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ミシェルの両目には、涙が浮かんでくる。
(行かないで、お父さん、お母さん。未知得も一緒につれていって)
ミシェルの遠い夢の記憶。
あの日ミシェルの夢に現れた、青く白く光る二人は、一週間前に災害で亡くなった父母だと幼い未知得はそれでも本能的に知っていた。
肉体を失って光そのものになった二人は、優しく微笑んでいた。
未知得は必死で叫ぶ。
(いやだ、いやだ。置いていかないで、未知得も一緒に連れて行って)
青く白く光る二人は手をとりあって、微笑んで、そして未知得の頭を優しくなでて、だが未知得の言っている事などなにも聞こえない様に、幸せそうに二人手をとりあったまま、未知得を置いて遠い所に去っていったのだ。
目の前の青白い人と、遠い夢に現れたあの青白く光る人が重なってみえる。
青白い光はじっとアフロディーテを優しい目で見つめていた。
そして、ゆっくり、ゆっくりと手招きをしていた。
ミシェルは青白い光の女の方とパチリと目があった。
女は目からまばゆい閃光を放って、一瞬でミシェルの目の前が閃光で真っ暗になる。
おそるおそるミシェルが目を開くと、アフロディーテの後ろの黒い禍々しい渦も、青白い光の人も消えて、ただ心配そうにミシェルを覗き込むアフロディーテの可愛らしい顔があった。
「あの、ミシェルさん大丈夫?」
アフロディーテはあわてて美しいハンカチを差し出して、そっとミシェルの瞳から流れるものを拭ってくれた。
どうやら泣いていたらしい。
「・・えっと、すみません、急に泣いてしまったみたいで、失礼しました!」
人前で泣くような事に慣れないミシェルは、恐縮してしまってアフロディーテが貸してくれたハンカチをつかんで、涙をぬぐった。涙で曇っていた視界がクリアになると、ミシェルの視界に、どうやら先ほどの閃光でおもわず掴んでいた手を離していたらしい、二つのサイコロがテーブルの上に転がっているのがみえた。
(・・・)
嫌な予感を飲み込みながら、ミシェルはゆっくりとサイコロが導いたページをめくる。
(・・やっぱり)
ぽろり、と新しい涙の粒がミシェルの頬を伝った。
「ねえ、それで、ミシェルさん、何かお分かりになった? メギーをぎゃふんと言わせる事ができるような、素晴らしいパーティーのアイデア!・・あいたたた」
魔術を掛けていたメイドの女の子があわててアフロディーテの元に飛んできて、アフロディーテの背中をさすった。
「いたたたた・・最近背中がひどく痛むのよね、イカロスも私もあちこち痛くって。二人してすっかり年をとってしまったわ」
「アフロディーテ様」
ミシェルは覚悟を決めて、口を開いた。
「来年、アフロディーテ様が、お誕生会をひらく事はないでしょう」
さも意外と言った表情で、大きな目をくりくりと可愛く動かして、アフロディーテは言った。
「あら、ビックリしたわミシェルさん、それは一体どういう意味なのかしら? ミシェルさんは外国の方だとお伺いしていましたけれど、この国の貴族の女性にとって、誕生会を開かないという事は決してありませんのよ。何かの間違いではなくて?」
「・・いえ、間違いではありません」
ミシェルが次の言葉を探して逡巡していると、アフロディーテに寄り添って背中をさすっていたメイドの女の子には、ミシェルの言わんとした事の意味が分かったらしい、声を押し殺して、泣いている。
「あらスージー、貴女まで一体どうしたの、急に泣いたりして」
おろおろとするアフロディーテ様に、ミシェルは続けた。
「アフロディーテ様。最近背中が痛むとの事ですが、他にも息切れがしたり、食欲がなかったり、咳き込んだりとかお体や何かに急な変化はなかったでしょうか」
