薄闇に潜む牙 5
篭手に包まれた男性の大きな手は、黒地の皮手袋が覆っている為に直接ルーナリーアの肌へ触れている訳ではない。それでも、頬をすっぽりと包み込むようにして触れている掌からはじわりと体温が伝わってきて、言いようの無い安堵感を齎した。
前と同じだ、と少女は泣きすぎてぼんやりとする思考の中で過去を思い起こす。
それはほんの三月ほど前、初めてルーナリーアが“花皇宮”へと足を踏み入れ、《薔薇の騎士団》の騎士達へ菓子を届けに行った日。あの日も、青騎士の男性は辛抱強く少女が泣き止む時を待ち、その大きな手で涙を拭ってくれた。藍方石色の鮮烈な青い瞳も、寡黙でありながらとても優しい手付きも、ずっと触れていて欲しいと密かにルーナリーアが想い続けているものだ。
そして、あれ程恐ろしかった森が、すっかり怖くなくなってしまうなんて――目尻から最後の雫を瞬きで払い落とすと、自分の現金さにルーナリーアは微かに目を伏せた。
だが、ケインスはそれを違う意味に捉えたらしい。表情自体は余り変化が見られないが、やや急いた様子で顔を覗き込んできた。
「何処か痛むのか?」
「…いいえ…」
転倒したせいで土に汚れた顔を綻ばせながら、ルーナリーアは微笑んだ。よくよく見てみると、普段傷や汚れ一つもない白銀の甲冑にはところどころ汚れが付着し、脛当と鉄靴にも細かな傷が土汚れと一緒に銀色をくすませている。“花皇宮”から最も遠く離れた“鎮めの森”の奥深く、こんな時間に《薔薇の騎士団》団長が居る――うぬぼれでないとしたら、ルーナリーアを探してきてくれたのだろうか?
嬉しい、と思う反面、若葉色の瞳には焦燥にも似た色が燻っている。森の入口付近ならともかくとして、ここまで森の奥へ分け入る者は皆無だ。ルーナリーアとて、もしもあの三人組がこれ程にしつこくなかったのなら、陽もとっぷりと更けた時分に森へ居るなどとは考えもしない。にも関わらず、青騎士の男性は今現在こうして少女の涙を拭ってくれている現実からして、答えは一つしか考えられない。
「ケインス様。 助けて頂いてありがとうございました、ですが…どうしてここに…」
「ああ、それは……」
この男性は帝国を守護する立場にある騎士であり、現在は帝都ルシュタンブル内に魔物が侵入しているという情報により帝都内を警邏している筈だ。
戸惑いがちではあるが、至極もっともな問い掛けの真に意味するところを、男性は正しく理解しているように浅く頷いてみせる。だが、ケインスが口火を切るより先に、突如として飛び込んできた純白の存在にルーナリーアは驚き混じりの声を上げた。
「スノウ!?」
掌にすっぽりと納まってしまうほどの体しかない小さな小鳥は、まるで少女の言葉を理解しているかの如く全身の毛を膨らませて、得意気にぴぴぴ!と囀っている。時折両翼を広げて軽く羽ばたく様など、“褒めて褒めて”と言っているのかようだ。
ルーナリーアの自宅前で一時は少女の危機を救い、そのまま飛び立っていた筈の小さな友人がどうして――指先で柔らかな羽毛を撫でながら、如何にも不思議そうに小鳥を見下ろしていた少女へと贈られた答えは、意外な事に青騎士の男性からだった。
「あなたの住む場所柄ゆえ、今回の魔物騒ぎで困ってはいないかと様子を見に伺ったのだが…その際、スノウが酷く慌てたように現れてな。 もしやと思い、スノウが飛ぶ方角を追って来た。今回はスノウに感謝しなければ」
「そうだったのですね…ありがとう、スノウ。 ケインス様も、改めてありがとうございました」
野生である筈だが、とても人懐こい小さき友人の柔らかい羽毛を指先で撫でながら、ルーナリーアは若葉色の瞳を青騎士の男性へと向けた。この男性は言外に礼は不要だと言いたいのだろう。それでも、ただでさえ魔物騒動で帝都は混乱にざわめいているというのに、通常余程の事が無ければ《薔薇の騎士団》の騎士団長自らが雑草の区画に訪れる事等ない筈だという事もルーナリーアは理解している。
だからこそ優しき青薔薇の男性へ少女は深く頭を下げ、微笑んでみせた。
「……無事で何よりだ。 歩けるか?」
「はい、大丈夫そうです」
普段は寡黙がちであり、表情自体も大きく変化を見せないケインスだが、少女の礼句の何が琴線に触れたのかそっぽを向く横顔が微かに赤く、口元が緩んでいるような気がしたのは気のせいだろうか?
