家に用意できぬ食材などございません。
また、人間のわざで作れる料理でわたくしめに作れぬ料理があるとは思えませぬ。
お客様のご要望をお聞きして、その意をじゅうぶんにくみ取らしていただきまして、最高のおもてなしをご用意いたしますのが、あるじより言いつかっております職分にございますれば、その趣意をご説明申し上げたまでにござります」
そう言ってカムラーは厨に下がった。
ほどなく料理が出た。
まずは二皿。
ひどく気取った皿に、ちょこんと料理が乗せられている。
一つは卵料理だ。
火を通してかき混ぜてある。
だが、これは。
銀のスプーンですくった。
まちがいない。
刻んだマガリダケが混ぜられている。
匂いのよさに思わず口に運んだ。
うまい!
何といううまさか。
しかも、卵は、ある部分は火が通り、ある部分は生に近く、じつに複雑で楽しい。
火の通った部分も、まったく硬くない。
不思議なほどふわふわして、しかも香ばしい。
ああ、しかも。
何という甘さ。
何とう芳醇な香り。
コルコルドゥルの卵がこれほどの甘い香気を放つとは知らなかった。
それはこの卵を焼くとき、極めて上質なブイユ・ウー、つまり牛の乳から取った油を使っているからなのだが、それにしても火加減が絶妙だ。
それにしても不思議だ。
ロードヴァン城からここに来るまでの道中で、コルコルドゥルの卵をブイユ・ウーで焼いた料理は何度も食べた。
中原の貴族にはごくなじみの深い料理であるらしい。
コルコルドゥルの卵というのは非常に匂いにデリケートな食材だということをバルドは知った。
他の食材の匂いがすぐに移ってしまうのである。
マガリダケのような癖の強いきのこを混ぜたら嫌な匂いが移ってしまいそうなものなのに、全然それがない。
マガリダケをかみしめて、その理由が分かった。
マガリダケを先にさっと炒めて、香りを封じ込めてあるのだ。
マガリダケはしゃきっとして、少しもその風味を失っていない。
それなのに混ぜ込んである卵は、卵そのものである。
悔しいが、見事な手際というほかない。
憎たらしいことに、隣の皿には炊きプランが乗っている。
炊きプランは野蛮人の食い物だとぬかしておったくせに、と腹を立てながら、ひと匙口に運んだ。
何だ、これは?
炊きプランにつきものの水っぽさがない。
ぱりぱりで、ぷりぷりで、しこしこで、一粒一粒がしっかりしている。
何たる歯ごたえ。
染みだしてくる味の、何たる甘美。
これは。
これは。
炊きプランでは、ない。
しかも肉など一片も入っていないのに、炙った肉の風味がある。
知りたい。
料理法を知りたい。
カムラーに訊くか。
いや。
いや、いや、いや、いや。
やつに頭を下げて教えを請うなど、とんでもない。
わしの舌でこの料理の秘密を解き明かすまでよ。
見ておれ、カムラー。
だが、バルドの舌は、バルドが期待するほどの性能を持たなかった。
結局調理法は分からないままだったのである。
だが、心配は要らなかった。
料理が進んだあと、カムラーのほうから説明に来たのだ。
あちらから説明したいというなら聞いてやるぐらいの度量はあるわい、と思いながら説明に耳を傾けた。
プランは炊いたのでなく、焼いたのであるという。
焼き鍋に牛乳油を入れて温め、生のプランを入れる。
焦がさないように気を付けながらかき回し続ける。
何度かに分けて、熱で泡立てた牛乳油を注いでゆく。
別の焼き鍋にたっぷりのキユプ油を入れて熱する。
そこに牛のあばら肉を燻製してその外側をこそぎ取ったものをさっと入れて香りを移し取る。
肉は引き上げてしまい、先に作り始めた焼きプランの半分を、この鍋に移してしっかり香りを付ける。
最後に二つの鍋のプランを手早くかき混ぜる。
こうしてあの単純にして複雑な焼きプランが完成したのである。
これを卵のマガリダケあえと一緒に食べたうまさは格別だった。
つまりこれは結局のところ卵掛けプランの一種といえなくない。
そのあとの何皿かの料理も、ことごとく絶品だった。
