6 飛翔
「この辺りは久しぶりに来たけど、ずいぶん地形が変わったんだね」
串焼きにされた肉をかじりながら、ダワはぼやくように言った。
「やっぱり、ダワも気付いたのね」
「そりゃ気付くよ。地図と違ったもんだから、危うく辿り着けなくなるかと思った。おれが持ってるのは何年か前の地図だから新しくはないけど、まさかこんなに変わるなんて思わないさ」
やはり急激な変化であったらしいことが分かり、ニーナは考え込みながら、舌を刺す香辛料の味を噛み締めた。
三人がいるのは、ハーファの町の入口付近にある飲食店だった。飲食店とは言っても店舗は備えてはおらず、簡易な調理場に大きな葉で葺いた屋根がある以外は、いくつかの木製テーブルとベンチが屋外に並べられているだけだ。トロールの襲撃にあったのは町の奥だけだったので、被害を免れて営業を続けているのだろう。町人達の憩いの場としても機能しているらしく、集っている人々の中には食事をするだけでなく、ベンチに寝転んで昼寝をしている者までいた。
「北の廃墟はご覧になりましたか」
シルキーの問いに、ダワは考える素振りでわずかに首をかしげた。
「いや、それは見てないな。ここから北だと、乾地の方だよね」
「ええ」
シルキーが頷き、ニーナが続きを引き取った。
「そこが元々ハーファの町があった場所らしいんだけど、切れる木がなくなってここまで移動して来たらしいのよ」
なるほど、と口を動かしならら、ダワは頬張った肉を飲み込んだ。
「森の縁を辿って来たから、その廃墟っていうのは見なかったけど、この町の位置が地図と違うのは分かる。たった二年か三年で町が移動するくらいだ。よっぽど無茶な量を伐採したんだろう。サマクッカにでも流れてるのかな」
ニーナは驚きつつ、感心して正面の東方人を見た。
「鋭いわね。どうして分かったの」
「少し考えれば分かるさ」
食べ終わった串を皿に置いて、ダワはテーブルに肘を突いた。
「ハルバラドの材木の行先はほとんどが国外だからね。そしてそんな無茶苦茶な量の要求できて実際にするといえば、帝国くらいだろう。ハルバラドには帝国から武器も入って来ているし」
ダワは言葉を区切ると、ミルクと香辛料で味付けされたお茶を一口飲んで喉を湿らせた。
「今運ばれているとしたら、サマクッカ国内じゃなくて、砂漠の方じゃないかな。最近、砂漠の東側を制圧したっていうから、資材はなにかと入用だろう。帝国軍もモンスデラ共和国の手前まで来てるらしいし」
「なんですって!」
ニーナは思わず叫んで立ち上がり、ダワがぎょっと体を反らした。近くでくつろいでいた人々も、なにごとかと振り向く。ダワがやや気まずそうな表情で彼らに小さく頭を下げ、手の動きでニーナに座るよう示した。
憤然とベンチに座り直し、ニーナは改めてダワを問い詰めた。
「それ、どういうこと」
ダワはやや戸惑った様子で、こめかみを掻いた。
「どういうことと聞かれても、そのままとしか言いようがないんだけど。おれだって、詳しく知っているわけじゃあないし」
「でも、帝国軍が砂漠を横断しようとしてるのは確かなのよね」
「それは間違いないよ」
ダワが言い切り、ニーナは突っ伏すように頭を抱えた。
「もう、どうしたらいいのよ。南では人が赤道に向かっていて、東からは帝国がディーリアを目指してるなんて。あたしは一人しかいないのよ」
打ちひしがれるニーナの肩に、シルキーが手を置いた。
「今一度、考えてみましょう。わたくし達になにができるか。ニーナ様には元素の加護が付いています。必ず、打開策はあるはずです」
「シルキー……」
ニーナが顔を上げると、風のジンは安心させるように小さく微笑んだ。彼女の冷静さに救われるのを感じながら、ニーナは息を吐き出した。
「そうよね。でも、本当にどうしたらいいのかしら」
頬杖を突いて、ニーナは考え込んだ。
問題としてより大きいのは、やはり人が赤道を越えてしまうことだろう。たとえ星が破滅しなくとも、女神が人に見切りを付けることは十分にありえるのだ。人による熱帯林の伐採をやめさせ、これ以上の南下を食い止めなくてはいけない。
だが、サマクッカ帝国の動向とて無視はできない。それでも帝国軍がまだ砂漠にいるということは、すぐさまディーリア王国に辿り着くことはないだろう。モンスデラ共和国が粘ってくれれば、まだ猶予はあるはずだ。それでも、詳しい現況は知りたいところだった。
「ねえ、シルキー」
「いかがなさいましたか」
一瞬ためらってから、ニーナは続けた。
「シルキーが砂漠に行くことってできない? 二手に分かれれば、南と東、両方への対処もできると思うの」
「それはできません」
間髪入れず、シルキーは拒絶した。