軽く首を傾けたルーナリーアに気付くと、男性は普段の凛々しい表情に一瞬で戻ってしまった。それを残念に感じるのは――自分だけにしか見せない表情を、もっと見せて欲しいという浅ましい願望の現れに思えてしまい、差し出された掌に自分のものを重ねて立ち上がりながらも、ルーナリーアは男性の顔を見る事が出来ず、微かに赤い頬を隠すように俯いた。
◇
夜の闇にひっそりと存在する“鎮めの森”は、つい先刻までルーナリーアにとって恐怖を増長させる場所でしかなかった筈だ。だが今は、闇に沈む梢の隙間から月光の光が差し込み、昼程ではないにしても随分明るく幻想的な様を見せるこの森が、怖い場所とは到底思えなくなっていた。
先程まで少女の腕中で戯れていた純白の小鳥は、闇を切り裂くように月の銀光をその翼に受け、軽やかに飛翔している。時折、こちらへ戻ってきては再び先へ羽ばたくあたり、どうやらルーナリーアの自宅まで道案内をしてくれる算段のようだ。静かな夜の森にご機嫌な友人の鳴き声が響き渡り、少女は思わず頬を緩ませた。次いで、自分の手を包み込む大きな異性の手に視線を落とし、一人頬を染める。
月光のみが光源となる森では足元がおぼつかぬだろうと、先程からルーナリーアの片手は“青騎士”の男性によって繋がれ、森の入口に佇む自宅へ向けて先導されている。素性の知れぬ三人組から追い掛け回されていた時よりも遥かに歩き易いのは、繋がっている手が地面から顔を出す根に躓かぬようにと誘導してくれているからだろう。
前を進む男性は元々寡黙な事もあって、お喋りを気軽にするような人ではない。現に今も、藍方石色の瞳は真っ直ぐに前を向いており、少女を映す事はない。だというのに、まるでこの男性の背中には第三の目があるようにすら思えてしまう程、少女が僅かにたたらを踏めば足を止め、歩き難い場所へ踏み出そうとしていたなら痛く無い力で手を引いてくれる。お陰で、ルーナリーアは潅木の隙間から自宅の玄関先に吊るしている洋灯の柔らかな光を見るまで、葉一枚すら衣服に付着する事はなかった。
「あ……」
自宅の灯りが見えた途端、少女が誰にともなく吐き出した小さな吐息には、隠しようのない疲労と安堵が混ざっていた。橙色の光が目に眩しく、しょぼしょぼと若葉色の瞳をしばたたかせたルーナリーアは、それを見下ろす男性の視線に気付いて思わず背を正す。
「申し訳ないが、私は戻らなければならない。 暴漢に襲われ掛けていたあなたを、本来であれば朝まで護衛せねばならぬのだが…」
「とんでもありません! 助けて頂いて、こうやって家まで送っていただいただけでも十分です。戸締りをきちんとしておけば、大丈夫だと思いますし…」
僅かな変化のみで、基本的には無を湛えている事の多い“青騎士”の男性は、今や誰が見ても一目瞭然な程に眉を寄せ、懊悩している様が透けて見えていた。それはきっと、責任感の強い男性であるからこその悩みなのだろう。ケインスが深く頭を下げてみせると、慌てたのは少女のほうだった。
頭を下げているため、此方を見てはいないと分かっていて盛大に首を左右へ振る。と同時に、必死で紡がれた言葉はどうやら男性にも届いたようだ。ゆっくりと頭が持ち上げられ、普段眩しい程の眼光を湛えている男性の瞳が伺う様な色を宿している事に気付くと、ルーナリーアは安心させるべく精一杯の笑顔を浮かべて見せた。
「そうか…では、戸締りは怠り無く、今宵は絶対に戸を明けぬように。 特に触れが無い限り、明日も外出は控えた方が良いだろう」
「はい、分かりました」
どうやら納得してくれたらしい。僅かに肩の力を抜いて諸注意を語り始めたケインスと異なり、肯定こそ返せど少女の頬には笑みが浮かんだままだ。
三年前に両親が流行り病で“枯れ”てしまった時から、天涯孤独の身となったルーナリーアにとって、ここまで身を心配してくれる存在というのが酷くくすぐったく、心地良い。それが、騎士を務める男性にとって万人に向ける優しさなのだとしてもたまらなく嬉しいのだ。
