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アポロンにエスコートされて入った馬車の中には、他にも乗客がいた。
「はじめましてミシェルさん。夫からお噂はかねがね聞いていますわ」
馬車の奥には、昔は大変な美人だったのだろう、豪華なドレスを纏った壮年の女性が、メイドに傅かれながら座っていた。女性は実にエレガントにほほ笑むと、ミシェルにこう言った。
「イカロスの妻で、アポロンの母のアフロディーテと申します。ミシェルさんに出会ってから、もうイカロスときたら、昔のように生き生きと活力を取り戻して、今日も悪役ごっこが楽しみだったのでしょうね、昨日から楽しみで眠れないと大変でしたのよ」
やはり爺さんはそうだったか。
良い事だ。
活力を無くして、半分隠居状態だった爺さんが、遠足前の子供みたいに眠れないほど興奮するような事があるだなんて、人生はこうでなくっちゃとミシェルはおもう。
ミシェルもできるだけ上品に礼をすると言った。
「ミシェルと申します、御夫君には大変可愛がっていただいて・・奥様との出会いの素敵なお話も伺いまして、あの、是非これからの参考にできたらと思っておりました。是非今日は奥様の方からまた御夫君との出会いの話を詳しく・・」
ほほほほほ、と婆さんは愉快そうに笑う。
「いやあね、若い頃のイカロスったら強引なんですもの、外堀を埋められて、あれよあれよという内に気が付いたらあの人の妻になっていましたわ。大昔のお話ですことよ・・いたたた」
「母上、ほら、また調子にのってはいけませんよ、お体に無理が」
そう言って母を軽くたしなめながらも母親に手をすっと差し出すアポロンに、心の中のミシェルが「合格」の札をそっと上げる。
母親との距離感良し。
どんなイケメン優良物件でも母親との距離感に難ありは、最終的にこちらが痛い目を見るのだ。
マザコンなどは最初からお話にもならないが、母親に冷たい男も要注意だ。
「みちちゃん、自分の母親に冷たい男というのは、自分の配偶者にも同じように冷たいのよ」
いつも正しいミシェルのおばさんもそう言っていた事をぼんやりと思い出す。
ミシェルが子供の頃、田舎の近所の電気屋の、非常に愛想がよくてイケメンで、子供にまで人気の男が奥さんに逃げられたと噂になった事がある。
なぜあんな素敵な人の元から奥さんは夜逃げしてでていったのだろうと不思議に思っていたが、そういえばあの男、奥さんが出て行ってからは高齢の母親とよく一緒にモールに買い物に来ていたけれど、そういえば足の悪い母親と一緒だというのにスタスタ先を歩いて歩みを合わせる事もなく、荷物を持ってやる事もなかった。
「もう、アポロンったら。いやだわ。人を年寄り扱いしないでちょうだい」
ぷりぷりと可愛らしく息子に怒るアフロディーテ様は、ほっぺたつっつきたくなるくらい可愛い怒り方で、ほーう、とミシェルは感心しかりだ。
やはり若かりし頃は英雄に褒章として求められたようなトップ愛され女子は、年を重ねていたとしても、怒り方一つとっても可愛いったらありゃしない。
あまり愛され体質とは言い難いミシェルはうらやましくなって、言った。
「本当に、アフロディーテ様はお若くてとてもお綺麗で。その上素敵なご主人にとても愛されて、立派なお子様4人に恵まれて。きっとアフロディーテ様のようなお方には悩みのようなものとは無縁でいらっしゃるのでしょうね、本当にうらやましい。是非私も見習ってあやかりたいものです」
お世辞抜きの結構な本音だ。
年を重ねてこの美貌と可愛らしさ。
若かりし頃は国の英雄だったイケメンに強引なまでに求められて、結婚後イケメンの息子4人に恵まれて、今現在も爺さんにも息子たちにも大切にされている様子。
経済面も、今日だってメイドに傅かれてこんな立派な馬車に乗っている辺り、お察しというものだ。
この婆さんは何一つ人生で思い煩う事なんてないんだろうな、とやさぐれ元社畜女子・ミシェルはうらやましくそうコメントしたのだが。
さきほどまでは思わずほっぺつんつんしたくなるような可愛らしい表情だった愛され女子・アフロディーテの美しい顔が、みるみると愛され女子の顔つきからキッと急に険しいものに変貌して、ミシェルに言ったのだ。
「まあ、私に悩みがないように見えて? とんでもないわ。頭の中は悩みと苦しみで一杯で、もうどうにかなりそうなのよ。ねえミシェルさん、ここから会場に到着するまで結構時間がありますのよ。よろしかったらイカロスのお話を聞いて下さったように、私がこれからどうしたら良いのか占いをして下さる?」
アフロディーテに傅いていたメイドが、心得たとばかりにてきぱきとスペースを馬車の後ろの方に用意しだして、なんだか高級そうなお香まで馬車の中で焚き始めた。
どうやら最初からそのつもりであちらは準備していたらしい。
「いやー、今日は道具もきちんとしたもの持っていないので、また今度・・それに、今日は是非アフロディーテ様だけでなく、アポロン様とも折角ですし、ゆっくりお話をしたいな、って思っていて」
そうミシェルは下斜め45度からがっつりとアポロンを見上げて瞬きをお見舞いしてやった。
今日はアポロンと馬車の中で距離をがっつり縮めて、次回正式にデートにお誘いいただくという所までもっていく算段だ。
狭い馬車の中、こんな真横にぴったりと標的のイケメンが座っているというのだ、悪いが婆さんの話はまた今度だ、今日はハンディングに全集中させてくれ。
ミシェル会心の下斜め45度の上目遣いに、アポロンの反応も悪くない。アポロンは少し顔を赤くして、
「母上、今日はミシェルさんは父上のお客様としてお呼びしています。休みの日に仕事をしていただくためにお呼びしたのではありません、また別日に改めて約束をお取りすればよいではないですか」
そう言ってアフロディーテを諫めたが、アフロディーテは何だかやけに頑固だった。
「いいえアポロン、私は今、ミシェルさんに見て頂きたいの」
「母上、一体急にどうされたのですか。客人に我儘を言うなどマナー違反です、大体こんな狭い馬車の中でなくて、明日でも明後日でもミシェルさんの仕事場に訪ねればよいではないですか」
少しそうやって押し問答している親子の間に、ミシェルは思わず割って入っていった。
「・・・わ、わかりましたアフロディーテ様! 私、今鑑定します。今させてください」
(これ、アポロン様どころじゃないじゃない・・一体アフロディーテ様に何がおこってるの)
ミシェルの目には見えたのだ。
トップ愛され系女子・アフロディーテの後ろに、オゴオゴと黒くうごめく不穏な黒い影が、まるで地獄の業火のように広がっているのが。




