豊穣祭 5
酔った男のものとは思えない正確さで投げられた酒瓶は、舞台の上に佇んでいた少女の側頭部に吸い込まれるようにしてぶつかった。細い身体がぐらりと傾ぎ、か細い悲鳴が人々の耳にこびり付く。
当たった衝撃で舞台上に転がった酒瓶が鈍く陽光に反射し、銀髪の少女が頭上に戴いていた花冠がぱっと悲し気に白い花弁を散らした。
つい一瞬前まで陽気に騒いでいた人々も、《花》の乙女達も、騒ぎを収めようとしていた騎士も、そしてどうやら驚かすだけのつもりが運悪く命中させてしまった本人達さえも、金縛りにあったように動けず世界が時を止める。その中で、僅かに身動きをしたのは倒れ伏した銀髪の少女だった。
ゆっくりと上半身を起こすその顔は、何が起こったのか理解できかねる茫然としたものだ。瓶自体が小さなものであったこと、酔っ払いが投げた事でそう威力が無かった事が重なって、一見しただけでは怪我はしていない。ほっと吐き出された誰かの安堵が広場を満たした。
「――ねえ、団長。 ヤっちゃってもいいよね?」
「っ、ひッ…」
時を止めた静寂の中で、ゆるりとした声が上司に許可を尋ねた。
その声は、今しがた舞手の乙女に愚行を犯した男の背後――音も無く鞘走らせた白刃を首筋に当てた金髪の騎士が出したものだ。気配も全く感じず、何時の間にか背後を取られていた男性は、酔いも一気に覚めたらしく顔を青褪めさせている。
それもそうだろう。誰が聞いたとて、エストの発した言葉は許可を請うものではなく、単なる確認でしかない事が明瞭なのだから。
「…ならん、エスト。 豊穣祭での諍いは法度だ、我々が破る訳にはいかん」
「……」
淡々と部下を止める“青騎士”の声に、不服そうな面持ちながらも白刃を鞘へと納めるエストへ、少なからずの人間が安堵に肩を撫で下ろす。
だが、ケインスの青い瞳を向けられた渦中の男性達は、総毛立つような心地に死ぬ間際の魚が喘ぐかの如き顔色の悪さで、大きく息を吐き出した。
「“豊穣祭では”……な。 これだけの事をしておいて、のうのうとしていられるとは思っておるまい?」
架空の物語に出てくる魔法というものがこの男性に使えたとしたら、きっと氷像が幾つか出来ていたにちがいない。青い瞳には氷刃の如き鋭さと、絶対零度の冷ややかさが浮かんでいた。
今すぐにではないとしても遅かれ早かれ襲うだろう身の危険を感じ、男性達は媚びへつらう笑みを湛えて言い分を主張し始める。
「あっ、当てるつもりはなかったんだ!ただ、ちょっと驚かせてやろうと…怪我だってしてないだろ?」
「…身体に受けた傷以外、お前には見えないのか。 心の傷は、傷ではないと?」
青い瞳を冷たく煌かせ、《薔薇の騎士団》団長は凍りついた鋼の如き声を響かせた。ぎょっとしてそちらを見た男性は、次の瞬間、広場中に轟くかの如き咆哮にも似た“青騎士”の言葉に、今度こそ身を竦め沈黙を保つ。
「……お前には、矜持というものがないのか…!恥を知れ!!」
酔っていたのは男の思考か、自分の地位か。
一喝を受けて哀れな程に身を震わせる男性だが、同情の眼差しが向けられる事はない。それよりも、何か汚らわしいものでも見るように、人々は非難じみた視線で愚行に走った愚か者を睥睨していた。
「…エスト、タンジェ、ガーディ」
「はっ!」
「了解です」
「了解。 言い訳は牢の中で…聞かないけど連行しまーす」
酔った男性の傍に居た騎士の名を“青騎士”が短く呼ぶと、金髪の騎士と白銀の甲冑を纏った二人の男性が俊敏な動きで男達を拘束し、広場から連れ出してゆく。
それを見送る暇も惜しく、ケインスは身を翻して舞台へと足を踏み出した。広場に残って成り行きを見ていた部下の騎士達が目を瞠る程に、普段無表情に近い精悍な顔へ、明瞭な焦りを宿して――
◇
「ルナ!大丈夫?怪我は!?」
「おねえさま…っ、大丈夫ですか…!」
ソフィアとテレーゼの心配気な声が鼓膜を揺らす。
