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白金のイヴは四大元素を従える  作者: 入鹿なつ
第4章 森の守り手

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15 真相

 唇はふわりとした熱を伝え、触れた時と同じ優しさで離れた。熱の余韻にニーナが浸っていると、またすぐに、今度は強く唇を押し付けられた。

 音を立てて唇を吸われて驚いた一瞬に、カディーの舌が滑り込んできた。口内をなめ上げるように舌を絡め取られ、想定外の激しい口付けに思わずすくむ。

 唇が離れ、息苦しさから解放されたニーナは、大きく息を吸い込んだ。我にもなく震える彼女の頭にいたわる手が置かれ、気遣うように額と額が合わせられた。


「ごめん。驚いたね。大丈夫?」


 閉じていた目を開けば、声と同じく思いやる瞳がそこにあった。


「うん……平気」

「無理しなくていい」

「……うん」


 カディーがゆったりと髪を撫でてくれて、ニーナは気持ちが落ち着いて来るのが分かった。ニーナが一度ゆっくり深呼吸すると、彼の目が細まった。


「ニーナ。ぼくとキスして、なにを感じた?」

「え?」


 なにを言い出すのかと、ニーナは戸惑った。額を離して見たカディーの表情は静かさをたたえた真面目なものだった。


「君が感じた、そのままのものでいいんだ。どう思った? 嬉しかった? 怖かった? 気持ちよかった?」


 カディーの言葉に、ニーナの顔が熱くなる。赤い顔を見られたくなくて俯くと、彼がかすかに笑った。そして頭を抱えるように抱き締められ、再びカディーの香りに包まれた。


「それでいいんだ。君は間違ってない。どんなに特別でも、君は人だから。でもぼくは――なにも感じない」


 はっとして、ニーナは恥ずかしさも忘れてカディーを見上げた。彼は微笑んでいたけれど、泣き出しそうなほど悲しげにも見えた。


「ニーナはもう知っているね。ジンもまた精霊の内だって。女神の吐息から生まれる精霊に、性の概念はない。生殖の必要もなければ能力もない。ジンも同じなんだ――厳密に言えば、ぼくはもうジンではないけれど――人の姿をとる時には、便宜的にどちらかの性に寄せることにはなっても、それ以上の意味はない。だから――」


 カディーはニーナを放すと、今度はすくい上げるように手を握った。


「キスをするのも、こうして手を握るのも、ぼくらにとって、感覚的な部分ではなにも変わらない。もちろん感情はある。でも、それに性を伴うことはないんだ。知識の上で知っていても、ぼくらがそれを感じることはない――人じゃないって、そういうことなんだ」


 ニーナはカディーを見詰めるしかできなかった。咄嗟に否定しなくてはと思っても、思考はまるでついてこず、ままならなかった。

 膝の力が抜けて、ニーナはその場にくずおれた。脱力する体をカディーが横から支え、ゆっくりと寝具の縁に座らせる。そして彼は、そっとニーナの頭を撫でた。


「ほら。やっぱり分かってなかった」


 呆れたように言ったカディーの瞳に影が差すのを、ニーナは見た。そうしてまた、彼を傷付けてしまったことを悟った。カディーはそんな自分の表情を隠そうとするように、ニーナを胸に抱き込んだ。


「イヴは、ジンのそばが一番安全であることを遺伝的に刷り込まれているんだ。ぼくは長く君のそばにいたし、君も家族以外とほとんど関わりを持たない暮らしをして来たから、ぼくに気持ちが向かいやすくなったのは仕方ないのかもしれない――一緒にいられるなら、ぼくだってそうしたい。でも一緒にいて傷付くのは、君だ」


 カディーの言葉が胸に刺さる。否定の言葉が出て来ない自分が、ニーナは悔しかった。

 ゆるやかに、カディーの腕の力が強まった。


「ぼくはまだ、君に言っていないことがある」


 ニーナは息をのんで、彼の服をつかんだ。


「……聞きたくない」

「聞いて、ニーナ」

「いや」

「ニーナ……エベリーナのことなんだ」

「やめて、聞きたくない。……聞きたくない」


 亡き母の名に、ニーナは耳を塞いだ。これ以上、目を背けて来た現実を突き付けられるのが怖かった。


《ニーナ》


 耳の一番奥で呼ぶ声が響いて、ニーナの肩が跳ねた。どんなに強く耳を押さえても、その声は鼓膜のさらに奥を震わせる。


《そのままでいい。聞いて》


 ニーナが体を強張らせると、なだめるように背中を撫でられた。


《知っている通り、ぼくはケンジーを――君の父親を殺した》

「いや……」


 ニーナが拒んでも、カディーの声は意識へと滑り込んでくる。彼にとってはなにも特別な能力ではないのだから、当然だった。耳から手を離し、ニーナはカディーの体を押しのけた。