そして知ったのは、カムラーが牛乳油の使い方が実に巧みだということだ。
その牛乳油は特別なものだ。
カムラーが選んだ牛に、ある決まった草だけを食べさせるのだという。
しかも料理により牛乳油の作り加減を変えているらしい。
しかし最も驚くべき品は、最後にやってきた。
料理が終わったので、締めの氷菓をお持ちしました、とカムラーが言った。
氷菓などという言葉は聞いたこともない。
ひどく小さな皿にちょこんと小さな饅頭のようなものが乗っている。
添えられた小さなスプーンでそれをすくって口に入れたときの衝撃を、バルドは一生忘れないだろう。
その料理は文字通り、氷、だったのだ。
この真夏にである。
ただの氷ではない。
いくつかの果物のうまさを持つ雪のような氷を錬り固めた、天上の甘露だったのだ。
そのひんやりとした至上の美味が口の中で溶け、喉の中を滑り落ちていくときの喜びは、これまで知っていた何にも似ていない。
バルドは思わず泣きそうになった。
自分の知らなかったこんなうまさが、ここにある。
この世には、まだまだ自分の知らないうまい物があるに違いない。
世界の広さを知った喜びで胸がいっぱいになった。
呆然としているバルドの顔を見て、いやらしい笑いを浮かべ、カムラーは礼をして下がった。
これがバルドがトード家に滞在した最初の夜の出来事である。
この日から、バルドとカムラーの闘いが始まった。
戦績は、バルドの全戦全敗である。
三日目の夜にはこんなやり取りがあった。
バルドは、料理の説明に出てきたカムラーにこう言ったのである。
この家の料理はどれもうまいが、パンだけはそうでもないと。
ロードヴァン城を出ていくつもの国を通り数々の屋敷に宿を借りたが、どのパンも非常に美味だった。
それに比べれば、トード家のパンは少し落ちる気がしたのである。
カムラーは、子どもに教え諭すような調子で、こう言った。
「バルド・ローエン様。
おいしいパンなど、いくらでも作れます。
しかし、料理の添え物にするパンは、おいしすぎてはいけないのです。
よろしいですかな。
先ほどの肉料理は非常に味の強い肉であり、それに負けない強いソースを掛けて召し上がっていただきました。
あの肉とソースの味に勝つようなパンをお出ししたら、肉の味はぼやけてしまうでしょう。
それはよいパンとはいえないのです。
しからば、よいパンとは、どういうパンか。
いかに癖のある魚や、強い味付けの肉を食べても、そのパンを一切れ食しただけで、口の中がきれいに洗い清められ、舌は敏感さを取り戻し、次の一口が新鮮そのものの味となる。
それこそがよいパンなのでございます。
それだけではありませぬ。
食材から出た汁をそのパンに付けて食べれば、その食材の本当のおいしさを味わうことができる。
食材を邪魔せず殺さず、ひき立て、引き出し、最高の味を発揮させる。
それこそがよいパンなのでございます。
剣と盾では役が違いましょう。
晩餐のパンのうまみが足りないとおっしゃるのは、盾の切れ味が悪いとおっしゃるのも同じにございます。
よそでおっしゃれば子どもに笑われますので、あなたさまの名誉のため敢えて申し上げる次第にございます。
もっとも、まだまだわたくしめも修行の途中でございまして、ガルデガット・ライエンで神々が食されるようなパンには及びもつきませんでしょう。
お気に召しませぬ点は、どうかご寛容をもってお許しくださいませ」
へりくだっているようで、全然へりくだっていない。
天上のパンには及ばないかもしれないということは、地上にはこれ以上のパンはないと言っているのも同然である。
しかし振り返ってみれば確かにカムラーのパンは、そういうパンである。
この場はカムラーの勝ちというしかない。
しかも腹立たしいことに、このカムラーの教えのおかげで、次の日からより深く食事を味わうことができるようになってしまったのである。
4月4日「カムラー(後編)」に続く