幸運な事に怪我自体は無いようだが、じんわりと側頭部に残る鈍痛に上手く返事ができず、ルーナリーアは血の気の引いた顔を俯かせた。その視界に映るのは、陽光にきらりと反射する硝子の酒瓶が転がっている。
若葉色の瞳に酒瓶を認めたとき、言いようの無い爆発的な感情がルーナリーアの胸内を占めた。何故、どうして、あなたたちは“私”ではなく《花》を見るのですか。《花》の地位だけを――…言っても詮無い事だと分かっていても、叫び出しそうになるのを辛うじて荒く吐き出した息に逃がし、震える睫毛の下に瞳を覆い隠して少女は唇を噛み締めた。
全ての人々が否定し、蔑む訳では勿論無い事を知っている。
それでも、ルーナリーアにこの世界は時折こうして牙を剥き、心に深い傷を残してゆく。
まるで、単なる雑草である事を忘れるなとでも言うかのように。
「ルナ、怪我はない?」
舞台下にいたはずのリーゼロッテが、すぐ近くで気遣わしげな声を震わせると、漸くルーナリーアは緩慢ながらも顔を持ち上げた。
そこには、リーゼロッテだけでなく、舞手の乙女達が全員眉を下げてルーナリーアの動向を見守っていた。
「…はい、少し目眩がしますが、怪我は…ない、みたいです」
ほんの少しの異変も見逃すまいとするような、危うい輝きを放つ紫水晶色の瞳へルーナリーアは苦笑混じりの声を吐き出した。恐る恐る片手を瓶が当たったところに触れさせてみたが、軽い痛みが走るだけでどうやら幸運な事に怪我は無いようだ。
途端に強張っていた肩の力を抜く彼女達へ、ルーナリーアは申し訳なさそうに目を伏せた。かなり心配をかけてしまったようだ。折角の舞台であったのに、台無しにしてしまった事も心苦しく、浅いため息が空気に零れる。
「ルーナリーア」
低い男性の声が自分の名を呼ぶと、少女は伏せた目を持ち上げた。
「ケインス様……」
舞台の上、舞手の少女達の背後にいつの間にか佇んでいたのは、“青騎士”の男性だ。篭手で覆われた手には、丁寧に畳まれた白布を持っており、舞手達の間をすり抜けるようにして進み地面へ座り込むルーナリーアの傍へひざまづくと、その布を少女の側頭部へそっと触れさせた。
熱を持った肌をひんやりと冷やす布は、冷たい水で濡らされており、心地良い。
余りの心地良さにふにゃ、と表情を緩めると、その姿が可笑しかったのか厳しい眼差しを湛えていた青い瞳には普段のような、穏やかな色が揺らいでいる。
「ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした…もう、大丈夫です」
「なら良いんだけど…ううん、良くはないわね。 なによあのオトコ!ほんっと最低!」
憤慨した声を上げたのはクドラだ。
まるで我が事のように憤りを露わにする優しい友人へ小さく笑うと、ルーナリーアはケインスの手から濡れた布を受け取り、ゆっくりと立ち上がった。途端に視界へ飛び込んできたのは、広場中といって過言ではない程の地位も様々な人々が、皆気遣わし気にルーナリーアを見上げている光景だ。
舞台に近い幾人かは騒動の元凶である男性達への非難と、口々にルーナリーアへ労わりの言葉を投げかける。勿論、面識もない彼や彼女達はこの少女が雑草である事を知った上で、だ。
驚嘆に丸く見開かれていた若葉色の瞳が、不意に細められた。
この世界は、決してルーナリーアに優しくはない。
これからもこういった事が無くなりはしないだろう。だが、それでも。
それでも――…
「……みなさん、ご心配ありがとうございます。 私はもう平気ですので、どうか、素晴らしい豊穣祭の始まりを楽しまれて下さい」
不思議なほど、心が凪いでいた。
普段であればこれだけの大衆を前に言葉を発する機会もなく、舞の直前まで緊張に青褪めていた少女と同一人物だとは思えない。ぴんと背を伸ばし、大きく開いた唇から柔らかな言葉を発するルーナリーアは、澄んだ声を震わせた。