「このような土地で、お一人にできるとお思いですか? わたくしが目を離したら、すぐに無茶をされるというのに」
常に穏やかなシルキーの声に険がこもり、ニーナは若干焦った。
「ごめんなさい。言ってみただけなの。無理なのは分かってるわ」
ニーナがなだめれば、心なし不満げな空気を残しつつ、シルキーは気持ちをおさめたようだった。それにほっとしながらも、他に案も浮かばず、ニーナは困って片眉を上げた。
「でも、情報は欲しいわよね。かと言って、今ここを離れるのも得策とは言えないし……」
「おれが行こうか」
突然の申し出に、ニーナは目をぱちくりしてダワを見た。彼は人好きのする笑みを浮かべ、やや前のめりになった。
「おれが東へ行って、状況を見て来るよ。モンスデラには伝手もあるし。その情報を君達に伝えれば、二人が別行動する必要はないだろう?」
ニーナは束の間考え、シルキーと顔を見合わせた。しばらく無言で視線をやりとりしてから、ニーナはおもむろに問いかけた。
「どう思う?」
シルキーは表情を動かさなかったが、ニーナと同じことを考えていることは分かった。
「行きはよいとして、問題は帰りですね」
「でも、方法はあると思うの。帰って来ることさえできれば、今のところ一番現実的なんじゃないかしら」
少女達のやりとりに、ダワは首をかしげた。
「なんの相談?」
ニーナは、ダワの方に顔を戻した。
「ダワにモンスデラへ行ってもらうとして、行き帰りをどうするかって話よ」
「あの辺りなら行き慣れてるから、特に問題はないと思うけど」
「地上からでは時間がかかり過ぎます」
訝しむダワに、シルキーが説明を引き受けた。
「ここからモンスデラまで、普通に地上を行くのでは少なくとも二週間は必要です。向こうでの情報取集のための滞在も考えると、どう少なく見積もっても一ヶ月以上かかります。ですが、わたくしたちの移動手段なら、一昼夜、休みなく飛べば着けない距離ではありません」
シルキーの言葉がダワに浸透するのに、少し時間がかかったようだった。彼は少女の言う意味を咀嚼するように、たっぷりと間を置いてようやく声を発した。
「いいのかい?」
戸惑いを見せるダワを、シルキーは表情を消して見た。
「今回だけです。同じことは二度とありません。わたくしは今、ニーナ様のおそばを離れるわけにはいきせんから」
シルキーの声は冷めていた。しかしそれに反するように、ダワの瞳には見る見る光が宿って行く。しだいに表情まで輝かせ、立ち上がった彼はテーブル越しに勢いよくシルキーの手をつかんだ。
「ありがとうシルキー! まさかこんな形で念願が叶うなんて」
両手でしっかりと手を握られ、ダワの感激ぶりにシルキーは仰け反った。しかしダワは気にも留めず、間にテーブルがなければ抱き付いていただろう熱狂ぶりで身を乗り出した。
「ああ、なんてことだ。さあ行こう。今すぐ行こう。こんな胸躍る体験、人生に一度だってあるものじゃあない。おれはなんてツイてるんだ」
「少し、お待ちください」
興奮するダワの手をどうにか振り払い、シルキーは腕を引っ込めた。
「今すぐには無理です。行きは直接飛ばせばよいかもしれませんが、戻って来る方法を考えなくては」
シルキーのさとす言い方に、ダワは不思議そうに少女の目を覗き込んだ。
「帰りも同じようにできないのかい」
「そう簡単じゃないのよ」
ダワの疑問には、ニーナがやや脱力しながら答えた。
「あたしかシルキーが一緒なら考える必要はないんだけど、それだと意味ないものね」
どうしたものか、とニーナは考えた。
ただの人であるダワは精霊と意思疎通をするどころか、認識さえできない。行きは精霊に頼んで直に目的地へ運んでもらうとしても、十分な情報収集を終えたのを見計らって帰って来られないのでは話にならないのだ。
「ようは、見えなくても伝わればいいのよね」
考えを整理するように声に出し、ニーナは肌身離さず着けている首飾りを襟から引っ張り出した。
「これでどうにかできないかしら」
注目するダワとシルキーに見せるように、ニーナは首飾りをはずした。
首飾りは、細い金鎖に四つの精霊石を吊るしたものだった。その中から澄んだ黄色の石を抜き取り、シルキーに差し出す。両端の尖った柱状のそれは、まじりけのない蜂蜜のように冴えた艶を放った。
それを見たシルキーの眉がわずかに寄った。
「ニーナ様、それはダワ様に使えるものではありません。それに、それを手放されてはニーナ様は……」
「分かってる。でも、あたしはシルキーが近くにいてくれれば困らないもの。ダワが正しく使えないとしても、風と繋がるものなら、なにかできるんじゃない?」