「分かった。聞く……ちゃんと聞くから」


 ニーナが言うと、カディーはそのまま手を引いた。温もりが離れたことに一瞬寂しさが忍び寄ったが、俯いているのも嫌で、ニーナは必死で顔を上げた。こちらを真っ直ぐと見るカディーの瞳と目が合った。


「ぼくは君の父親を殺した。そうすれば、エベリーナが帰ってくると思ったんだ」

「……どういうこと?」


 恐々と先を促せば、なにかを決意する瞳で、カディーはゆっくり呼吸した。


「ぼくはアストラから、ニーナと共に、必ずエベリーナをデアベリー宮殿の塔へ連れ帰るように言われていた。ぼくも、それが絶対に正しいことだと思ってた。だからぼくは何度でも、エベリーナを連れ戻そうと説得した。でも、彼女は決してそれに応じなかった。ぼくを元々の名前のカロルと呼ばないことも、彼女なりのアストラへの反抗だったんだ」


 アストラがなに者か、今のニーナは知っていた。創世の姉妹神の弟神であり、未熟に生まれるジンの育成者。ジンを育てる中で名前を与えるのも彼だという。ジンや精霊の監督者でもあるアストラは、彼に逆らったカディーを、ニーナの目の前で罰して連れ去ったのだった。

 カディーはどこか彼方を見る眼差しで苦笑した。


「君は気付いていなかったみたいだけど、実は普段から結構な駆け引きをしていたんだ。お互いかなり必死だったし。それでもエベリーナは、なぜかぼくを追い出すようなことだけはしなかった」


 カディーの話を聞きながら、ニーナはぼんやりと母の姿を思い出した。幼い記憶だが、その少女じみたはつらつとした笑顔は、今でも鮮明に覚えている。


「追い出すわけない。お母さんはそういう人だったもの」


 ニーナの断言に、カディーが寂しげに微笑んだ。


「そうだね。でも当時のぼくには分からなかった……だから、奪うことしかできなかった」


 後悔の色をにじませて、カディーは不意に俯いた。


「ケンジーの死は人の視点から見れば事故だ。でもエベリーナはすぐにぼくだと分かったみたいだった。それなのに彼女は……ぼくを責めなかった」


 ニーナの父ケンジー・パーカーの死因は火災だった。当時、花を育てて生計を立てていたケンジーは、異国の珍しい花の種が入って来るのだと言って港に出かけた。そこで、船の積み荷が燃える火事があったのだ。その火に、ケンジーは巻き込まれた。

 俯くカディーの表情は、緋色の髪に隠されて見えなかった。それでもニーナには、彼が泣いているような気がした。そっと肩に触れれば、かすかな震えを感じる。触れたニーナの手に、カディーの手が重ねられた。


「本当は怒っていたと思う。でもエベリーナはそれを口に出さなかった。悪いのはぼくでなく、ぼくにこんな選択をさせるほど脆い世界と、臆病な神達なんだ、って」


 ゆるゆるとカディーの顔が上げられる。そしてまた、彼の瞳がニーナの瞳をとらえた。


「最期の時、エベリーナは、ぼくに君のことをすべて任せると言った。ぼく自身の判断でニーナを連れ帰るなら、それでも構わない。その代わり、必ず君を幸せにすることが条件だと。もし、自分と同じ悲しみを与えるようなことがあれば、その時は絶対に許さない、と――そう言って、ぼくの目の前で心臓を突いたんだ」


 その時を思い出したのか、カディーの表情が痛ましげに歪められる。


「どうしたらいいか、分からなくなった。アストラはすぐにニーナを連れ帰れって言ったけど、本当にそれでいいかさえ分からなくなって……ぼくは逃げ出した」


 初めて聞かされる真実に、ニーナは言葉が出なかった。

 実のところ、ニーナは母がどのように亡くなったのかは見ていない。見たのは、寝台に横たわる、血の通わなくなった母の姿と、そのかたわらに黙して佇むカディーだった。そして母は葬儀も行われず、密やかに埋葬された。

 幼かったニーナは立て続けに起こった突然の不幸に、母がどのように亡くなったかまで頭がまわらなかった。ただ嘆くばかりで、黙って寄り添ってくれた彼の苦しみや葛藤など、知るべくもなかった。