見惚れるように舞台を見上げていた楽士の一人へ、生気に満ちた若葉色の瞳が向けられると、役割を思い出した指先が沈んだ空気を払拭させるかの如き軽快なメロディーを刻み始める。それに合わせて他の楽士達も次々に音を重ね、最後に銀髪の少女が涼やかな鈴音と共に最初のステップを踏めば、忽ち広場は元の賑やかな光景を取り戻した。
大衆の中、心配気な面持ちで様子を見ていた幼馴染の青年へルーナリーアは一つ、微笑みを返した後、軽く手を振る。それを見て少しばかり安心したのか肩の力を抜くクリスにもう一度笑顔を返すと、舞手の少女達が勧めてくれるままに後を任せ、ルーナリーアは舞台を下り控えの部屋へと向かった。
それに少し遅れるようにして少女の後を追うのは、巨躯の騎士だ。白銀の甲冑を纏うその背中を見た舞手の乙女達はそれぞれに顔を見合わせ――彼に、“青騎士”に少女を任せる事にした。
◇
怪我はしていないが、当たった場所が頭部なだけにいつ影響が出るかも分からぬ。その懸念から舞手の乙女達の言に甘える形で一人控えの部屋へと戻ったルーナリーアだったが、椅子に座るなり一部始終を見ていたらしき《薔薇の騎士団》の騎士から怒涛の如く体調を気にかけられ、目を白黒させた。
「その程度にしておけ」
呆れたような、嘆息にも似た低い声色が室内に響き渡り、ルーナリーアは瞳を丸く見開いた。
振り返った先には白銀の甲冑を身に纏いながらも、鈍重さや武骨さを全く感じさせない美丈夫が静かに佇んでいる。
まさか団長自らが来るとは思っていなかったのだろう。慌てて敬礼をした騎士の男性は、しかしながらたっぷりの沈黙と何事か思案するような眼差しで銀髪の少女、それから上司を見た後おもむろに声を張り上げた。
「あ、団長………………あ!俺には外の見回りが残されていたんだった!すみませんが、団長はルーナリーアさんの介抱をお願い致しますであります!じゃっ!」
「お前には見回りを任せてな………」
事情を知らぬルーナリーアが首を傾げるのはともかく、団員全員の配置を頭に入れている“青騎士”はそうもいかない。青い瞳を細め、低く吐き出した叱責にも似た声がかの騎士に届く前には、既に後姿さえ見えなくなっている。
入団した当初は生真面目一直線だったはずの彼は、確実に直属の上司からの影響を受けているようだ。
「あ、あの…ケインス様?」
今頃は“花皇宮”の地下部にある牢に辿り着いているだろうのほほんとした金髪の騎士を頭に思い浮かべ、軽く眉を顰めたケインスの鼓膜を震わせる柔らかな声は困惑気味に揺らいでいた。ゆっくりと視線を転じた視界に映るのは、腰掛けていた椅子から立ち上がり、おろおろと“青騎士”を見上げるルーナリーアの姿だった。
「座っていなさい。 暫くは休んだほうが良いだろう…後々影響が出るとも限らん」
「はい…失礼します」
見た目だけでは判然としない表情だが、藍方石を思わせる深い青色の瞳には穏やかさが横たわっていて、少しばかり躊躇したルーナリーアも低い声に促されて再び椅子へと腰を下ろした。
素直に従う少女の姿を見下ろすケインスの表情は穏やかであったが、微かに赤みの残る頬から目元の肌に軽く眉を寄せたなら、椅子に座るルーナリーアと視線を合わせるように片膝を付く。それに目を丸くしたのはルーナリーアだ。
「ケインス様!?」
「……少し、腫れている」
篭手と繋がった黒革の手袋に包まれた指先が、そぅ、とルーナリーアの肌に触れる。
甲冑装備を身に着けているとは思えないほどの繊細さで触れた手からは、硝子細工に触れるような恐る恐るといったぎこちない動きも感じられる。触れた事で走る痛みはごくごく僅かだったが、微かに眉を寄せた事に気付いたらしい。
たとえ手袋に覆われていても、痛みを与えても、離れる指が酷く残念に思えた。
「済まない…本来であれば我々が止めていなければならなかったのだが…」
