1 飛来
大地を乾かす日差しを覆うように、大きな影が横切った。ごう、と音を立てて、周囲の木立を巻き込みながら風が渦巻く。舞い上がった砂から目をかばうようにエリヤは顔の前に腕をかざし、頭上を飛び過ぎたものを見上げた。
上空を駆けるそれは黄色い羽毛に覆われ、一見すると鳥にも見えた。だがそれにしては頭も胴もあまりに細く、どのようにして大きな翼が動かされているのか、はなはだ疑問なほどだ。
「空のトロール!」
誰かが叫んだ。あれが、とエリヤは思った。
トロールにもいくつかの種類がいるという。これまでエリヤ達ディーリア軍が相手をしてきた大岩のような生き物は森のトロール、あるいは陸のトロールとも呼ばれていた。しかし、その他のトロールが南の森で姿を見せることはごく稀だったために、トロールといえば森のトロールを差すものだった。
そして森のトロールもまた、密林からいく匹も顔を出して討伐部隊の眼前に迫っていた。
上空から甲高い鳴き声が鼓膜に爪を突き立て、地上では火薬の炸裂する轟音が大地を震わせる。大砲が、森のトロールを退ける。だがそれも、空のトロールに届くことはない。
再び空のトロールが人々の頭上すれすれを飛び、風圧でなぎ倒された人間が、わっと悲鳴をあげた。
別の方角から、金属がきしむような鳴き声が響いた。
「空のトロールが、もう一体……!」
悲痛な叫びに、動揺が駆け抜けた。今の彼らは、森のトロールは追い払えても、突如飛来した空のトロールに対処する手段を持たなかった。
陣形が崩れる。追い払った森のトロールは、まだ引き返してくる可能性のある距離にいる。再び地上からの襲撃も受けたらどうなるか、想像にかたくない。
後から現れた空のトロールが急降下を始める。目指す先は、たった今森のトロールを退けたばかりの人の群れ。迫りくる怪鳥に砲口を向けて撃ち落とす猶予など、彼らにあるはずもなかった。
襲い来る爪と牙を前に、訓練された兵達も恐れ逃げ惑う。しかし想定外である上空からの襲撃に対し、どこが安全な場所なのか分かる者もいない。その場に留まっていても危険は変わらず、多くの者が混乱のままに離散し、あるいは押し合いになる中で、エリヤも退避のために身を翻した。
ふと、視界の端を輝きが掠めた。それがプラチナ色をしていた気がして、エリヤは足を止めて振り返った。プラチナの前髪を帽子から覗かせ、人の流れに逆らい駆ける少女の姿が、間違いなくそこにあった。
「ニーナっ!」
少女を認識した瞬間、エリヤの中にあった恐れは吹き飛んだ。反射的に地面を蹴り、押し寄せる兵卒達を掻き分ける。だが流れに反した進行はたやすくなく、人の間を滑るように走る少女との距離は、またたく間に開いた。
「ニーナ、だめだ! 逃げろ!」
必死に叫ぶも、少女に声は届かない。なりふり構わず、エリヤは行く手を阻む人間を押し退けた。
少女が、人の波を抜けた。途端に足を止め、強く土を踏みしめて顔を上げる。間近まで迫った怪鳥の爪が、少女めがけて突き出された――はずだった。
鉤爪が少女に届く寸前、空のトロールが強く羽ばたいた。風圧を正面から受けた少女がたまらずよろめき、彼女の被っていた帽子が舞い飛ぶ。風に広がりきらめくプラチナの向こう側、爪が少女に到達することはなかった。空のトロールはたじろぐようにその場で翼をばたつかせ、再び空高く飛び上がった。
体勢を立て直した少女が見据える先で、空のトロールは空中で羽ばたき以外の動きを停止する。エリヤが人波を押し分け駆ける間、少女とトロールに一切の動きはなく、睨み合うかのようには向かい合っていた。
空のトロールが上空で身を翻したのは、エリヤが労して兵卒の群れを抜けたのとほぼ同時だった。怪鳥の羽ばたきにエリヤの所まで風が塊となって押し寄せ、なびいたマントに体を持っていかれそうになる。エリヤが一瞬動きを止めた間にトロールは頭を森へ向け、南の空へと飛び去った。旋回していたもう一体も、体を傾けて南へと進路を定める。