見上げてみれば、屋根の上にきらきらと輝く純白色の存在がある。それは月光に光る“友人”の姿だ。ルーナリーアが自宅に入るまで、周囲の安全を高い場所から見張ってくれているのかもしれない。訳も分からず恐ろしい思いもしたが、今日の魔物騒動で、ともすれば暫くの間“青騎士”の男性と顔を合わせる機会はないものと諦めていた為か、今だけは少しだけ。そう、ティースプーン半分くらいは感謝しても良いとルーナリーアは口元を緩ませた。
「では、失礼する」
「お気を付けてくださいね。 魔物の件が解消されていれば、また来週にお持ちいたします」
《花》の中で最も下位にあたる雑草のも至極生真面目な礼を返すケインスへルーナリーアは深く頭を下げて見せたが、いつまでたっても視界に映り込む少しくすんだ白銀色の鉄靴は、一向に動く気配を見せない。
一体どうしたのだろう?暫し無言の間を隔て、いい加減恐る恐るではあるが顔を上げたルーナリーアの視界に飛び込んできたのは、間近から見下ろす藍方石の鮮やかな青だった。
空に輝くのは昼間の眩い太陽ではなく、眠り往くものを包み込む優しい満月の光と、強弱様々な星達だ。だというのに、この男性は深く澄んだ海を見ているかのような錯覚すら覚える、綺麗な青の輝きを曇らせはしない。むしろ、普段よりも目尻を微かに細めているあたり、より一層眼光は睨まれているのではないかという程だ。これが出会った当初であれば、理由も分からず泣いて謝りそうなものだが、今のルーナリーアにとっては怖いものではなかった。
驚くとすれば、この男性が次の瞬間に取った行動だろうか。
「ケッ、ケインス様!?」
前触れなしの行動であった為、ルーナリーアがぎょっとして目を瞠った時には既に、少女の片手は男性の手中へすっぽりと包み込まれていた。ふわりと青薔薇の芳香が鼻腔を擽った時には、あろうことか“青騎士”は握った少女の手を口元へ持っていくと、手の甲へそっと口付けた。
夜風に晒され続けた皮膚は冷たく、男性の唇が触れた場所だけが燃えるように熱い。その熱さはルーナリーアの頬も真っ赤に染め上げ、あたふたとうろたえさせるには十分であった。稀花である男性の手を振り払う訳にはいかないし、そもそも嫌ではないけれど、このままでは心臓が爆発してしまう――顔を赤らめ、時には青褪めさせ、目を白黒とさせる姿は余程に滑稽だったのだろう。
ふと、男性の相好が柔らかに崩された。
無表情に近い顔が多い男性の、とても優しくて包み込むような微笑。思わず見惚れたように眺めていたルーナリーアだったが、ヒビやあかぎれで決して綺麗とは言えない手をそっと撫でながら解放されると、夜風の冷たさが一層身に染みるような気がして、少しだけ眉尻を下げた。
「ルーナリーア」
「はいっ、なんでしょう?」
淡々としている口調に反し、ルーナリーアが返せたのは上擦ってやや裏返った声だった。だが、それに余計慌てる暇もなく、藍方石色の瞳に捕らわれた。普段と同じでありながら、どこか違う感情を宿した瞳――それは、例えるなら恋人へ向けるような、焔を宿した瞳に。
伸びる手がルーナリーアの銀髪を一房掬い取った。
「どうか、一人きりで泣かないで欲しい。 泣きたい時は、私を呼んでくれ。あなたの涙を拭うくらい、してみせるから……お願いだ、私の“………”」
ざあっ、と一際強い風が梢を揺らし、男性の声を掻き消してしまう。
言い直す事はなく、少しだけ口角を持ち上げたケインスは掬い取った銀髪の表面に軽く唇を落とすと、甲冑の重さを全く感じさせない静かな動きで身を翻した。そのままルーナリーアの自宅近くの幹に繋がれ、じっとしていた白馬へ音もほとんど立てずに乗馬すると、微かな微笑みを残して《薔薇の騎士団》団長たる“青騎士”の男性は闇の中へ消えて行った。
それを見送った後、随分時間が経ってからふらふらと自宅の中に入り、言いつけ通り全ての鍵を施錠してソファに座り込んだまでは良く出来ていたかもしれない。何故なら、少女の脳内にはつい先程風に邪魔されながらも、確かに聞こえた言葉が延々と反芻されていたのだから。
―――絆花




