10
「タチアナ、帰ってきてくれ、私が悪かった!」
ノックもなしに、いきなり大きな男が汚い恰好で二人のいた居間に、飛び込んできたのだ。
エプロンにはべっとりと茶色いシミがついているし、爪は真っ黒。そして焙きたてコーヒーの良い香りがした。
ぎょっとしているミシェルとカロンだが、カロンに抱っこされていた赤ん坊は、大喜びで笑って、ひょこひょこと大男の所に歩んでゆく。
「あなた!」
汚い恰好の大男と、ファブリジェ女史は、びっくりして固まっている二人を横に、ひしと抱きしめあっているではないか。
「ごめんなタチアナ、俺の稼ぎが悪いから、お前に苦労をさせて」
「あなたごめんなさい、私が上手に家の事ができないから、辛い思いをさせて」
二人とも、えぐえぐと泣いて、お互いの肩で涙を拭っている。
「もっと俺が頑張って稼いで、タチアナが仕事しなくてもいいように頑張るよ。だから、帰ってきてくれ」
この香りから察するに、大きな男は、おそらくはファブリジェ女史の夫なのだろう。
男の後ろに、ダンテがいたずらっぽい顔をして、ペロりと舌を出しているのが見えた。
(なるほど、さっき台所に立ったとおもったけど、この男を迎えにいってたのね)
ダンテは領民思いというか、領民の事をよく知っている。
おそらくファブリジェ女史の夫の事も、どこに住んでいるかも知っていて、しれっと、先ほど誰にも告げずに呼びに行っていたのだろう。
「家に帰ったらもぬけの殻で、暖炉の火もついたまんまで戸はあきっぱなしで、物取りにでも襲われたかと思った。それで気が付いたんだ。タチアナと、子供達のいない毎日なんか、俺は耐えられないよ」
(おいおい、火つけたままで家でちゃったのかよ!)
というミシェルの心の叫びはおいておいて、どうやら二人とも深く愛し合っている様子だ。
「大丈夫よ、あなた。ちょっとした行き違いよ。私も子供達も、貴方をおいてどこにもいかないわ、少しダンテ様のお屋敷で、ミシェルさんとお話していただけよ」
そういって、ファブリジェ女史はミシェルの方をみた。
「ほ・・本当か?何処にも行かずに、俺の所にずっと、居てくれるのか?」
「ええ本当よ!」
男はえぐえぐと、男泣きに泣きながら続けた。
「タチアナ、俺どんなにつらくても、仕事もっと頑張るし、タチアナが苦手の分だけ、家の事もがんばる。だから、どこにもいかないでくれ。愛してるんだ」
(なんっていい男)
男泣きする女史の夫のセリフに重症の恋愛脳のミシェルは思わず感動してもらい泣きだが、その言葉を聞いて、ファブリジェ女史は、す、と急に正気に戻ったらしい。
先ほどまでの子育てに悩むポンコツ主婦とは全く違った顔の、誇り高い職業人である、ファブリジェ女史の顔をした女性が、そこに佇んでいた。
「ね、その事なんだけど」
おそらく、この女の仕事人としてのきちんとした顔を、この男は知らないのだろう。
今度は男がぎょっとして、涙を拭いて驚きを隠せない顔で、妻であるはずの、女の顔をみた。
「さっき、ミシェルさんに相談したの」
さっきまでえぐえぐと泣いていたのがウソのように、冷静で、自信にみちた顔だ。
可愛いポンコツ主婦、タチアナでなく、宝飾史に名を刻む誇り高きファブリジェ女史の顔だ。
「役割を交換しましょ?私が貴方を養うわ。貴方は私の背中を守って頂戴。私、仕事がしたいの」




