8
春の陽気は眠気を誘う。
初めての日本風のお弁当を楽しんで、お腹いっぱいになったダンテは珍しい事に、昼寝をはじめたらしい。
芝生の上で、静かな寝息をたてるダンテの髪に、遠慮がちに紫色の花びらがひらひらと舞い落ちる。
(美しい男ね・・本当に、憎たらしいくらい)
舞い落ちる花ですら、ダンテの美貌の前に色あせる。
ダンテほどの完璧な造形の顔はミシェルの人生で、お目にかかったことはない。
その神がかった紫色の瞳が閉じられてしまっているのは残念だが、瞳を覆うその銀のまつ毛の、実に長く、実に美しい事。そのまつ毛の描く曲線はまるで、年の若い月の弧の様だ。
いつも顔を合わせると喧嘩ばかりで、あまりこうマジマジとこの美しい顔を見つめる事はないのだが、このチャンスとばかりに、ミシェルは不躾な視線をあびせる。
相当疲れているらしい。
よく見ると、青いクマが目の下にきざまれおり、少し頬がこけたようにも見える。
「珍しいわね、ダンテが無防備に寝てる所なんてはじめてみたわ」
カロンが、準備よく持ってきた、軽い毛布をダンテにかけている所に、ミシェルは声をかけた。
ダンテはあれでも基本的に思慮深い性格らしく、あまり不用心な所は、見たことはないのだ。
「そうだね、ダンテ様最近あまり外にも出かけていないし、研究できちんと睡眠を取っていなかったから、いい機会だったよ。いい外出をありがとうミシェル」
カロンは、にっこりと、そうほほ笑みを返してくれた。
あれ?そうなの?
どうもひっかかる。
「研究で寝てないの?召喚の研究がやりなおしになったから?でも、魔力が溜まるまでしばらく時間がかかるって、いってなかったけ」
人を一人、異世界から呼んでくるのに必要な魔力は相当なものらしい。ダンテは3年かかって、魔術に必要な魔力をようやく溜めたとか、そんな事をいっていた。なら、今睡眠を惜しんで研究したって、あと3年はどうせ魔力が足らないはずだが。
「・・ミシェル、ダンテ様の今の研究は、ベアトリーチェ様の召喚ではないよ。君を元の世界に送り返す方法を、模索しているんだよ」
「え?ベアトリーチェ様を、呼ぶ研究じゃないの?」
ミシェルは驚いて、デザートのゼリーを芝生に落としてしまった。
ダンテは、毎日うざったいほど、あんなにいつもベアトリーチェに会いたいと、ベソベソしているのだ。一度くらい、魔術の失敗で別人が召喚されてしまったからといって、あきらめるようなタマとは、到底思えない。
「ミシェル、ダンテ様は私が心から尊敬する、高潔で立派な魂をお持ちの方なんだよ。ミシェルの前のダンテ様のような振る舞いは、本当にめずらしいんだ」
そう前置きをすると、カロンはつぶやいた。
「ミシェル、信じてはもらえないかもしれないけれど、ダンテ様は無関係のミシェルをこの世界に呼んでしまい、生と死のはざまのリンボの状態に置いてしまった事に、心から悔いておられるんだ。なんとしてでもミシェルを元の世界に戻すために、朝も夜もなく、研究を重ねておられる。そして、君を無事に元の世界に送り届けた後、ご自身への戒めとして、身分を放棄され、財産も処分される」
「え・・・」
いつもミシェルの顔をみたら憎まれ口をたたいているダンテが、そんなに苦しんでいたとは。
「えっと、でも、ベアトリーチェ様は?召喚の術式までは作れたのよね、あともう少しじゃない」
今回は失敗して、ミシェルを呼んじゃったけど、あと何回か試してみれば、本当にもう少しで、この男の焦がれてやまないお人に、手が届くのかもしれないのだ。財産など処分している場合ではない。
「ミシェルを元の世界に送り返す方が、当然先だよ。それは、私がダンテ様でもそうするよ。ましてダンテ様ご本人なら」
そうカロンは固い顔をした。
ミシェルは、震える声をしぼりだして、言った
「元の世界に戻る方法はない、って、ダンテ言ってたわ」
「だから、人生をかけて、探すしかないんだよ。それは、君を巻き込んだ、ダンテ様の責任だ」
「ちょっと!ベアトリーチェ様はどうなるのよ!」
思わずミシェルは立ち上がる。
おどろいたかの様に、ひらひらと、音もなく美しい紫の花びらが、ミシェルの肩に、降ってきた。
カロンは曖昧に少しほほ笑むと、ミシェルに何も言葉を返さなかった。
(人生をかけて、まず私を送り返す方法を、探さざるを、得ないのね。人として、魔術師として)
あともう少しで、手が届くのに。
焦がれてやまない、ベアトリーチェ様に、会えるかもしれないのに。
(生意気で、食意地の張った、醜いミシェルなんかを、呼んでしまったから)
ミシェルは、みじめで、くやしくて、それから無性に腹が立ってきた。
ひらひらと落ちてくる、薄紫色の花びらで、銀の髪をかざられた目の前の美しい男は、まだ深い眠りの、夢の世界にいる様子。
夢の中でもベアトリーチェを思っているらしい。
何か音の出ないうわごとを言って、目のはしに、少し涙が溜まっていた。
(なによ。どこに行っても、私は責任をとられて、何かをあきらめさせる、そんな存在なの?)
母の妹である責任をとった、正しいおばさんは、未知得なんかを引き取らなくてはいけない羽目になった。
間違いで呼んでしまった責任をとって、人として正しいダンテは、愛おしい人を呼ぶ研究ではなく、ミシェルなんかを、元の世界に送り届ける研究を、優先せざるを得なくなった。
アケロン川の方向から、春の温かい風が吹いている。
風は、どこに吹いてゆくのだろう。
ミシェルは、行き場のない怒りと悲しみで、途方にくれていた。