現れた時と同じ速さで遠ざかる空のトロールに、エリヤは束の間放心した。明らかな害意をはらんでいた動物が、これほど唐突に標的への感心を失うだろうか。状況に理解が追い付かないまま視線を下げれば、赤い大地にただ一人、プラチナの少女がたたずんでいた。少女は顎を上げたまま一声も発することなく、彼方へ去る怪鳥を静かに見送っている。
煙るような白金に輝く後ろ姿に、エリヤは駆け寄るのをためらった。凛とした立ち姿はよく知る少女に違いないのに、近寄りがたい隔たりをそこに見た気がした。
「ニーナ様!」
少女を呼ぶ声と同時に、黄金のきらめきがエリヤの横を走り抜けた。自然とそれを目で追えば、春色の髪の少女がプラチナの少女のもとへと駆けて行く。
「ご無事ですか」
プラチナの少女は小さく身をひねって振り向き頷いた。
「平気。ありがとうシルキー。さっき、トロールの風を散らしてくれたでしょう」
「当然です。トロールにとっても、ニーナ様を傷付けるのは本意ではないのですよ」
「そうね。ごめんなさい。でもお陰で、一時的にでも時間が作れたわ」
「まったく、無茶をしますね」
真横から声がして、エリヤは驚いて振り向いた。長身なエリヤでもやや見上げるほどに背の高い男がそこにいた。
(……誰だ?)
初めて見る男だった。肩口で波打つ髪はあまりに鮮やかな苔色で、会ったことがあれば忘れるはずがないだろう。にもかかわらず、相手は当然のような顔で隣に立っており、エリヤを戸惑わせる。
男はエリヤへ目をやることなく、少女達へと歩み寄って行った。
「地のトロール達は遠くへ逃がしました。風のトロールも、今日のところは戻ってこないでしょう」
「ありがとうルーペス」
男に淡く微笑んだニーナはそのまま視線をずらして、離れた場所で立ち尽くすエリヤを見た。
「エリヤ」
ニーナが顔を綻ばせて走り寄って来た。いつもなら笑みを返して迎えるだろうに、なぜかエリヤは、足をわずかに引いてしまった。彼女への愛しさは変わらないはずが、湧き上がって来たのは正体の分からない、恐れ。
「無事みたいね。間に合ってよかった」
安堵した様子でニーナは眉を開き、エリヤを見上げる。琥珀の瞳は見慣れた色であり、エリヤは深く息を吐いて意識的に体の強張りを緩めた。
「ニーナ……君は今、なにをしたんだ?」
発した声の強張りは、解け切っていなかった。それを察したらしいニーナの笑みが薄らぎ、エリヤを見る眼差しが震えた。見る間に色を失った少女の唇が、なにか言いたげに薄く開いた。
「ニーナ」
背後から呼ぶ者がおり、我に返った様子でニーナは振り返った。
「このあとはどうしますか?」
問いながら少女の隣に立ったのは、先ほど現れた苔色の髪の男だった。彼が割って入ったことで、ニーナはあからさまなほどに、ほっとした表情を見せた。
「さっきはちょっと強く言ってしまったから、また話しに行くわ」
「それがいいでしょうね」
すべて承知しているといった男の様子に、エリヤの胸中をざわめきが横切る。それは嫉妬の類ではなく、目の前の男の持つ空気が、記憶にある別の男とどうしてか重なったからだった。
ニーナは頷き合うように男と目線を交わしてから、改めてエリヤに向き直った。
「エリヤ、彼はルーペス。おばあちゃんに仕えてくれてるのよ」
ニーナの紹介に男は人好きする笑みを見せ、軽く腰を折った。
「初めまして、エリヤ・ハワード。あなたの話はニーナからよく聞いています。やっとお会いできましたね」
気後れするエリヤに構わず、ルーペスはいかにも柔和に微笑む。その瞳の青紫が動きに合わせて色を変えるのを見て、エリヤは息をのんだ。やや視線をそらせてニーナの斜め後ろに目をやれば、黄色い髪の少女が立っていた。
(同じ色の瞳……)
目の前の二人の他にもう一人、同色の瞳を知っている。エリヤの知る限り他にいないだろう珍しい虹彩の人物が、全員ニーナに関わっているのは偶然とも思えなかった。
砦へと引き上げた討伐騎士達を待っていたのは、隊長による招集だった。休む暇もなく、怪我人を除いて主だった騎士達が大天幕に集う。エリヤも例外ではなく、アーサーと連れ立って会合に加わった。