 重なったニーナの手を、カディーは震えながら握った。


「でも、逃げられるわけがなかったんだ。そのせいで……ロイやジゼルまで死なせてしまった」


 カディーの独白に、ニーナは凍り付いた。心臓を鷲づかまれた心地で、ニーナは彼を見詰めた。


「ロイとおばあちゃんもって……だって、あの火事は……っ」


 カディーの眼差しが冷たい色を帯びるのを見て、ニーナは言葉を途切れさせた。


「普通、ありえると思うかい。いくらディザーウッドの樹海が深いとはいえ、八年も暮らしていて、誰もぼくらのところに辿り着かないなんてこと」


 言われて、ニーナは初めてはっとした。彼の言う通りだ。少し考えればすぐ分かることなのに、なぜ今まで思い至らなかったのか。

 目的があって自ら森を出た時を除いて、森の外の人間と会うことはなく、家に誰かが訪ねて来ることもなかった。ただ静かに、ひっそりと四人で暮らしていたのだ――エリヤがやって来るまでは。


「それって……」


 カディーは深く頷いた。


「ぼくが他の精霊に働きかけて、人が来ないように仕向けていた。始めは、それでなんとかなっていた。君がまだ子供で、役目を果たせる年齢ではなかったから、アストラや女神達も様子を見ていたんだと思う。でも、君もいつまでも子供じゃない――そしてついに、人がぼくらのところに辿り着いた。今のニーナなら、どういう事か分かるね」

「…………」


 呆然として、ニーナはカディーの瞳を見詰めた。来るはずのない人間が現れた。つまり、より強い者によってカディーの言葉が破られたということだ。


「警告だと、すぐに分かった。アストラからの接触も、ずっと無視し続けていたし。それでもぼくは、その警告さえ見てみぬ振りをした――それが、最悪の結果を招いてしまった。火を使ったのは、ぼくへの当て付けだ」

「そんな……そんなことって……っ!」


 思わず叫びながら、かつての凶暴な火を思い出して、ニーナはおののいた。自身の至らなさに気付くと共に、自己嫌悪に押しつぶされそうになる。

 どうしてなにも気付かずにいられたのか。祖母ジュリアのジンも言っていたではないか。人の心以外は、すべてイヴを守る方向に働くと。精霊が直に関わるものであれば、なおのことだ。そうなれば、あの火の中でニーナが生き残ったのは奇跡でもなんでもない――生かされたのだ。


「ひどいっ……ひど過ぎる。なにが神よ。神様なら、なにをしたっていいっていうの? 全部が女神の意思で、アストラが手を下したっていうなら、あたし……」

「アストラを悪く言わないで」


 思いがけずカディーが強く言葉を遮り、ニーナは驚いて息を吸い込んだ。彼の瞳には、初めて見る光が宿っていた。


「いくらニーナでも、アストラのことを悪く言って欲しくない」


 今までにないカディーの気迫に、ニーナは気圧され戸惑った。


「カディー、どうして?」

「ごめん、ニーナ。アストラは厳しいけど、あの方だけなんだ――アストラだけが、歪んだ存在になってしまったぼくを、受け入れてくれている」


 これまでと違った動揺が、ニーナを襲った。信じられない速さで、心臓が鳴っている。


「カディーは今、アストラのところにいるの?」


 束の間、沈黙があった。ニーナは祈るような気持ちでカディーを見詰めた。全身が心臓になったように、動悸の音がやかましく体内を響き渡る。

 カディーの口が、おもむろに開かれた。


「姉神ソルがぼくを消さずに連れ戻したのは、もう一度力として取り込むためだった。でも、そのまま消滅するはずだったぼくを、アストラが口添えして助けてくれたんだ」


 全身の力が抜けて行くのをニーナは感じた。視界が揺れ、体が倒れ込む。その肩を、温かな手がそっと支えた。


「星に満ちる無数の精霊を、アストラは一人で管理している。その秩序に、人の手によって綻びができ始めているんだ。ぼくはあの方を助けなくてはいけない」


 カディーの眼差しは真摯で、それでもニーナは確かめずにはおれなかった。


「それは、あたしよりもアストラを選ぶってこと?」

「……ごめん」


 最後の砦が崩れたことを、ニーナは悟った。同時に思考が真っ白になり、急激に頭が働かなくなる。カディーの声が、耳元を通り抜けていく。


「女神に産み落とされたジンは、イヴを守れるようになるまでアストラの腕の中で育つ。君の中でエベリーナの存在が大きいように、ぼくにとってのアストラもそうなんだ――ぼくはもう行く。君もディーリアへ帰るんだ。……そばにいられなくて、ごめん」


 そっと、温もりが離れて行った。赤い色彩が視界で揺れる。遠ざかる後ろ姿を、ニーナは追うことができなかった。働かない思考の中で、まるで世界に自分一人だけになったような錯覚を覚えた。

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