「ええっと・・そういえばそうね、最近はずっと変な咳がでて止まらなかったりするわ。最初は腰だけ痛かったのですけれど、今は背中一面が痛くて立つのもやっとなのよ。イカロスも最近は大袈裟にして、四男のアポロンまで最近留学先から呼び戻したのよ」
そこでもう我慢ができなくなったのだろう。名前はスージーというらしい、メイドの女の子はわっと声をあげて、エプロンで顔を隠して泣きじゃくってしまった。
ミシェルの深刻な顔と、スージ―の様子で、最初は不思議そうな顔をしていたアフロディーテも少しずつ、少しずつミシェルの言葉の意味を察したらしい。
長い沈黙の後で、アフロディーテは少しため息をつくと、言った。
「イカロスったら。何一つ私に言ってくれないのだもの。あの人ったら結婚した時と全く変わらないのね。私にはいつだって、何も知らされないのよ」
どうやら家族や近しい人々の間で、アフロディーテの残された時間については周知の事だったらしい。愛されるがあまりに、とても大事な事を本人に告げられないでいた。
愛され女子。羨ましいとばかり思っていた憧れの存在だが、ミシェルだったらそんなのはゴメンだ。
「メギーはきっと清々するでしょうね。ああ、こんな事になると知っていたら、つまらないお茶会や舞踏会なんかに時間を使わずに、もっと有意義に自分の為に時間を使うんだったわ。私、結婚してから今まで、アケロン川の向こうに行ってみたいとずっと思っていたのよ。でもイカロスも息子達も過保護だから、無理だと諦めていたわ。こんなことなら夫の反対も子供の反対も押し切って、元気なうちに行って仕舞えばよかったのね。私には何もかも、もう時間切れなのね」
「どうして・・ご自分の思いを優先されなかったのですか」
「どうしてかしらね。きっと、イカロスや息子達が安心して愛する女の姿がそうではなかったからかしらね」
なんという事だ。ミシェルは気が遠くなる。
この愛され女子は、自分というものを押し殺して、愛される形でいる事優先したのだ。
(アフロディーテ様は愛玩動物ではないわ。一人の自我を持つ、立派な女性よ)
先ほどミシェルのサイコロが示したカラオケのページは、儚くなった恋人を思う男目線からのラブソングだったのだ。男の悲しみと純粋な祈りが胸を打つ、少し前の世代で流行ったR&Bだ。
あれもこれも生きている間にしてやればよかった、という歌詞。
とても従順で何一つ文句を言うことのないタイプの女子だったらしい歌詞。冗談じゃない。こんな男、死に際に平手を食らわせてやれ。
アフロディーテの後ろで微笑んでいた青く光る二人の人の形はいつの間にか白い光のさざめきと変わり、さざめきは、一人の身も世もないかのごとく慟哭している、貴婦人の姿に変わった。貴婦人が慟哭しているその前には、美しい白い墓標が聳えていた。うめき声のような貴婦人の思考がミシェルの思考に響いてくる。
(どうしてまた私を置いていったの、どうしていつだって貴女は私の先に行ってしまうの、どうして、どうして)
慟哭する貴婦人の後ろには、黒く禍々しい渦が見える。先ほどアフロディーテが見せたものと一緒だ。
いつも正しいおばさんの言葉がミシェルの脳裏に蘇る。おばさんは、愛の反対語は無関心で、愛と憎しみは案外同意語だとか言っていたか。
(そうか。このメギー様とアフロディーテ様は、憎しみ合う事が許されるほど、愛し合っていたのね。メギーさんの前では愛玩動物である必要がなかったから、こんなにも醜い感情を剥き出しに、傷つけあって、歪みあって)
ミシェルはほう、っとため息をついた。
「・・アフロディーテ様。でも、ご家族以外で、一番貴女を思って涙を流すのは、そのメギーさんなんですよ」
そして、アフロディーテに向き直って言った。
「アフロディーテ様。限られた時間でできる事はたくさんあります。メギーさんと、仲直りされては。メギーさんはずっと、ずっと貴女に憧れていたのですね」