「我々はなん度もトロールを退けてきたが、トロールの数は減るどころか確実に増えている。そして今日、空のトロールまで現れた」
エリヤは語気を強めて、テーブルに両手を突いた。
「わたし達のしていることは、本当に正しいんだろうか。むしろ、トロール達を無闇に刺激しているだけなのでは」
トロール討伐では解決にならないというニーナの言葉を、エリヤは思い出していた。ここに至っては、状況が悪化するだけだと言った彼女が正しかったのかもしれないと、思わないではいられない。ニーナがなぜ戻って来たかはまだ分からないが、そこに理由があるとしか考えられなかった。
隊長ハカムは元々険しい眉間の皺をさらに深くした。
「我々は間違ってはいない。トロールは我らの暮らしを脅かすものだ。一体でも多く減らし、一日も早く掃討を完了しなくてはいずれ生活が立ち行かなくなる」
「しかし……」
「南の暮らしを知らない北方人が余計な口出しはやめてもらおう。これは、ハルバラドにとって死活問題だ」
「…………」
ハカムの剣幕に、エリヤは仕方なく引き下がった。事態が深刻化している今、隊内で表立って揉めるのも得策ではない。
この日はいくつかの確認事項と伝達事項を話しただけで、現れた空のトロールへの対策については翌日に持ち越された。
疲弊に襟を引っ張られるように解散して外に出れば、動ける者達によって夕食の準備がされていた。すでにいく人かは簡易ベンチで食べ始めている。食事時の陽気な様子は以前と変わらないようにも見えるが、隠しきれない消耗がそこにあるのも確かだった。
エリヤは食事の輪には加わらず、自身の寝起きする天幕へと足を向けた。今こそ体力が必要な時であろうに、どうしても食事をする気になれなかった。
「お嬢さん達はどこに?」
隣に並んだアーサーが窺うように問うた。彼も少女達の姿を目撃してはいたが、混乱の中ですぐに見失ったのだった。
エリヤは進行方向をにらむように見据えたまま答えた。
「わたしにも分からない。やることがあるのだと言って、またどこかへ行ってしまった」
声は自身でも分かるほど常より低かった。なにかを察したように、アーサーが嘆息する。その気配が、エリヤの苛立ちに拍車をかけた。
「君は食事をして来い。わたしのことは気にしなくていい。今日はもう先に休む」
御曹司にしては乱暴に言い渡して、にわかに足を速めた。私兵隊長に返事の隙もあたえないまま、戸布をはねのけるようにして天幕へと入った。
天幕の中は戸布のわずかな隙間から西日が差す以外に光源はなく、いたる所に闇が淀んでいた。しかしエリヤはランプに灯を入れることはせず、マントもそのままに椅子へと崩れこんだ。胸苦しさを感じ、それをどうにか吐き出そうとするように、数度深く呼吸する。それでも苦しさが排出されることはなく、エリヤは上体を丸めた。この息苦しさは、慣れない土地とトロール討伐による疲労のせいばかりではない。
伏せた瞼の裏をよぎるのは、少女を前に戦意喪失したトロールと、多彩に色を変えるいくつもの瞳。少女の震える琥珀の眼差し。
あの時、エリヤに問い質された少女の動揺には気付いていた。それでもエリヤは自身の中に生じた怖気によって、明かされるまで待つと決めたはずの真実を暴こうとせずにはいられなくなっていた。
以前から、かすかな予感は胸の底にあった。それがいつからなのかまでは、記憶が定かではない。沈殿して隠れていたそれが、感情のさざ波によって、ふわりと表層へ浮き出て来る――少女への猜疑心。
少女を愛しむ思いに疑いの余地はないし、少女の負うものを共に負えるものならそうしたいという気持ちにも嘘はない。だが今となっては、彼女が抱えているものを自分が受け止め切れるのか、急速に自信がなくなっていた。
向ける方向の分からない底冷えするような感情が渦巻き、本来なら喜ぶべきだろう再会の場で、エリヤはどうしてもニーナに触れることができなかった。