渋るシルキーを、ニーナは真っ直ぐに見た。風のジンは長く逡巡する様子で、視線を石と主人の顔の間でなん度か行き来させた。しかしニーナが手を下げる気がないと分かると、最後には、自身の力の一部であるそれをおもむろに手に取った。
シルキーの手に渡った精霊石を、ダワが横から覗き込んだ。
「その石は?」
「シルキーの石よ」
ニーナの端的な答えに、ダワはなにか言いたげにプラチナの少女を一瞥したが、それ以上問うことはしなかった。
シルキーはまだなにか迷う様子で精霊石に見入っていた。やがて顔を上げ、ニーナとダワを見た眼差しは、強い意志をはらんでいた。
シルキーは、精霊石を強く握った。
「場所を移しましょう」
ハーファの町を出て、人目のない森の奥で改めて三人は顔を向き合わせた。
言葉を交わす前に早速手渡された石を、ダワは手の中で転がした。密な枝葉をすり抜けた細い木漏れ日に、黄色の石が金に光る。
「これをどうするんだい?」
「こちらを一緒にお持ちください」
ダワの問いにすぐには答えず、シルキーは胸元の銀のブローチをはずした。翼の形をしたそれは、ザウィヤでダワが彼女に贈ったものだった。
「その石はわたくしの力の一部。そしてこのブローチはわたくしが身に着けていたものです。戻って来る時には、その二つを打ち合わせれば周りの風が応えるでしょう」
「風ねえ……」
シルキーからブローチを受け取りながら、ダワはいまいち飲み込めない様子で呟いた。
石とブローチを並べて眺めているダワの前で、シルキーは顔の高さに手を掲げた。するとその指に、近くを飛んでいた風の精霊が一匹寄って来た。小さく黄色い生き物が、少女の指先に滞空する。シルキーはそのまま無言で精霊を見詰め、その眼差しから、彼女らが思いを飛ばして会話しているだろうことがニーナには見て取れた。
シルキーが手を下げると、風の精霊は弧を描いて舞い上がり、ダワの頭上に着地した。だが精霊は重さや感触を伝えるものではなく、姿すら認識できないダワがそれに気づくことはない。
「ダワ様、準備はよろしいでしょうか」
シルキーが精霊と会話している間に精霊石を銀の鎖に下げ、ブローチを襟に留めたダワは頷いた。
「おれはいつでも平気さ」
いつもの調子で微笑むダワに、シルキーは頷き返す。風のジンは動作でニーナを一歩下がらせ、自分はダワに一歩近づいた。
「その石は本来、ニーナ様をお守りするものです。決して失くされませんよう」
「分かった。気を付けるよ」
ダワが承知したのと同時に、シルキーは彼の手を取った。
二人の周りで風が渦を巻き、徐々に密度を増していく。草を押し倒す風は凝縮していき、ひと塊となってダワの足元に滑り込んだ。
「うわっ」
体が浮き上がった瞬間、ダワが悲鳴じみた声をあげた。シルキーは構わず彼から手を離し、ニーナの隣まで下がった。
「このまま一気にモンスデラまで飛ばします。着地にだけお気を付けください」
「気を付けるって、どうやって」
腰が引けているダワに、ニーナは思わず少し笑った。
「シルキーの風なら大丈夫よ。腰や頭を打たないようにだけ気を付ければいいわ」
ダワの顔は分からないと言いたそうだったが、それでも首を縦に振った。ニーナはもう一度笑ってから、空中でなんとか居心地のいい体勢を作ろとしているダワを見上げた。
「それじゃあ、お願いね。今はあなたが頼りよ」
「ああ、任せておいて」
やっと納まりのいい体勢を見付けて、ダワが請け合った。
「では、行きます」
シルキーの言葉の終わりと同時に、ダワの体が一気に舞い上がった。長い叫び声をその場に残し、東方人は空の彼方へ飛んでいく。ダワがぶつかった勢いで折れた枝の向こうに見える空は果てなく澄み渡り、瞬く間に黒点となった彼の姿も一瞬後には流星のように青く霞んで消えた。情けなく裏返った悲鳴だけが、たなびくわずかな雲の合間に最後まで尾を引いていた。
額に手をかざしてそれを見送り、ニーナは思わずこぼした。
「ちょっとやりすぎじゃない?」
同じように上空を見上げていたシルキーは、ふっと息を漏らして笑った。
「そんなことありません。一昼夜でモンスデラまで着くには、あれくらいの風速は必要です」
「……そう」
(容赦ないわね……)
苦笑いして、ニーナはダワに同情した。
ダワが関わると、シルキーはどこからしくなくなるところがある。当人に自覚があるかは分からないが、彼女にとってはいい変化であるように、ニーナには感じられた。
気を取り直して、ニーナはシルキーの方へ体を向けた。
「あたし達もぐずぐずしてられないわ。あちらはダワに任せて、あたし達もできることをしましょう」
気合を入れるように言ったニーナに向き直り、シルキーは微笑んだ。
「はい」
少女達は力強く頷き合い、再び町の方角へと足を向けた。





