旦那様から離縁の申し出です
エメレット伯爵邸は暗い雰囲気に包まれている。数年ぶりに帰郷した主人のカシウスは自らの不貞を疑われていた事に大層ご立腹で、忽然と姿を消した精霊の子供に文句をつけるべく、森にまで彼女を追いかけていった。
けれど、収穫はなかったようだ。
「……精霊は見つからなかったよ」
「そうですか……」
書斎に戻ったカシウスから報告を聞き、もう二度とノエルに会う事ができないのだろうか、と思った。騙されていたのだと知ったところで、今更、嫌いになれる訳なんてない。
「ごめんなさい。私が勘違いしたから、誰も何も言えなかったの。悪いのは全て私です。どうか、皆を責めないでください」
頭を下げると、カシウスの手が私の肩まで伸ばされた気配を感じた。けれどその手は私に触れられることはなかった。
彼はこんな時でさえ、私を壊れ物のように扱う。
「……顔を上げてください、アリエノール。あなたが謝罪する必要はない。エメレットを思ってくれての行動でしょう」
「ええ……」
エメレットのため。たしかに私はそう言った。けれどそれは本心だっただろうか? これで私も一人前の女で、本当の妻になれる──そんな打算がなかったと言いきれるだろうか?
「誤解するのも仕方がない。何しろあのノエルと名乗った精霊は薄気味悪い程に俺と似ていました。事情を知らない人間から見れば縁者だと思うのは自然。……こちらこそ、申し訳ない。かっとなってしまった」
カシウスは書斎の本棚に残っていた『エメレットのれきし』を見付けてため息をついた。ノエルのために用意されたものはすべてノエルの部屋だった場所に押し込まれて痕跡を抹消されているけれど、ここに一冊だけ残っていたのだった。
「あなたが幸せなら、別に誰がこの屋敷に居ようとかまわない。それこそ、あなたがたとえ他の男との子供を宿していたとしてもね。俺は喜んでそれを受け入れるだろう」
私がそんな不埒な事をする訳がない。と言いかけて、私は彼に同じ言葉をぶつけたのだと理解した。
「しかしあれは魔性のもの。神聖な森の中では人間との距離は適切に保たれるが、あの精霊は森から出て、あなたの魔力を吸い取って、形を得て、まるで人間のように飽食を貪っていた。……体にどのような影響があるのかはわからないし、何より彼女を当家の跡取りにする事は現実的ではない」
「そう……そうよ、ね」
「体調が良かったのは精霊が魔力を吸っていたからでしょう。その点では、不幸中の幸いと言うべきか……良かった点もありました。けれど、もう姿を現す事はないでしょう。森に影響はなく、今後エメレットに害をなす事はないだろうが、向こうも用心するだろうから」
カシウスの言葉に私は自分で想像した以上に落胆を感じた。まるで心にぽっかりと穴が空いたみたいだ。
「ええ……そうでしょうね」
頑張ったつもりだったが、喉からは予想以上に落胆した声が出た。
「アリエノール。あなたはいつも悲しんでばかりで……怒りはないのですか」
「……怒り?」
「騙されたことに怒りを感じないのですか? ノエル……と、今日まで不貞を働いていた扱いだった俺に対しても」
カシウスは怒るでも呆れるでもなく、静かな瞳で私を見つめていた。
「衝撃は受けました。でも……それよりも、子供がいたら、きっとこんなふうなのね、って。そう思えたから……。あなたが笑ったところを、ほとんど見た事がなくて……なんだか、子供時代をやり直しているようで嬉しくなってしまって。それで私……変だってレイナルトが言うのを無視して、あの子にすがったの。ごめんなさい」
楽しい夢は終わってしまった。驚いて怖い思いをしたノエルはもう私の前に姿を現してはくれないだろう。嘘でもいいから、戻ってきて三人で暮らしたい、だなんて思っているのは私のわがままだ。
自分の情けなさに、ほとほと呆れてしまう。
カシウスはどっかりとソファーに沈み込み、深いため息をついた。
「……そうですか。でも……アリエノール、あなたは……俺が不貞をして、その後始末を妻にやらせるような男でも構わなかったと言うのですか、それでも子供がいた方が良いと?」
「……そうだったら、よいと思ったのよ」
自分は何もしてあげられないから、誰かの産んだ子供にすがってでも、心の安寧が欲しかった。何もしてあげられなかった夫のかわりにあの子を可愛がることで、失った時間も、得られなかったものすべてを取り戻せそうな気がしてきた。
カシウスが不実で不真面目な男性であれば、いつも思い詰めたような、責任に押しつぶされそうな表情を見なくてすむ。
そのぐらいひどい人であれば、私だって、こんなに彼を残して逝くことに後ろ髪をひかれる事も無かったのに。
カシウスは誠実な人だ。生きる事、領地を守ることに必死で、早く大人になろうと頑張っていたのに、私はそれを誰よりも理解してあげなければいけなかったのに、自分の欲求を優先して、彼の誇りを傷つけたのだ。
……本当に、ひどい女だ。妻としてふさわしいとはとても言えない。
「……そう……ですか。確かにその方が、離縁の言い訳にはなりますね」
「離縁……」
その言葉を私に向けて色々な人が口にした。けれどこれは王家が定めた婚姻だから、私と夫であるカシウスが納得していれば他に誰が口を挟む必要もない……そう、思っていた。
けれど今日初めて、カシウスが離縁という言葉を口にした。
「アリエノール。もう夫婦の時間は終わりです」
カシウスは立ち上がり、机からひときれの書類を取り出した。──離縁状だ。すでに片方、夫の欄の記入は終わっている。
「アリエノール。あなたはカシウス・ディ・エメレットと離縁し、ふたたび王女となる」
「王女に……」
カシウスの言葉がひどく非現実的なものに聞こえた。私はもう、王女でいるよりエメレット伯爵夫人として過ごした時期の方が長いのだ。
「地霊契祭がまもなくでしょう。国王陛下はアリエノール姫が巫女として公の場に立つのをお望みだ。……そして華々しく、ふさわしい相手と結婚して真の花嫁となることもね」
カシウスの表情が、一瞬、苦悶に歪んだように見えた。
「嫌よ。……私には……」
「アリエノール。貴女が感傷的なのは自分に余命がないと思っているからだ。自分には女としての価値がないから、どんな目に合っても構わないと卑屈になっている。……これでも、あなたの性格は分かっているつもりだ」
「そんなの……だって、仕方がないじゃない……」
私には定められた役割しかないのだ。それを失って、これから一体どうすればいいと言うのか。カシウスは私がわかると言うけれど、私には彼がわからない。彼の喜ぶことをしてあげたかったのに、私は彼の尊厳を傷つけて、なにもできないでいる。
「せめて、最後までここにいさせて」
「ご心配には及ばない。外遊のさいに、腕のいい医師を連れて帰ってきました。王城に控えています。……この領地で静養している間にも医療は発展した。あなたは二十歳を越えても生きられる」
「……え?」
「あなたのおかげでエメレット領は生きながらえた。そろそろ、お互いに自立の時です。……今まで、ありがとう」
カシウスは私の手に無理やり離縁状を握らせた。
「さようならアリエノール、我が妻よ。願わくは、あなたの未来が満ち足りたものであるように」