「いいえ、怪我もありませんでしたし…きっとお酒に酔い過ぎていたんですね、どうか余りあの方達を責めないでください。折角の豊穣祭…大祭ですから」
淡い笑みを浮かべるルーナリーアに、ひどく驚いたように見開かれる青い瞳が重なった。
無表情に近い人だと思われがちではあるが、この人はきっととても心情豊かな人なのだ――と妙な事を考えたところで、何故だか青い瞳の奥に揺らぐ小さな炎のような感情が垣間見えて、ルーナリーアはうろたえた。なぜなら、それは怒りの感情だったからだ。
「ルーナリーア」
「は、はい…」
「何故、君は怒らない」
「……はい?」
思い至らないところで不快にさせてしまったのかと身を縮こまらせていたルーナリーアだったが、唸るように吐き出された言葉に思わず目を丸くする。これではまるで、怒れと煽られているようではないか。
事態が理解できず、さかんに瞬きを繰り返す少女へ、対するケインスは眉間の皺を深めるばかりだった。
「大衆の前で、あれだけの事をされたんだぞ」
「は」
「幸い、大きな怪我は無かったが…女性の顔に傷がついていたらどうする」
「え、」
「そもそも神聖な舞手に手を上げるなど…望めば極刑にもできるというのに、祭を楽しませてやれだと?」
「あの…」
「舞の稽古を懸命にした貴女が、なぜ、そう笑って……っ」
言い返す暇も与えず、一息にまくしたてたケインスは最後に息を詰まらせる。大きな声ではなく、とても静かに吐き出される言葉だったが、そこには深い哀しみと苦しみが胸中を苛んでいるようで、眉間に寄せられた皺は深いままだ。
矢継ぎ早な言葉に目を丸々とさせていたルーナリーアは、苦悩に満ちた青い瞳を伏せるケインスを見下ろして――極、自然と笑顔が零れた。喫驚に口をつぐむ体格的に倍はあろうかという男性へ向ける眼差しはとても穏やかだった。
手中の白布に視線を落とし、ルーナリーアはゆっくりと若葉色の瞳を閉ざした。
「小さな頃から、雑草というだけでああいった扱いはいつもで…私の《花》を恨んだ事だってありました」
一時的な闇に閉ざされて見る事は叶わないが、微かに空気を震わせる振動は、“青騎士”の男性が息を呑んだ音だろうか。それもそうだろう、稀花である彼が道を歩いていただけで足を引っ掛けられたり、突き飛ばされたり、全く知らない大人から毒に滴る罵りを受けた事はないだろうから。
「でも……私はとても、幸運です」
銀の睫毛が微かに震え、再び瞼が開いたとき、その目には絶望や悲嘆ではなく、強くも柔らかな光が宿っていた。理不尽な扱いを、過去も、そして現在も受け続けている少女の瞳は、朝露に濡れる夏の若葉を思わせる輝きでケインスを貫いた。
「私には、何かあった時に私よりも怒って、心配してくれて…一緒に笑ってくれる人達が沢山いるんです……嬉しい事ばかりではないけれど、大切な人達がいてくれるから…私は、大丈夫」
春の木漏れ日の下で、慎ましく咲く白い野苺の花。
たおやかでいてどこか脆く、それでいて惹き付けてやまないその花は、今の少女が浮かべる笑顔そのものだ。厳しい冬を耐え、根を張る小さな花のように、とても芯が強い女性――
「ケインス様」
桜色の唇が“青騎士”の名を呼び、ケインスは思考に落ちかけた意識を浮かび上がらせた。
持ち上げた藍方石色の瞳に映るのは、花姫の如き微笑。
「ありがとうございます…ケインス様も、エストさんも、騎士団のみなさんも……怒ってくれて、心配してくれて、本当に…嬉しかったんです」
この世界は時折、ルーナリーアに傷を残してゆく。
だが、それを差し引いて有り余るほど、暖かな人達が支えてくれるこの世界。
雑草として生まれたこの世界は――それでも。
「嬉しいばかりではないけれど…私は、……この世界が大好きです」
この世界は、こんなにも優しい《花》で満ち溢れているのだから。




